魔王の娘
朦朧とする意識の中で、スティナはその光景をただ眺めていた。
自身の周囲では炎が蠢き、一挙手一投足のたびにそれらが踊り、飛び跳ねる。
向かっていくのは視線の先、そこにいる黒髪黒瞳の男の元へとであり、まるでじゃれ付いてでもいるようだ。
もっとも、抱きつかれたら最後、皮も肉も骨も、その違いなどはなく、ただ焼き尽くされてしまうだけだろうが。
今のところ全てをかわし、防ぐことは出来ているようだが、それもいつまで続くか、というところだろう。
それが分かったところで、出来ることなど何一つないのだけれど。
自分の今の状況を、スティナは大体のところで理解出来ていた。
魔神の依代にされてしまうところまで、しっかりと意識は残っていたのだ。
途中で若干意識が飛んでいるものの、そこから現状を推測することはそう難しいことでもない。
とはいえ、推測できたところで、それが何らかの役に立つかは話が別だ。
いや……もっとはっきりと、そんなことが出来たところで何の役にも立たない、と言ってしまっても構わないだろう。
事実、その通りでしかないのだから。
今のスティナの状態は、ほぼ完全に魔神に乗っ取られている状態だ。
思考することは可能だが、逆に言えばそれ以外のことは何も出来ない。
目に映っているのは見えるし、音も聞こえているが、それらは言ってしまえば垂れ流されているだけなのだ。
自分の意思で目を移動させたり、耳を塞いだりすることは、出来やしない。
この状態に何か意味があるのかと言えば、別にありはしないのだろう。
単純に自分はまだ生きているから、思考は出来るし届いたものを認識することも可能だという、ただそれだけのことである。
魔神にも意識のようなものはあるようなのだが、こちらとの交流を望んでいないからか、何を考えているのかはよく分からない。
とりあえず、ニコラウスの言うことに従ってはいるようだが……まあ、考えたところで、意味のないことか。
どうせ、何が出来るわけでもないのだから。
それは諦めから来る思考ではあったが、仕方のないことだろう。
事実何もすることは出来ないのだし、思考を続けたところで意味があるとも思えない。
何せあの養父ですら、ああして逃げ回ることしか出来ていないのだ。
時折こちらに向けられる視線から、まだ諦めてはいないようだが……どうにか出来るのならば、とうにどうにかしているはずである。
つまりは、それは単なる悪あがきだ。
きっと結末は決まっていて……それを理解しながら抗えるほど、スティナは強くなかった。
あるいは……ニコラウスの言ったようなことをスティナも思えていれば、また別だったのかもしれない。
確かに養父は、イオリは、元勇者は、自分にとって仇と言うべき存在なのだ。
一片の恨みでも抱いていたら、この状況に諦めではなく、他の感情を抱いていたりしたのだろうか。
もっともだとしても、結局現状の解決には何一つ役に立ちはしないのだけれど。
そして実際のところ、恨みなど抱いてはいないのだから、やはり意味のないことである。
例え相手が、父を殺した仇なのだとしても、だ。
まあ、そもそも仇などと思ったことは一度もないので、当然ではあるが。
魔族の一員としても……娘としても。
端的に結論を言ってしまうのであれば、スティナは正真正銘魔王の娘である。
イオリではなく、イオリによって討たれた魔王、その血を引いているのだ。
そもそも、現状真の意味で魔王を継ぐ者が現れていない以上は、アイナではなく、スティナをこそそう呼ぶのが正しい。
スティナがソーマにそう名乗ったのは、そういう意味でまったくもって正しかった、ということである。
ちなみに、真の、とはそのままの意味だ。
イオリは所詮、名を継いだということを対外的に発表したに過ぎない。
本当の意味で魔王と名乗るには、色々と足りていないのである。
本来魔王という名は、世界から与えられるものだ。
世界に仇なすと認定されたものに対しての目印。
それが魔王という名の真の意味なのである。
そしてそれこそが、前魔王派などと呼ばれる者達が、イオリのことを決して新たな魔王だとは認めていない理由であった。
彼らはそれを知った上で、魔王を崇拝し、付き従っていたのである。
ある者はそうして抗う姿に希望を見い出し、ある者は絶望に沈みながらその姿に羨望を覚え、またある者はそこに確かな力を感じ取った。
理由は各々異なれども、世界と敵対している姿にこそ、意味があったのだ。
そういう意味では、イオリはむしろ真逆の存在だと言える。
勇者とは、世界に付き従う側だからだ。
厳密には世界ではなく人類に、ではあるのだが、世界が滅んでしまえば人類も滅んでしまうことを考えれば、そこに大差はあるまい。
人類に存亡の危機が訪れた際、人類の内部から、あるいは外側から生まれいずる決戦存在。
人類の守護者。
それが勇者の別名であり、本来の名であるがゆえに。
魔神が勇者の天敵たらんとする理由も、実のところそこにあった。
勇者は世界へと、人類へと敵対する者に対しては絶大なる力を発揮するが、その代わり世界へと属する者に対してはその力のほとんどを発揮できなくなるという制約が存在しているのだ。
神やそれに類する存在に対してはほぼ無力と化してしまうのである。
そして魔神とは神という名が付いている通り、世界の側へと属する存在なのだ。
正確にはそう調整されたのではあるが……ともあれそういったわけで、勇者は魔神に対抗することが出来ないのである。
元、であろうとも、そこに違いはない。
そもそも元勇者などと呼ばれているのは、魔王を倒すという使命を既に果たし終わっているからに過ぎないのだ。
それは定義的な意味でしかなく、本質的にはイオリは勇者であることから何一つ変わっていないのである。
だからこそイオリはこちらからの攻撃に対して、逃げ回る以外の手が打てないのだ。
もっとも、単なる魔神というだけであれば、まだ幾つか抜け道が存在しているのだが――
「ふむ……先ほどから逃げ回ってばかりいるようですが、どうかしたのですかな? あなた様ほどの人物であれば、天敵を相手にしたところで何か打てる手がありそうなものですが……それとも、まだ隠しておくつもりだと、そういうことでしょうか? いえ、あるいは、義理とはいえ、やはり娘相手に手をあげることは出来ない、ということですかな?」
「ちっ、白々しい真似を……出来るんならとっくにやってるっつの。というか、俺もてっきりスティナが原因なのかと思ってたんだが……どうもこの様子だと、別の理由がありそうだな? ……それ、ただの魔神じゃないだろ?」
「おや……そこに気付くとは、さすがと言うべきですかな。ええ、まあ、隠しておいたところで意味はありませんから、白状してしまいますが、実はこの魔神を復活させる際に核としたのは、邪神様の力の欠片なのですよ」
「邪神の力の欠片、だと……? そんなもんがそう簡単に手に入るわけないと思うが……」
「そうですな、私もそう思っていたのですが……何と、ある日偶然見つけましてな。ええ、はい……本当に偶然、道端に転がっていたのです」
「は……?」
その声は、訝しげ、というよりは、お前ふざけてるのか、とでも言いたげなものであった。
だがそれも、当たり前のことだろう。
すぐ傍で聞いていたスティナですらそう思ったのだ。
大体内容からして、明らかにふざけたものだとしか考えられない。
しかしどうやらそれは、大真面目に言っているようであった。
「ええ、そうでしょうな、信じられないのも無理ないとは思います。正直なところ、私も信じられませんでしたし。ですが全ては現実で、真実なのです。ええ、はい……これもきっと我らが神の思し召しだと、そういうことなのでしょう」
「我らが神、ね……邪神『様』とか言ってたからそうなんだろうとは思ってはいたが……ったく、こんなとこにも邪教徒が紛れてやがったか」
「おや、紛れていた、とは心外ですな。むしろ我らが同胞のほとんどはそうでしたぞ?」
あまり認めたくはないことではあるが、それは事実であった。
前魔王派などと呼ばれる者達は、その大半が所謂邪神を信捧する邪教徒だったのである。
スティナがそれを知ったのは、旗頭となってからのことではあるが、正直勘弁して欲しかった。
父親がそうであるということは、薄々勘付いていたとしても、である。
「まあ、ともあれ、そういうわけで、手に入れる事が出来たものをありがたく使わせていただいたのですが……実は正直なところ、量も質もあまりよくなかったのですよ。そのため力の底上げをするには役に立たなかったのですが……どうやらそちらには十分過ぎるほど効果があったようですな」
「最悪なことに、な……!」
言っている間も襲い掛かり続けていた炎を、イオリは後方へと飛び退くことでかわし……だがその勢いが、ある地点で唐突に失せた。
まるでそこに壁があるかのように、イオリの身体が空中の中途半端な場所で止まったのだ。
周囲に張り巡らされた結界であった。
結界の内と外とを物理的にも遮断してしまうものであり、主に周囲へと影響を及ぼさないようにするためだったり、逃走防止のためなどに用いられるものである。
前者というよりは後者のためにニコラウスが使用したものであり、もっと正確に言えば、単純にイオリの行動範囲を狭めさせ、阻害させるためのものだ。
とはいえイオリが本気で打ち破ろうと思えば秒と持たずに壊れてしまうだろう程度のものでしかないが、今回はそれで十分であった。
そんなことをしようと思えば確実に隙が生じ、それは魔神相手であれば致命的なものになりかねないからだ。
もちろんそれだけで倒すことは出来ないだろうが、組み伏せるぐらいのことは出来るだろう。
そしてそうなれば、いくらでもやりようはある。
何せイオリの攻撃は、魔神に傷を負わせるどころか、そもそも無効化されてしまうことが分かったのだから。
邪神などと呼ばれていようとも、正式な神の一柱である。
それと組み合わせ、掛け合わせた魔神と勇者の相性は、まさに最低最悪であり、最高だったのだ。
本来の魔神であれば、天敵とは言っても無効化とまではいかなかっただろう。
そこを突く事が出来れば活路はあり、抜け道とはそういうことだったのだ。
だが無効化されてしまう以上はそれも不可能であり……また、だというのに、ニコラウスに油断はないようであった。
使われているからこそスティナにはよく分かるのだが、ニコラウスは言動こそ余裕ありげにしているものの、その心中は常に警戒を続けているのだ。
この状況からでも、一瞬でも隙を見せたらどうなるかを、よく理解しているのである。
そして、それを理解され、常に警戒されてしまっているからこそ、イオリに勝ち目はなかった。
あるいは、あるとすれば――
「やれやれ、さすがは元勇者というところですが……いい加減、仇を討たせてさしあげてはいかがですかな?」
「それがスティナの意思だっていうんならまだ少しは考える価値があるが……生憎とそうじゃなさそうだからな」
「さて、口では勇ましいことを言っておられますが……その虚勢が、いつまで続きますかな?」
言葉を放つのと同時、ニコラウスの意思に従い、スティナの身に降りた魔神が、スティナの意思を無視し、動く。
腕を振るうことで凄まじい熱量を持つ炎が生まれ、イオリへと向かって叩きこまれたのだ。
だがさすがに防御することに対しては影響を受けないのか、イオリは移動を続けながらそれを受け流しつつ、一瞬彼方へと視線を向ける。
そこでニコラウスが唇を噛んだのは、その意味するところを理解しているからだろう。
スティナも、それには気付いていた。
それは陽動を行っているはずの方角であり、そちらから断続的に続いていた音は、今ではその頻度をかなり減らしていたのだ。
敢えてそんなことをする必要性はないはずなので……それは単純に、その実行が徐々に困難になりつつある、ということなのだろう。
誰かがそっちへと向かったと、そういうことだ。
この地に残っているのは、イオリの他には執事長だけだろうとニコラウスは予測したのだろうし、てっきりスティナもそうだと思っていたのだが……城の守りを放棄してそっちを優先したということだろうか?
他にも部隊がいることなど、イオリ達は承知の上だろう。
ニコラウスはわざと分かりやすいように展開していたのだから、当然だ。
陽動を討つよりも城の守りを固めると読んでのことだったのだろうが、その予測は外れたということなのだろうか。
正直なところ、スティナも同じ事を考えていたものの……まあ、誰もいない城の守りを固めることには、それほど意味はないと言えばない。
一時的に放棄したところでそこまでおかしいということはなく、あるいは、他にも誰かが残っていたということなのかもしれない。
しかし何にせよ、それが意味するところは一つだ。
これ以上時間をかけてしまえば、何が起こるか分からない、ということである。
時間をかければかけるだけ、陽動の方へと向かった誰かがこっちへとやってくる可能性が高くなるからだ。
それはこちらからすれば望むところではあるが……当然のように、それを易々と許すニコラウスではない。
「……ふぅ。これはあまりやりたくなかったのですが……仕方がありません、か。申し訳ありません、スティナ様。ですがどうかお恨みになられるのは、あなた様のお養父様にしてくださいますよう、お願いします。彼が素直に諦めてくれたのでしたら、こんなことはせずに済んだのですから」
「――おいお前、何を……!?」
「――アストライアー、やりなさい」
その言葉が、合図であった。
今まで何を考えているのか分からなかった魔神から、明確な感情が届く。
それは喜色であり……気のせいでなければ、嗤ったような気さえする。
そして。
『――――!!??』
次の瞬間、全身を走った痛みに、スティナは声なき声で、叫んだ。




