妹と兄と
端的に結論を言ってしまうのであれば、リナ・ノイモントは非常に苛立っていた。
しかもそれは突発的なものではなく、慢性的なものである。
つまりはとあることが原因で、ずっと苛立ちっぱなしだということであった。
その原因を探し窓の外へと視線を向けるが、今日はまだ姿が見えないらしい。
それが何故かさらに苛立ち、つい大きな溜息を吐き出してしまう。
と、どうやら運悪くそれを目撃されてしまったようだ。
今までずっと響いていた声が途絶え、鋭い視線を感じる。
嫌々ながら顔を向ければ、眼鏡をかけた家庭教師の一人が、予想通りに目を吊り上げていた。
「――お嬢様、聞いていらっしゃいますか!?」
続けて放たれた金切り声に紛れるように、小さく息を吐き出す。
聞いていない、と言ったらどうなるかと一瞬思ったが、余計面倒なことになるだけなので黙っておいた。
まあ事実聞いてはいなかったのだが、それは聞く必要がなかったからだ。
既に理解していることを聞くなど、時間の無駄にも程がある。
「……聞いてるのです。つまり母様が頑張った結果、この国は平和になったのですし、今も頑張っているからこそ、魔族が侵略してくることなく平和であり続けている、ということなのですよね?」
「え、ええ……まあ、そういうことですが……しかし、それだけでは――」
「そして父様も頑張っているからこそ、他国がこの国に攻め込んでくることはない。ちゃんと分かってるのです」
「は、はい……申し訳ありませんでした。ですが、聞いているのでしたら、もっとそれらしい態度でいてくれませんと困ります」
「それはすまなかったのです。ちょっと窓の外に気になったものがあったですから」
「窓の外、ですか……?」
そこで家庭教師が首を傾げたのは、そこから見えるものにろくなものはないということを知っていたからだろう。
リナの部屋は、位置的には屋敷の東端に存在している。
しかも今リナのすぐ傍にある窓もまた東側にあり、そこから見えるのは屋敷の側面方向にあるものなのだ。
そしてそこに広がっているのは、基本見るところのない退屈な光景である。
のどかな、などと言ってしまえば聞こえはいいものの、要するに土と草と木々、時折空を横切る鳥と……極稀に、この真下を通って裏庭へと向かう奇特な人物を見かけるぐらいであった。
「まあ、もう見えないですから、気にする必要はないのです」
「はあ、そうですか……」
家庭教師は釈然としてはいないようだが、自分の役目を思い出したのだろう。
「まあ、分かりました。では授業を再開しますが……いいですか、しっかりしてくださいね? でなければ、お嬢様もアレのようになってしまうかもしれないんですから。それはお嫌でしょう?」
「はいはい、分かってるのですよ」
いつも通りのお小言を聞き流し……しばし真剣に聞いている振りをしたところで、リナは窓の外へと再び視線を向けた。
どうせ退屈ならば、こちらの方が何倍もマシであり――
「……っ」
だが先ほどまでは見かけなかったその人影を見つけた瞬間、リナは咄嗟に唇を噛んでいた。
それは単純に、これ以上苛立ちが増さないためにである。
そう、その人物こそが、リナが最近ずっと苛立っている元凶なのだ。
だからそうするのは、当然のことであり……それ以外の意味などはないのである。
「……って、誰に言い訳をしているのですか、わたしは」
ひっそりと呟く間にも、その人物はリナの視界の中を動き、横切っていく。
一分も経たずにその姿は見えなくなり……無意識に、リナは息を一つ吐き出していた。
ふとその脳裏を過ぎるのは、一週間ほど前のこと。
その人物――かつて兄と慕ったその人物と、一年ぶりに会った時のことであった。
同時に湧き上がるのは、楽しげな感情……では、ない。
どちらかといえばそれは、怒りに似たものだ。
一年ぶりに会ったのにあまりにも自然すぎないかとか、もっと喜んでもいいんじゃないかとか、可愛くなったとか言ってくれてもいいんじゃないかとか、まあそういうのはちょっとしか思っていないのでどうでもいいのだが。
一番リナの癪に障ったのは、その顔であった。
兄であった彼が楽しそうであったことに、リナは腹が立ったのだ。
ただ、それだけであるならば、無難な言葉だけを交わし、別れていたかもしれない。
それが出来なかったのは、彼が自分に向けてきた言葉――その誘いが原因であった。
外に誘われただけであったのならば、何の問題もなかっただろう。
というか、単純に外に出るだけならばリナは彼よりも余程多く出ている。
その大半は望まぬものであったとしても、外に出ていることに違いはない。
だから、ただ外であればよかったのに……あの時のことを引き合いにだされるのだけは、我慢が出来なかった。
あの日あの時あの場所で。
たった一度だけリナが彼の後を着いていき、目にした光景。
今も鮮明に思い出せるそれを、彼自身の手で汚された気がしたのだ。
勿論それは気のせいで、言いがかりである。
その程度のことは分かっていた。
だが分かっていたといって、我慢が出来るかは別の話なのだ。
むしろ、色々なことをぶちまけなかっただけ、我慢できた方だろう。
もっとも、それで何かが変わったかといえば、そんなことはないのだろうけれど。
もうとっくの昔に……一年前に、リナと彼――ソーマの道は分かたれてしまったのだから。
――今後兄はいないものとして思いなさい。
――いえ、最初からそんなものはいなかったのよ。
リナが母からそんな言葉を告げられたのは、五歳を迎える、その誕生日パーティーでのことであった。
リナがそれまでに知っていた誕生日というものは、兄と母と屋敷の人達がひっそりと祝ってくれるというものだ。
勿論それだけで十分に嬉しいものだったのだが、その日はなんと盛大なパーティーが行われたのである。
それを喜ばないわけがないし……しかしその場に集まった人達を見渡した時、初めてそれに気付いた。
兄がいないということに、である。
だからリナは母に尋ねたのだ。
兄様は何処にいるのか、と。
そしてその返答が、先のものであった。
――その場で最も不幸なことが何であったかといえば、華やかで煌びやかな誕生日パーティーで、リナが母からそんなことを告げられた……ということでは、ないだろう。
それは、リナがその言葉の意味するところを、正確に理解出来てしまったことだ。
これは実のところ、ソフィアですらも予想外のことではあった。
ソーマのことがあり、多少子供の成熟具合にフィルターがかかっていたものの、ソフィアにはソーマが特別であり、子供は子供だという認識はあったのだ。
だからそれを伝えたのは、そうしなければならないという義務から生じたものであり、本当に理解出来ると思ったわけではないのである。
これからゆっくりと理解させていかなければならないのだろうなと、憂いすら感じていたのであり――
「……分かりましたなのです、母様」
そう頷く目を見た時に、初めて理解したのだ。
リナもまた十分以上に早熟な子供であり――所謂、天才と呼ばれる人種だということを、である。
そしてそれは、本来の意味での天才だ。
ソーマは前世があるが故の理解度の高さだが、リナは自前の才能だけでその理解力を発揮する。
自分の立場、兄の立場、母の立場。
その全てを、この状況と母の言葉だけで、理解してしまったのだ。
それは間違いなく不幸なことであり、そのことにはソフィアもリナも気付いていたが、どうしようもなかった。
リナもまたソーマと同じように自分の家が普通ではないということは理解してしまっていたし、貴族の義務というものも知っていたのだ。
……或いは、知らない振りをすることも出来ただろう。
そうすることが、きっとリナにとっては一番よかった。
だがこうすることが最も皆が不幸にならないということも、リナには分かっていたのだ。
だからそれを素直に受け入れて――
「……だからこそ、なのです」
思わず呟き、しかしはっとしてその場を見渡すと、既に家庭教師の姿はなかった。
そういえばと思い返してみれば、上の空のまま見送ったような記憶もある。
こちらがそんな様子だったというのに何も言われなかったのは、単純に気付かなかったのか、それとも面倒事を嫌ったのか。
「……まあ、どちらでもいいことなのです」
懐から懐中時計を取り出し、時間を確認してみれば、次の家庭教師が来るまで、まだ少しだけ時間があった。
そのせいだろう。
時間を持て余したリナは、手元のそれから目を逸らすように、窓の外へと視線を向け――それを見てしまった。
タイミング良く……或いは悪く、裏庭の方から戻ってくるソーマの、その姿を。
――ソーマはリナにとって、憧れであった。
誰に対しても自分を曲げず、貫き通していたその姿は、間違いなく今のリナへと影響を与えている。
常に自信に満ち溢れ、どんな状況であろうとも一歩も引かず……だが。
そんなソーマの姿が虚飾でしかなかったことを、今のリナは知っているのだ。
だってそうだろう。
ソーマには何のスキルもなく、今後覚えることもないのだ。
才能がなかったということは、ソーマは虚勢を張っていたということなのである。
或いはそれが、ただの子供であれば、子供らしいとか思ったのかもしれない。
子供特有の万能感によるものだと。
しかし相手は、あのソーマだ。
それに気付いていなかったとは、とても思えない。
……いや、だがまだそこまでは、許容範囲ではあった。
自分のスキルのことを、知らされてはいなかったのだ。
なら未来に期待をして、そこに確信を持っていたとしても、不思議ではないだろう。
事実家庭教師達が心から褒めていたということも、リナは知っているのだ。
ならば、たとえあれが虚飾であったとしても、そこには根拠が存在していた。
だがそれも結局は、スキルのことを知るまでだ。
それからのものは……この間の、今目にしている、その姿は。
どう考えても、作られたものでしか、有り得なかった。
だから。
「……止めて欲しいのです」
あの頃と変わらない姿を見せないで欲しい。
たとえそれが自分のためであったのだとしても、今では虚しさしか感じないから。
あの森になどもう行かないで欲しい。
あの日あそこで見た剣舞を、今でもリナは覚えている。
それがただ子供だったが故でも、凄いと思ったのは事実だから。
現実はそうでないのだとしても、記憶の中だけでも綺麗のままでいさせて欲しかった。
けれど。
「……それが、叶わないのでしたら」
笑みを浮かべるソーマの姿を眼下に眺め、リナはその拳を握り締めながら、決断した。
ソーマの顔に笑みが浮かんでいるのを見て、限界だと悟ってしまったから。
――そんなリナは、一つ忘れていることがあった。
いやそれは、ソフィアや家庭教師達も忘れ、気付いていないことだ。
それは、リナが未だ子供だということであった。
どれだけ早熟で、天才でも、子供であることに違いはないのだ。
故に、その思考が間違ってしまっていることに、気付けない。
先ほどの家庭教師を筆頭に、新しくやってきた家庭教師達が、ソーマのことを無能と呼び、蔑んでいた。
そのことは、周囲の考えている以上に、リナへと影響を与えていたのである。
そう、繰り返すが、リナも所詮は子供なのだ。
子供なのに、これほどまでに頑張り……しかし眼下の存在は、そんなことは知らぬとばかりに笑っている。
それは最後の一歩を踏み出すのに、十分過ぎるものであった。
言葉が交わせぬ以上、事実は関係がない。
目に映り、認識出来ることだけが全てである。
かつては、それをこそ望んだのだとしても。
その身に、どれだけの才能があったのだとしても。
その心はとっくに、限界を超えていたのだ。
だから。
去っていくソーマの後姿を見つめながら。
美しい記憶ごと全てを壊してしまうことを、リナは決めたのであった。
 




