エルフの森を後にして
目の前に山と積まれた羊皮紙を前に、ヨーゼフは思わず溜息を吐き出していた。
だがそれも仕方のないことだろう。
報告の必要があることが山ほど存在しているのは分かっていても、これは未だその一部でしかないのだ。
その全てを処理し終えるのに果たしてどれほどの時間がかかるのかを考えれば、溜息の一つや二つ漏れるのも当然である。
「とはいえ、誰かにやらせるわけにもいかん、か」
というか、誰に代わりにやらせたところで、最終的にはヨーゼフが確認しなければならないのだ。
ならばそこには何の意味もない。
「ふんっ……くだらんことを考えている暇があれば、さっさと終わらせるか」
そんなことを呟きながら適当に羊皮紙の一つを手に取ると、ざっと眺めては判を押していく。
いちいち精読などしていられないし、中身は大半が見知ったものだ。
ヨーゼフが確認したという証さえあれば、あとは担当者が適宜処理していくだろう。
そうして次々と処理していくが、そのほとんどはやはり予想通りのものだ。
最も多いのが先日の森神の一件に関してであり、その不安を訴える声が多い。
まああの時の衝撃は、未だヨーゼフもはっきりと覚えている。
近くにいたことも無関係ではないだろうが、おそらくは離れていたところで大差はなかっただろう。
それほどまでに凄まじい気配と、それに伴って感じた恐怖は忘れようと思ったところでそう簡単に忘れられるものではない。
「ふんっ……まあ、あれだけのものだ。滅びたと言われたところで早々安心出来るものではないか……」
幸いにも……或いは不思議なことに、エルフがこの地での優位性を失うことはなかったが、あれの気配はそれこそ生まれた時からずっと感じていたものである。
それを強烈に感じたとなれば不安に思わない方がおかしいし、逆にそれを感じなくなったことで不安を感じるといった声も多い。
皆が以前のような生活を取り戻すには多少の時間が必要そうだった。
「とはいえ、逆に言うならば時間以外での解決は難しいか。あれを見せれば多少はマシになるかもしれんが……ふんっ、今度は逆に別の不安を覚えそうだな」
何せヨーゼフ自身がそうだったのだ。
あれを目にした時の衝撃は、森神が目覚めその気配を感じたとき以上のものであり……きっと、一生忘れられないだろう。
強烈な衝撃と轟音。
まるで世界でも砕け散ったのではないかと思うそれに、つい外へと向かい……そこに広がっていた光景に、目を見開いた。
何せ比喩抜きに大地が砕け、その八割ほどが消失していたのだ。
底の空間には罅が入っており、どう見ても崩壊寸前といった有様であった。
隔離世界でなければ、或いはどれだけの被害が出たのかは分からない。
ただそのおかげで、こちら側には被害らしい被害は出ておらず、魔女も滅びたのだというこちらの主張に説得力が増すということを考えれば、そう悪いことばかりでもないだろう。
「ふんっ、そのせいであそこはもう使えなくなり、我が家もこちら側へと引っ越すこととなったが……まあ、構わんか。元々無駄に広すぎたのだ。不便でなくなったことと合わせ、利点だろう」
一応何処かの国から突っ込まれた場合、その惨状を見せるために保存してはいるものの、さすがに危険すぎるためにあそこにあったヨーゼフの家ごと破棄したのだ。
修復できればまた別のことにも使えただろうが、生憎とあれは魔女の森のあるあそこと同じく、始まりの魔法使いより始祖が直々に賜ったという大魔法により作り出されたものである。
その危険性を考えてか始祖は誰にも伝えず姿を消しているため、誰であろうとあそこに手を加えることは不可能だ。
惜しくはあるものの、まあ仕方のないことである。
「……出来れば賠償を請求したいところだが、魔女がその命と引き換えに作り出した光景、ということになっている以上はそうもいかんしな。ふんっ、まあ――むっ」
と、ここ最近に起こった事を整理がてら思い出していると、その締めくくりに相応しい報告書が見つかった。
それは妹のシーラが、再度この森を出て行く旨を記したものであり――
「同行者二名、か……」
呟くと印を押し、無造作に放り投げる。
睨み付けるように天井を見上げ――ヨーゼフはまだ痛む頬を撫でながら、ほんの少しだけその口の端を吊り上げた。
「賠償は勘弁してやるが……妹二人を泣かせたりしたら、承知せんぞ?」
「……うん?」
誰かの視線を感じたような気がして、ソーマはその場に立ち止まった。
しかし振り返ってみるも、そこにあったのは生い茂った森だけだ。
身を隠すには最適ではあるものの、特に誰かが潜んでいるような気配はない。
気のせいだったのかと首を傾げ――
「ソーマさん? どうかしたんですか?」
「……ん、何かあった?」
少し先を歩いていた二人にそれを見咎められてしまったため、肩をすくめて返した。
「いや、妹想いの兄がこちらを見ていたような気がしたのであるが、ただの気のせいだったみたいであるな」
「何なんですかその具体的なのか適当なのかよく分からない言葉は……」
「……多分、適当な方」
「おお、さすがシーラ、よく分かったであるな」
「……えっへん?」
「せめて最後を疑問符ではなく、胸を張った感じにしてください」
そんな取りとめもない、戯言めいた言葉を交わしつつ、歩みを再開させる。
特に急ぐ理由もないのだが、まだエルフの森を出たばかりのところだ。
誰に見られるとも限らないので、せめてもう少し離れておいた方が安全だろう。
とはいえ――
「ところで、森を出たら真っ直ぐとは聞いたであるが、こっちでいいのであるか? 特に目印になるようなものは見えないのであるが……」
直接エルフの森、というか魔女の森に跳んできてしまったソーマは知らなかったのだが、エルフの森の周りは見渡す限りの草原であった。
街道なども存在しないようで、真っ直ぐと言われても何処に向かえばいいのかいまいちよく分からない。
ここまではシーラの案内で抜けてきたし、引き続き先頭を歩いているということは、シーラには分かっているのだとは思うが――
「……ん。……多分大丈夫?」
「いきなり不安になったであるな」
「……シーラ? 本当に大丈夫なんですよね?」
「……私はこっちに行った事がないから、自信があるとは言い切れない」
「あー、なるほど。あっち回りでラディウスに入ったのであるか」
「……ん」
聞いた話でしかないが、エルフの森から別の町、というか国へと行く場合、主に三つの道が存在している……らしい。
勿論その先の国から辿ることで様々な国へと行くことは可能だが、そのうちラディウスへと向かうことの出来るものは二つだ。
そしてそのうちの片方が、シーラが向かったことのある道である。
ただしラディウスへと辿り着くためには、遠回りともなる道だ。
元々ラディウスへと行くつもりだったのに、シーラ、というかドリスがそっちへと向かった理由は、二つ。
シーラに色々な場所を見せるつもりだったのと……もう片方が、魔族の領域を通過するためであった。
ついでに言うならば、これからソーマ達が向かおうとしているのは、シーラの行った事がないという台詞の通り、魔族の領域を通過する方である。
「まあ、多少遠くなるとはいえ、敢えて危険かもしれない方へと向かう理由は少ないですからね。……その、ですから、本当にいいんですか?」
「うん? 何がである?」
「こちらへ行こうとしているのは……その、わたしのせい、ですよね?」
「まあ、そう言えなくもないであるな。顔が見られないようになっているとはいえ、そんな人物を二人も連れているとなれば、普通は怪しんでくださいと言っているようなものであるし」
「……ん、怪しい」
「自分のことでもあるのに、シーラは頷かないでください。……確かに、怪しいですが」
そんな言葉を交わしている通り、今やソーマのすぐ傍を歩いている二人の格好は怪しかった。
何せシーラはある意味見慣れた格好――全身をローブで覆い、フードも被るという、外からではどんな顔をしているのか分からないという、あの格好をしているのだ。
さらにはもう片方――フェリシアもまた、同じ格好をしているのである。
こんな二人を連れて国境の関所へでも行こうものなら、怪しんでくださいと言ってるも同然だろう。
実際のところ、ドリスに連れられシーラ一人だった時ですら、怪しまれて顔を確認されたそうだ。
エルフだということが分かり事なきを得たらしいが……さすがに今回はそういうわけにもいくまい。
フェリシアは外見が外見だし、一般的には白髪イコール魔女だ。
そもそも実際に魔女なので、それは誤解でも何でもなく、誤魔化すにしても限度というものがある。
ラディウスへと辿り着くまでにはそんなことが幾度もあるらしく、ならば魔族の領域を通ってしまった方がいっそ安全だろうという結論に至ったのは、自然なことだろう。
だからそれは確かにフェリシアのせいだと言えばフェリシアのせいだと言えなくもないのだが――
「ま、早く戻れるのであれば、それに越したことはないであるしな」
大体ラディウスへと向かおうとしているのは、基本ソーマの都合である。
いい加減こっちでのんびりとしすぎたので、学院やら何やら関係者のところに顔出しをして無事を伝えねばならないだろう、ということで。
それは早ければ早いほどいいので、フェリシアのことがなくとも、おそらくソーマはこちらの道を選択していたはずだ。
……いや、何だかんだ言いながら、むしろ遠回りの方が魔法に関するあれこれが探せるかもしれないなどと言ってそっちを選んでいた可能性もあるので、フェリシアのおかげでこっちを選べたとも言えるだろう。
「……それは詭弁だと思います」
「……ん、でもソーマなら確かにやりそう」
「で、あろう?」
「何故そこでソーマさんは胸を張るんですか……自慢することではないでしょうに。と言いますか……そもそもわたしがあなた達と一緒に行く必要がない……いえ。あなた達はわたしと一緒に行く必要がないと思うのですが?」
「いや、少なくとも我輩はあるであろう? フェリシアがこうして外に出るようになったのは、我輩のせいなわけであるし」
今更の話ではあるが、何故こうして三人でエルフの森の外へと出、ラディウスへと向かっているのかと言えば、日付的に言えばつい昨日、ソーマが森神を力で強引に屈服させたことに端を発している。
まず森神に話をつけ、今まで通りにエルフ達に力を貸しつつ、その存在を認識させない――死んだことにさせた。
わざわざそんなことをした理由は、エルフ達のためではあるが、同時に貸しを作るためでもある。
森神からの力は、彼らにとって生命線だ。
それを維持させたということは、彼らの命を救ったも同然の、大恩となる。
だからソーマは、それを用いてヨーゼフと交渉したのだ。
フェリシアを、あの狭い森の外へと連れ出すために。
何故そんなことをとは、ヨーゼフだけではなく、フェリシア本人にも問われたが、逆にソーマからすれば、そんなことを聞かれたことの方が疑問だった。
フェリシアがあの状況を望んでいなかったのは傍目にも明らかだ。
いや、それどころか、きっと誰一人としてあんなことを望んでいる者はいなかった。
だがしがらみなどの様々な要因からそれを強いるしかなく……そして今回ソーマは、その全てを無視し自らの望みだけを強行できる立場を得たのだ。
故にそれを用いたという、ただそれだけのことであった。
そうして話し合いの末に幾つかのことが決められたが、その大半は当たり前のことであり、決めるまでもなくそうするつもりだったことだ。
特に外に連れ出すのはいいが、その全ての責任はソーマが持つというのは、当然過ぎて議論の余地が存在しないものである。
そうやって森神はフェリシアが当初の予定通りその命を以って封印……するはずが勢い余って滅ぼしてしまったことにし、なのに何故か力だけは今まで通りだということにした。
正直お前それ隠すつもりあるのかというぐらい大雑把すぎる設定ではあるが、別に気付かれたところで問題はないのだ。
どうせそのうちばらす予定になっているし、要はそれまでの建前が存在していればいいのである。
むしろ重要なのは、エルフの森に魔女が居たがそれは既に滅んだ、ということがエルフ以外に周知されればいいのだから。
それからほとぼりが冷めた頃にフェリシアを森に戻せば、きっと大団円となるはずだ。
少なくともソーマはそうさせるつもりだし……その邪魔をするというのならば、なんぴとたりとも許しはしない。
そのぐらいソーマは彼女に恩があると思ってるし……何よりも単純に、そうしたいと思うのだ。
だから。
「まあそれに、ヨーゼフにも頼まれたわけであるしな。殴り飛ばしたことはまったく悪いとは思っていないであるが……ま、そのぐらいの頼みならば聞くべきであろう」
そしてソーマがある程度以上のわがままを通せるとなるとラディウスしかないし、その中でも学院はある種の治外法権だ。
あそこならば幾らでも庇うことは出来るだろうし、それもあそこを目指している要因の一つ……というか、結局はそれが主因だ。
まあ、何にせよ――
「自身に原因があり、さらに頼まれたならば、見捨てるとかはありえない、ということであるな」
「……ん、妹が姉を見捨てるとかも、ありえない」
「……あなた達は少し、わたしを甘やかしすぎだと思います。わたしはそこまで箱入りというわけではないですし、そもそもあなた達よりも年上ですよ?」
「その姿で、であるか?」
今はローブで顔まで覆われているものの……いや、だからこそ、尚更その言葉には説得力がない。
その姿は誰がどう見ても、ただの子供にしか見えなかった。
まあエルフの特徴が外見に出ていない時点で、どちらでも大差はないわけだが。
「……外見のことはこれでも結構気にしているので、あまり言わないでください。大体これはわたしが魔女なせいではなく、おそらくは主にエルフの血のせいですし」
「……ん、姉さんは、ろりばばあ?」
「……ソーマさん、人の妹に変な言葉を覚えさせないでいただけますか?」
「ちょっと待って欲しいのであるが、何故そこで我輩のせいになるのである? 我輩そんな言葉をシーラに覚えさせた記憶はないであるぞ?」
「……ん、確かに教わってはない。……ただ、ヒルデガルドに言ってたのを聞いて、覚えただけ」
「うん? ヒルデガルドに?」
言っただろうか? と思うも……言ったような気もするし、言っていないような気もする。
ヒルデガルドと喋る時はあまり細かいことを気にする必要がないので、割とノリで話す時があるのだ。
そのため、覚えていないことを喋ることもあり……まあ、シーラが覚えているということは、実際に言ったのだろう。
「うむ、前言を撤回するのであるが、どうやら我輩のせいらしい。すまなかったのである」
「また無駄に男らしいですね……まったく」
そう言ってフェリシアは溜息を吐き出し……顔は見えずとも、笑ったのが分かった。
だからソーマも肩をすくめながら、笑みを浮かべる。
シーラも気配からだけではあるも、薄っすらと笑っている事が伝わり。
そうして、三人は笑みと共に、一路魔族の支配する領域――ディメントとも呼ばれる場所へと向かうのであった。
というわけで、第四章完となります。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
気がつけば総合評価が5万ptを超え、ネット小説大賞も二次を無事突破出来ていました。
この先どうなるかはまだ分かりませんが、ここまで来れたのも皆様の応援のおかげです。
いつもありがとうございます。
ただ、ここまでは何とか毎日更新し続ける事が出来ていましたが、今後はちょっとペースを落とし隔日更新にしようかと思っています。
現状休日等がほぼ執筆漬けになってしまっているのと、そのせいもあってか全般的に雑になってきているような気がしているからです。
まあ余裕が出来ることが必ずしもプラスに働くとは限りませんが、とりあえずしばらくは隔日更新でやっていく予定です。
申し訳ありませんが、今後も引き続き応援していただけましたら幸いです。
それでは、皆様に少しでもお楽しみいただけますよう祈りつつ。
失礼します。




