神が屈した日
考えてみれば、フェリシアが戦闘というものをまともに目にするのは、それが初めてであった。
母に連れられ結界の外に出た時には、そもそも戦闘という行為そのものが行われてはいない。
魔物と遭遇することはあったものの、母は何らかの手段でそれらをすぐに眠らせてしまったのだ。
戦闘らしい戦闘は、一度も行われることがなかったのである。
魔女の森に移り住む数年の間もフェリシア自身が戦闘を目にすることはなかったし、時折妹から話を聞くことぐらいはあったが、その程度だ。
そういったこともあってか、フェリシアの中では、戦闘というものは忌避すべきものであり、ただひたすらに恐ろしいものという認識でしかなかった。
そしてそれはあながち間違いだとも言えないだろう。
戦うということと殺し合うということは同じではないが、その場で起こっていることに限って言えばそれはほぼ同義だ。
知っている者が傷つき、苦しみ、その果てに殺される。
そんな場面を見たくないと思うのは、道理だ。
少なくともフェリシアの中では、それが確定した未来であった。
先ほど助けられもしたし、ソーマのことを信じていないわけでもない。
だがそういう問題ではないのだ。
幼い頃から刷り込まれ続けた恐怖は、そういった淡い感情を簡単に飲み込んでしまうほどであったし、膨れ上がり濃縮された気配からは、死の香りしか感じる事が出来ない。
だから、不敵な言葉と笑みで森神へと向かっていったソーマの背中にも、フェリシアはやはり絶望しか感じることは出来なかった。
生きたいなどと思わずあそこで素直に死んでおくべきだったと、そう思う。
あんなものが果たして自分の命などと引き換えでどうにか出来るなどとはとても思えないけれど……それでもそうしていれば、少なくともソーマだけは助かったはずなのだ。
その背中を眺めながら、そんなことを思い――そんな戯言を鼻で笑い飛ばすかの如く、次の瞬間、五十メートルはあろうかというそれの三分の一ほどが、呆気ないほど簡単に消し飛んだ。
しかもそれだけでは終わらず、次の瞬間には、さらに残った半分も消し飛ぶ。
まるで神が飽きた玩具を無造作に打ち壊すような、そんな呆気なさだった。
「……はい?」
確かにフェリシアは戦闘をまともに目にしたことがない。
だがそれはあくまでも見たことがないというだけであって、知らないわけではないのだ。
そして少なくとも、眼前で引き起こされたことがどれだけ有り得ないことなのか、ということが分かる程度には知っている。
故にその口から唖然とした呟きが漏れたのも、当然のことであった。
とはいえ、別にソーマがよく分からない何かをした、というわけではない。
むしろソーマがやったことは、至極単純なことだ。
先ほど森神が変じて見せた姿は、何とも形容がし難いものである。
土と砂と数多の植物を一箇所に集め強引に押し固めたもの、とでも言おうか。
そんなものが五十メートルほどの大きさで以ってそこに起立し、その全方位から腕とも触手ともつかない、主に植物を材料としたものが無数に生えていたのだ。
魔物でさえ、最低限の生物としての形は保っている。
しかしそれすらも無視した、まさに化け物と呼ぶべきそれが、自身へと向かってきたソーマへと、その無数の触手を叩き付けた。
それがやったのはそんな単純なことであり、対するソーマもまた同様。
その手に持った剣を、触手が叩きつけられる寸前で、前方に向けて振り抜いた。
それだけだったのである。
それだけで、森神の身体の三分の一が、次の瞬間には消し飛んでいたのだ。
やったことには、不思議なところは何一つない。
が、その分起こった現象は、不思議を通り越して意味不明でしかなかった。
それが森神の自爆などでないのは、続けてソーマが剣を薙ぎ払った瞬間、さらに残った半分が消し飛んだことからも明らかである。
つまりソーマは、ただ剣を振るっているだけで、あれだけのことを引き起こしているのだ。
まったく以って意味が分からない。
だがそんなことをフェリシアが悠長に考えられていたのは、そこまでであった。
森神が何かをしたというわけではなく……いや、ある意味それはそれで正しいのか。
ただおそらくは、森神にフェリシアを害する意思はなかったのだろう。
路傍の石を気にかける物好きな者など、そうはいないのだから。
『――――――――――!!!』
おそらくでしかないが、それは吼えたのであった。
音が認識できたわけではない。
当然のように、何と言ったのかも分からない。
しかしその瞬間、明確に意志だけは伝わってきた。
作り出した形を一瞬にして破壊された……きっとそれの怒りであった。
或いはその前のことまでをも含めた、何故自分の邪魔をするのか、といった感覚だったのかもしれない。
だが何にせよ、それによって引き起こされたことは明白だ。
フェリシアは、自分の心臓の鼓動が止まったのを、はっきりと認識した。
「……っ!?」
呼吸もままならず、口をパクパクと開閉するが、そこから空気が送り込まれてくることはない。
しかもこれは、多分ただの余波なのだ。
それがぶつけられた先はソーマであり……否、もしかしたら、そもそも単純に怒りを振りまいただけなのかもしれない。
それで何かをする意図はなく、それでもこれだけのことをしてのける。
ああ、やはり神はどんな姿であろうとも神であり、それに逆らい、ましてや倒せるかもしれないと思うことなど間違って――
「――やかましいであるぞ、おがくず。せめて人間の言葉で喋れというのである」
それは決して大きな声で叫ばれたものではなかった。
どころか、きっと呟く程度の小さなものでしかない。
だというのに、何故かフェリシアにはそれがはっきりと聞こえた。
止まっていた鼓動が再開し、息が吸い込まれるようになり……それらと同じように、それが当たり前の如く、残った森神の身体の全てが消し飛んだ。
『――――――――――!!?!?』
再度叩き込まれた叫びは、しかし今度は不思議と呼吸も鼓動も止まることはなかった。
或いは、そこに含まれていたものが、怒りだけではなかったからかもしれない。
それは驚きと……多分、恐怖であった。
『――――――――――!!!』
だがそれを認めぬとばかりに、叫びと共に瞬時にその身体が再構築される。
先ほどは多少の時間がかかっていたが、それでコツでも掴んだのか、今度のそれは一瞬だ。
しかもその大きさは、先のさらに五割増しほどになっており――
「やれやれ、図体をただでかくしただけでは的が大きくなるだけであろうに。言われぬと分からんとは、所詮神モドキであるか」
瞬間、ソーマの一振りで、その全てが消し飛んだ。
まるで先ほどのは様子見だったと言わんばかりの一撃である。
フェリシアとしては、そろそろ唖然を通り越し呆れとなりかかっていた。
「……龍の時の一件から、只者ではないのは分かっていましたが……」
どうやら本当につもりでしかなかったようだ。
まあ、こんなのを予測しろという方が無理だという話だが。
そしてそのほんの僅かな時間で、フェリシアにすらそれを理解することが出来たのだ。
おそらくは……どちらの力量が上なのか、ということも。
森神にそれが分からぬはずがなく……それでもそこで屈する事がなかったのは、或いは意地か何かだったのかもしれない。
森神に何らかの意思があり、しかもそれがそれなり以上に高度なものだということは、今更考えるまでもないことだ。
その思考の元となるものが、自分達と同じ価値基準に基づいているかどうかはまた別の話だが……これ以上ソーマと相対すればどうなるかなどは、それこそ分かりきったことだろう。
だがそれが引くことはなかった。
もしかしたら、それもまだ様子見をしている段階であった可能性もなくはなかったが……少なくともフェリシアにはそうとは感じられない。
何故ならば、直後に叫ばれ、叩き込まれた意思には、どう考えても怯えが混ざっていたからだ。
『――――――――――!!!』
身体を作り出しても一瞬で壊されるだけだと学んだのか、地面から触手のようなものだけが無数に生え、それらが一斉にソーマへと襲い掛かる。
その一本一本に恐るべき力が込められているのは、離れた場所から見ているフェリシアにも一目で分かった。
或いは、先ほどの身体に使われていた力が、直接そこに使われているのかもしれない。
見ているだけで心臓を鷲掴みにされるような恐怖と不安を覚え、おそらくはその一本を気紛れに向けられただけで、フェリシアはあっさりと死んでしまうことだろう。
しかしフェリシアが実際にその心配をすることはなかった。
それによってソーマが殺されてしまうかもしれないと思うことも、だ。
その理由は単純。
自身へと向かってくるそれらを眺めると、ソーマはつまらなそうに溜息を吐き出し――
「先ほどよりはマシであるが……まだ力量差が分からんのであるか? まあならば、分かるまで続けるだけであるがな」
その身を躍らせると、その全てを当たり前のように斬り飛ばしたからだ。
そこには一切の危うさがなく、逆に余裕すらも感じる。
一掃されたところで懲りずに触手が生え、襲ってくるが、その末路も変わらない。
その全てを難なく斬り飛ばし、ソーマはただ呆れたように溜息を吐き出すだけだ。
そこから先は、まるで同じことを繰り返すだけの幻影か、劇でも見ているかのようであった。
時折多少の工夫が混ざるとはいえ、触手の攻撃方法など限られたものだ。
基本は叩きつけるだけであり、先が鋭くなり刺し殺そうとしたり、或いは巻きつこうとしたりもするが、違いはその程度である。
それを行う角度や速度が変わったり、時には纏まって、時には時間差をつけたりもするが、その全ては無意味。
ことごとくを斬り飛ばされ、ソーマはその場からほとんど動いてすらいなかった。
まさに圧倒的な力量差であり……ただ、そうなっているのは、それだけが理由ではないような気がフェリシアにはしていた。
力量差に疑問があるわけではない。
疑問があるのは別のところであり……つまりは、そんな風に見せ付けるような真似をする必要はない、ということだ。
力量に圧倒的な差があるのだから、さっさと決着をつけてしまえばいいのである。
劇のようだと言ったのは、それも理由の一つだ。
まるで誇示しているようにも見え、そこには違和感すら覚える。
ソーマは何となく、そんなことをするタイプには見えないからだ。
というか、ソーマは間違いなく、実利にしか興味がないタイプである。
必要がなければ……或いは、あってすらも、余計な真似というのは嫌うだろう。
では今は何故、そんなことをしているというのか。
「……その必要がある、ということなのでしょうが……そんなことをして、ソーマさんに何の意味が……?」
一瞬自分に見せるため、などという馬鹿な思考が頭を過ぎるが、それは本当にただの馬鹿な考えだ。
そんなこと、有り得るわけがない。
まったく、幾らなんでも気が抜けすぎだと、自分を叱咤するように溜息を吐き出し――だから、それに気付くのが遅れた。
視界の端、小さく動いたそれに反応し、振り向けば、そこにあったのは見覚えのあるものだ。
見覚えがないわけがない。
ソーマへと今も襲い掛かっている触手と、同じものなのだから。
ただしその大きさは、十分の一にも満たないだろう。
だが同時に、その程度でも自分を殺すには十分過ぎる。
何故唐突にこちらを、と思うも、すぐに納得した。
森神は別にフェリシアに興味があるわけではない。
フェリシアを殺せばソーマが動揺するだろうと、そう判断したのだ。
それが正しいのかはフェリシアにすら分からなかったが、悪い判断ではないだろう。
少なくとも、試さない理由はない。
そして、そういったことが分かったところで、フェリシアにはどうしようもなかった。
それをかわせるか否かなど、思考する時点で間違いだ。
かわせるわけがない。
かといって、ソーマに助けを求めるのも間違いである。
間に合うか否かの前に、それこそソーマの邪魔にしかならないからだ。
即ち、結論は一つである。
結局、自分の末路は変わらないのだという、そんな当たり前の――
「――なるほど。どうやら、余程死にたいようであるな」
瞬間、心臓が跳ねた。
声はすぐ傍から聞こえ、それとほぼ同時に、こちらへと向かっていた触手が跡形もなく消し飛ぶ。
どころか、その先にあった地面までもがごっそりと抉れ、吹き飛んでいた。
それを引き起こした者の心境を表すかの如き轟音を響かせながら、それでもその音に紛れることなく、はっきりとした声がフェリシアの耳に届く。
「そういうことであるならば、我輩ももう遠慮をすることはないのである。勢い余ってしまったら……まあ、その時は皆に謝るしかなかろう。精々運良く生き残っていられるよう、祈っておけ」
その声が向けられているのは自分ではないと分かっているのに、フェリシアは身が竦むような思いであった。
いや、或いは……分かっていたからかもしれない。
そこに込められた怒りに……ほんの少しだけ、自分に対するものがあることに。
自分の命を諦め、何よりも助けを呼ぼうともしなかったことを、多分ソーマは怒っていた。
そのことに、申し訳なさと……それと、少しだけのくすぐったさのようなものを覚えながら――
「――我は天を穿ち、地を砕く刃なり」
これで終わるのだろうという漠然とした予感と共に、視界の端でソーマの腕が振り下ろされるのを、フェリシアはただジッと眺めていたのであった。




