魔女と森神
先を急ぐソーマは、森神とやらの気配が如実に高まって来ているのを、自身の肌を通して感じていた。
それは単純にそこに近付いているからというだけではあるまい。
事実試しに足を止めてみても、それは変わらず高まり続けている。
封印が完全に解けつつある、ということなのだろう。
「ふむ……それにしてもこの世界、ちと色々なものが封印されすぎではあらんか?」
これで都合三度目だ。
偶然そういった場所ばかりに居ると考えるよりは、各地にそんなものが存在していると考えた方が自然だろう。
一体どれだけ物騒な世界だというのか。
「……いや、龍神を始め何柱もの神が跳梁跋扈してるのよりはマシであるか?」
まあどっちもどっちか、などと思いながら……ふと、後ろを振り返る。
脳裏を過ぎるのは、つい先ほどのこと。
一つ、溜息を吐き出した。
「まったく、本当に困った兄妹であるな」
どうやら、あとでもう一人説教しなければならない相手が増えたようだ。
せめて拳骨の一つぐらいは落とさなければなるまい。
「……妹を泣かすなど、姉失格であろう?」
呟くと、前に向き直り、再び駆け出した。
フェリシアは森の中で一人、両手を組み目を瞑り、祈るようにしてそこに居た。
本当に祈っているわけではなく、また呪術を使おうとしているわけでもない。
単純に手持ち無沙汰故、何となくそうしているというだけであった。
その眼前にあるのは、まるで祭壇のような何かだ。
中心には球形の光が浮いており、脈打つように明滅を繰り返している。
鼓動のような音もまた、その場には響いていた。
音の響く間隔が徐々に短くなり、明滅の速度も増している。
目を瞑っているため、フェリシアが感じるのは音だけではあったが……それでも、もう間もなくそれが現れるというのは、誰に言われるでもなく理解していた。
――森神。
森霊の社の主にして、エルフという種の崇める存在。
そして今からフェリシアが儀式により、その命を差し出す相手である。
儀式、などと言えば聞こえはいいものの、要はただの人身御供だ。
だがフェリシアはそこに不満はない。
むしろ満足しているとすら言えるだろう。
それが意味ある最後だと、よく知っているからだ。
フェリシア達の母親が、そうであったように。
フェリシア・L――レオンハルト・ヴァルトシュタインは、所謂ハーフエルフである。
ハイエルフの父親と――魔女の母親を持つ、混血児だ。
もっとも、そのこととフェリシアが魔女であることに、因果的な関係はない。
まったく同じ血を引くシーラは普通のエルフであることが、その証拠だ。
まあ、シーラはシーラで、エルフなのに魔法が使えなくはあるが、それは単純にその才能が刀に特化しているからである。
例外的な才能を持ちながら他の才も持ち合わすことを可能にするほど、特級というスキルは軽くないのだ。
それを可能とするのは、人の器を超えた者ぐらいだろう。
ともあれ、だからこそ、フェリシアは魔女のことをよく知っている。
僅か数年とはいえ、あの魔女の森で共に過ごし、様々なことを教えてもらったからだ。
その最後を迎えることの……自分の願いを叶えるということの意味も。
――魔女は自身の願いを呪術として叶える事は出来ない。
これは以前に述べたことではあるが、厳密に言うならば正しくは無い。
正しくは、自身の命を引き換えならば、どんな願いでも叶える事が出来る、だからだ。
そして一般的には、それが魔女の最後である。
魔女は世界の敵ではあるが、実際のところは誰かに殺されるということはほとんどない。
その理由は単純で、ただ殺してしまうにはあまりにも惜しいからだ。
代償を必要とするとはいえ、誰かの願いを、時には理を歪めてすら叶える事が出来る。
その有用性を理解出来ない者など、存在しないだろう。
もっとも、だからこそ、魔女は囲われるのだ。
魔女は誰にとっても有用ではあるが、その力は有限でもある。
誰も彼もの願いを叶える事が出来ないのであれば、その力は自分の為だけに、ということだ。
しかし同時に、それが故に匿われる。
その存在が露呈してしまえば、それを疎ましく思う者から糾弾されてしまうからだ。
誰もがその有用性を認めようとも、やはり魔女が世界の敵であることに違いはないのである。
そしてまた、そのことが当の本人にとって幸せであるかも、別の話だ。
いや、或いはこう言うべきだろうか。
殺されることはなくとも、人らしく生きられるとは限らない、と。
その極地が、死に方だ。
一般的に魔女は自身の願いを叶えて死ぬものの、その願いが本当にその者が願ったこととは限らないし……極稀にではあるが、処刑されるということもある。
匿っているのがバレた際、もしくは最後に一仕事と、その死をも利用するためだ。
世界の敵を討ったと、そう宣伝するために。
そういったことから考えれば、フェリシアはいかにも人間らしく、幸せに過ごす事が出来たと言えるだろう。
母と数年共に暮らせ、家族とも月に一度、僅かな時間とはいえ会う事が出来る。
それは十分過ぎるほどに、人間らしいものであったのだ。
他の誰が、何と言おうとも。
だからこれは、自分の願い。
家族を含めた、皆が助かるための。
森神という存在は、エルフに力を与えている、その源だ。
だから崇めているのであり……だがその目覚めは、エルフの破滅を意味する。
森神は、エルフを食うからだ。
食欲ではなく嗜好品的な扱いらしいが、かつてそのせいでエルフはその数を半分に減らしたという記録もある。
そのままでは絶滅していたとも言われ、封印していたのは、そのためなのだ。
そもそも何故そんな存在がエルフに力を与えているのかと言えば、その理由は不明である。
力を与えているわけではなく、エルフが影響を受けているだけ、という説もあるが……未だに解明できていないことの一つだ。
そしてフェリシアには、その答えを二度と知ることは出来ない。
ここで願いを叶えるから。
森神を再度封印するために。
今度は二度と、目覚めぬように。
自身の命を以って。
それが今回の儀式で、その全てだ。
かつてかけた封印が解けかけており、再度封印をかけるにはエルフ達の命が必要だった。
エルフの用いる封印術とは、そういうものだからだ。
しかしそのためには、現存するエルフの半数が必要だと算出された。
或いは封印しないという手もあるが、これは問題外だ。
封印しなければ森神に食われるだけだし……ここから移動するという選択肢も、取ることは出来なかった。
エルフが現在中立を保っていられるのは、この森あってのことだからだ。
森の外へと出てしまえば、エルフは多少魔法の得意な人類でしかない。
そうなってしまえば、一方的に食い物にされるだけだろうというのは、考えるまでもないことだ。
特に今までのことがあるからこそ、尚更に。
だから結局、森神を封印し、今まで通りを貫いていくしか、エルフ達が生き残る術はないのである。
半数の命を犠牲にしても。
と、本来ならば、そうなっただろう。
だが幸いにも……そう、幸いにも、今のエルフ達には、もう一つの手段が残されていた。
四十年ほど昔、魔女の願いと当時の長の献身で以って、一族の危機が遠ざけられたように。
今度もまた魔女の願いであれば、森神へと今まで以上の封印をかけることが出来るだろうと予測された。
それを聞かされた時、フェリシアは迷うことなく頷いていた。
エルフの皆と会うことはほぼなかったけれど、皆の思いは知っていたから。
月に一度渡される食料を通して。
故に、自分が犠牲になるだけで済むならばと、そう思ったのだ。
多分、いつかはそんな時が来るのだと、覚悟もしていたから。
それが、今日だった。
ただそれだけのことなのだ。
だから。
……だから――
「――っ」
瞬間、一際大きな鼓動の音が響き、それだけで思考の全てが吹き飛んだ。
何を考えていたのかすら忘れ、呆然と目を開き……ソレが、そこに居た。
光はいつの間にか消え、そこには代わりとばかりに何かよく分からないモノが有る。
だが同時に、一目見ただけで、心の底から理解出来た。
それこそが、森神だ。
「――」
よく分からないモノが、よく分からないモノを伸ばしてくるのを、フェリシアは何をするでもなく眺めていた。
多分それは腕なのだろうと反射的に思うも、それだけ。
逃げようなどと、考え付きすらしなかった。
それは儀式のことがあったから、ではない。
ただの、恐怖故だ。
幼い頃からずっとその気配を無意識に感じ取っていたフェリシアには、エルフには、森神という存在は恐怖そのものとして意識に刷り込まれているのである。
その復活の予兆を感じ取っただけで、エルフは冷静ではいられなくなってしまうし……それを前にしてしまえば、そうなって当然であった。
とはいえ、ある意味それでよかったのかもしれない。
魔女が自身の願いを叶えるには、その瞬間に死ぬ必要があるからだ。
そしてフェリシアは、外見的には人類種に近しいものの、血筋的にはエルフであることに変わりもない。
しかも、その身に流れる血はハイエルフ。
森神にしてみれば、ご馳走も同然のはずであった。
それを理解しているのか、森神はフェリシアの身体を遠慮なく掴み取った。
身体が軋み、痛みが走る。
「……っ」
しかしそれは、ほんの僅かの時間であった。
すぐに腕が引き戻されると、空中で離されたからだ。
一瞬の浮遊感と、落下。
「……え?」
直後に浮かんだ疑問は、だがすぐに解決されることとなった。
そんなことをした意味の答えが、すぐそこにあったからだ。
多分そこにあるのは、それの頭部で……その口と思われる場所が、大きく開いていた。
吸い込まれるようにして、フェリシアの身体が落ちていく。
「……あ」
その空虚な空間を見た瞬間、色々なことが頭を過ぎった。
色々な事がありすぎて、それらが何であったのかは咄嗟には理解出来ないぐらいに。
それでも。
たった一つだけ、はっきりと思い出した事があった。
それは、約束。
ほんの三日前に交わした、口からのでまかせ。
困った時があったら――。
瞬間、思った。
それは心の底に押し込めていた……本当はずっと思っていたこと。
――死にたくない。
「……けて」
身体は無様なまでに震えていた。
視界は惨めなまでに滲んでいた。
頭に浮かんでいるのは、たった一月共に暮らしただけの少年で。
それはとても、情けないことで……それでも、或いは、だからこそ、死にたくはなかった。
「……助けて、ください」
けれど、声は虚しく響き――
「――了解したのである」
轟音と共に、それが吹き飛んだ。




