姉と妹
何となくではあるが、予感はあった。
激しい揺れを感じた瞬間、誰かがここに強引にやってきたのだろうということは分かっていたし……そんなことをするような人物の心当たりなど、他にあるわけもない。
勿論ソーマがここに来ていたことなどは知らなかったし、むしろ何故居るのかという話でもあるのだが……それでもあのソーマならばと考えると、色々と納得がいってしまった。
しかしともあれ、それはそれ、これはこれ、だ。
何しに来たのか、などということは聞かない。
そんなこと聞くまでもないだろうし……まあ、どうしてそうするに至ったのか、ということに興味がないと言えば嘘になるものの、今聞くようなことでもないだろう。
何にせよシーラがやることは変わらず、そしてそれは一つだけだ。
「ふむ……随分とやる気があるようであるな」
「…………ん、当然」
だってこれは、シーラの役目だ。
族長でもある兄から直々に任された、シーラだけの役目。
昔の、皆の世話になってばかりだった自分では考えられなかったようなことであり、ならば果たさないわけにはいかないだろう。
「ふむ……なるほど。やれやれ、これはもう一発ぶん殴る必要がありそうであるな……」
「……?」
そんなこちらの様子を見たソーマは、不意によく分からないことを呟くと、溜息を吐き出す。
それはどこか、気の抜けたような雰囲気であり……だが直後、それが一変する。
決して合わせようとはしていないものの、視界には捉えているその瞳が、すっと細められた。
「……っ」
瞬間、ソーマの意識が切り替わったというのが、嫌でも分かった。
まるで心臓を鷲掴みにされたかのような……或いは、喉元に刃を突きつけられているかのような、そんな錯覚に襲われる。
そこにあるのは、明確な死、そのものだ。
「ま、しかしそういうことならば、こちらも本気でやらんわけにはいかんであるな」
そうは言いつつも、ソーマは特に構えを取っていない。
しかしシーラは、知っていた。
あれこそが、ソーマの本来の構えなのだ。
つまり言葉の通り、ソーマは本気でやるつもりなのである。
「……ん、望むところ」
むしろ、そうでこそだ。
そうでなければならない。
でないと――。
「……っ」
心を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸を繰り返しながら、油断なく状況を見据える。
彼我の距離は、約十メートルほど。
しかしその程度の距離、ないも同然だ。
シーラでさえそうなのだから、ソーマにとっては尚更だろう。
戦場の広さは、直径で二十メートルといったところだ。
小細工をする余地はなく、ソーマは当然のこと、こちらも何もしてはいない。
要するに、圧倒的に、一方的なまでにこちらの不利だ。
地の利など、有って無しが如し。
実力差に関しては、今更過ぎる話だ。
けれど……勝てはしなくとも、負けるわけにはいかないのである。
震えそうになる身体を何とか抑えて、右手を刀の柄に。
右足を前に出し、半身を前方に突き出すようにしながらの、前傾姿勢。
それ以上の言葉は、必要ない。
鋭く息を吐き出すと、全力で地面を蹴った。
「――一刀両断」
――刀術特級・森霊の加護・精神集中・居合い・心眼:一刀両断。
秒も経たずに距離をゼロにすると、地面を踏み込むのと同時に右腕を振り抜く。
出し惜しみはなく、初手からの全力だ。
手加減どころか、殺す気ですらいるつもりで、鈍色の斬撃が走り――
「……っ」
だが返ってきた手応えは、当然のように硬質なそれ。
甲高い音が響き……しかしそれは、分かっていたことだ。
だからシーラはその時には、既に次の一歩を踏み込んでいた。
「――雲散霧消」
――刀術特級・森霊の加護・精神集中・居合い・心眼・直感(偽)・連撃:雲散霧消の太刀。
瞬間、シーラの姿が掻き消える。
気配遮断を使ってのものではなく、この技そのものの性質だ。
ソーマには一度見せたことがあるが、まさか一度見ただけで全ては見切れまい。
姿を消し、後方からの強襲と思わせての、変わらぬ位置からの斬撃。
既に納刀を終えている刀の鯉口を僅かに切り、柄を握った右腕を――
「――っ!?」
――刀術特級・森霊の加護・気配察知中級・直感(偽):危険察知。
それは駄目だと、瞬間本能が叫んだ。
背筋を悪寒に似た何かが走り、それらに逆らうことなく、強引に右側へと身体を倒す。
転がるように地面に倒れこむのと、そのほんの少し上を鋭い何かが過ぎ去ったのはほぼ同時だ。
あと刹那でも動くのが遅ければ、斬られていただろう。
しかしそこで安堵してる余裕はない。
即座に跳ね上がるようにして起き上がると、柄を握ったままの右腕を振り抜いた。
――刀術特級・森霊の加護・精神集中・心眼・気配遮断下級・連撃:残影の太刀・朧。
あまりにも強引過ぎる攻撃だが、生憎と形振り構ってなどいられないのだ。
強引さの代償としてその一撃は空を切るが、それも想定の内。
その軌跡に隠れるようにして放たれた斬撃が、ソーマへと迫り――だがやはり、当たり前のように防がれた。
「……っ」
まるで歯が立たない……いや、戦えているという自覚すらない。
僅か数秒の立ち回りだというのに、ごっそりと精神力を持っていかれた気分だ。
刹那でも気を抜けば、自分が地面に倒れ伏しているだろうことが、ありありと想像出来る。
これが、ソーマの本気なのだと、嫌でも自覚させられた。
今までもソーマとは、何度も打ち合ったことがある。
それが本気ではなかったというのは、分かっていたつもりであった。
だがそれは本当に、つもりでしかなかったのだろう。
しかもこれでソーマは本気ではあるものの、全力ではないのだ。
全力で来られていれば、とうにシーラの頭部は胴体とお別れしているに違いない。
しかしそうなってしまうからこそ、ソーマは全力では来れないのだ。
唯一付け入る隙があるとすれば、そこだろう。
ソーマは何だかんだ言いながらも、身内と判断した者には甘い。
それも、物凄くだ。
そして一応ながら、シーラは自分がそこに属しているだろうとは思っている。
というか、そうでなければ、今頃は情け容赦なく叩きのめされているはずだ。
そう考えると、今更ながら兄は大丈夫だったのだろうかと心配になってくるものの……不器用ではあるが、要領はいい兄のことだ。
そこは大丈夫だろうと信じるしかない。
というか、そもそもそんなことを気にしていられる余裕は欠片もないのだ。
一旦ソーマから離れると、一瞬で呼吸を整え、再び構えた。
こうしているだけでも気力がどんどん削られていくが、刀の柄を握る右手に力をこめ、何とか堪える。
何処か一点ではなく、ソーマの全身を眺めるようにしながら、その一挙手一投足を見逃さないよう、意識を集中していく。
刹那でも気を抜けばやられるということは、つまり刹那でも気を抜かなければいいだけのことだ。
それでどうにか出来る程度には、ソーマは力を出しきれていない。
勿論それは口で言うほど容易いことではないのは、十分過ぎるぐらいに分かっている。
今実際に数秒とはいえやりあったのだ。
分からないわけがない。
だが、それでも。
「……まだ、私は――」
諦めるわけには、いかないのだ。
「……っ」
唇をかみ締め、ソーマの元へと一気に飛び込んだ。
そこからは先ほどの焼き直しのような光景が、幾度も繰り広げられる。
まともにやる必要はない。
否、まともにやっては駄目なのだ。
シーラのやるべきことは、ソーマをここで一秒でも長く足止めさせることである。
その間に儀式が完遂するのが最善だが、封印が解かれたのはつい先ほどのはず。
ならば贅沢は言わない。
せめて、ソーマでもどうすることも出来ない状況になれば。
そうなれば……そうなれば――
「――っ」
加速した思考の中で、シーラはただひたすらに刀を振るう。
それは全て一つの目的のために……この儀式を、完遂させるために。
その果てに待っているものが何なのかなど、今更誰に言われるまでもなく分かっている。
その全てを理解し、受け入れ、覚悟し……決めたのだ。
兄妹三人で、一緒に。
別の道は存在していなかった。
そんなものが存在しているほど、この世界は優しく出来てはいない。
そんなものがあるのならば……きっと姉は最初から魔女になどならなかった。
こんなことは起こらなかった。
だからこれは、精一杯の抵抗なのだ。
最悪の中で、少しでもマシな結末を迎えるために、兄が必死になって考えた。
事はエルフという種全てに関わってくる問題である。
何を選んだところで、必ず取りこぼしが出てきてしまう。
その中で、最小限の犠牲で済む方法がこれで、犠牲となるのは姉だった。
ただ、それだけのことなのだ。
それを非情だと、冷酷だと弾劾するのは簡単だろう。
しかしそうではないのだということは、自分達だけではなく、同族の皆が理解していた。
一言も釈明することはなかったけれど、だからこそ余計に。
そして多分誰よりも悩み、苦しんだのだということが分かるから、少しでも協力しようと思ったのだ。
自分達の両親も、そうであったように。
もっとも、あの人達はきっと、死ぬためではなく、生きるためだったのだろうけれど。
でも、どうしようもなかったのだ。
シーラだって、考えなかったわけではない。
考えなかったわけがない。
自分の力はこういう時のためにあり、こういう時のためにこそ磨き上げてきたのだ。
だがそんなちっぽけな自信は、その力を感じただけで粉々に吹き飛んでいた。
封印から漏れた僅かな残滓だけでそれなのだ。
誰だってその前には無力だと悟り、心が折れ、兄はやはり正しかったのだと確信するには十分過ぎることであった。
――或いは。
そう、或いは……それでもどうにか出来るかもしれないと、そう思えるような誰かがその時その場に居てくれれば、まだ分からなかったかもしれない。
無理だろうと思いながらも、それでもと、その不敵な姿を見ることが出来れば、別の決意が出来たかもしれない。
でも彼はその時その場にはいなかったのだ。
今更出てこられたところで、もう……。
そんなことを思いながら、歯を食いしばる。
自分の心の底から湧き上がって来た弱気に負けないようにと、顔を上げ――
「――あ」
瞬間、目が合った。
漆黒の、闇を思わせるような、全てを包み込むようなそれに、一瞬で魅入られる。
真っ直ぐにこちらを見つめてくる瞳は、まるでこちらの心の奥底までをも見通すようであった。
隠していた全てを暴かれるような、押さえつけていた全てが暴れだすような、そんな感覚を覚える。
――だから、目を合わせたくなかったのだ。
この真っ直ぐな瞳を前にすれば、自分の気持ちに嘘をつけなくなることなど、分かりきっていたから。
瞬間、その場に甲高い音が響いた。
それと共に、シーラの右手から重さが消える。
そこに握っていたものの姿が消え、視界の端で鈍色の何かが舞っていた。
呆然とそれを見上げながら、思う。
姉は変わったと言ってくれたけれど、きっと本当は何も変わってなどいないのだ。
ドリスにこの森から連れ出してもらえた時から、その前から、シーラは何一つ変わってなどはいないのである。
皆の期待に応えたかった。
役に立ちたかった。
王族としての責任を果たしたかった。
それは自分の想いであり、欲であり、願いだ。
心の底から、自分がいつも思っていたことである。
当然のことながら、今回もまた思っていたことであり……でも。
何より、死んで欲しくなかった。
それは、皆にだ。
エルフの皆。
それと、ソーマにも。
だけど、死んで欲しくない皆の中には、当たり前のように姉もまた含まれているのだ。
それに、もっと遊んで欲しかった。
色々なことを話して欲しかった。
料理を作って欲しかった。
笑っていて欲しくて、笑わせて欲しかった。
生きていて欲しかった。
――助けて。
「……姉さんを、助けて」
気が付けば、願望が口から零れ落ちていた。
視界が滲んで歪み……それでも、その中でもはっきりと分かる漆黒に、自分の望みを口にする。
自分では無理だから。
勝手な願いだけれど。
都合がよすぎるけれど。
――それでも。
さらに口を開こうとし、だがそれは頭部を襲った衝撃によって遮られた。
それは優しくとも力強く、自分の頭に乗せられた手であり――
「――任せておくといいのである」
その言葉を聞き、感触を覚えながら……シーラはふと、自分と同じぐらいだったソーマの背が、いつの間にか自分を超えていたことに気がついたのであった。




