バイト戦士(黒)
ピピピピ、ピピピピ
腕に輝く銀時計型のディスプレイに『EMERGENCY』の赤文字が走った。物騒なアルファベットの下には『level1』と続けて表示される。
「緊急レベル1…。緊急任務にしては拍子抜けだな」
僕はディスプレイを慣れた手つきで操作し、緊急通達の受信信号を返した。
「さーて、地球を救うお仕事の始まりだ」
僕は自室のドアを勢いよく開け放つ。必要なものは銀時計とこの身だけ。こんなちっぽけな銀時計と一人の学生に地球の未来が託されていると思うと、ひどく世界が小さく見えてしまう。これが英雄としての壕なのだろう。
僕には二つの顔がある。表は大学にサークル、アルバイトとどこにでもいる普通の学生。そしてもう一つの顔。それは学生の身分という覆面をかぶりながら、降りかかる災悪から世界を救う機密機関の一員。
この世界には普通に生きているだけでは垣間見ることのできない物が山ほどある。災悪もその一つだ。学校の友人、サークルのすかした先輩、バイト先の生真面目な社員、彼らは僕が地球を救う英雄であることを知らない。地球を揺るがす災悪が頻繁に訪れていることを知らない。知らせてはいけない。そのために僕がいるのだから。
5畳に満たないアパートから飛び出すと夕日はすでに傾いていた。西の空からはどんよりとした紫の雲が空全体を覆わんとするかのように伸びてくる。
「あそこか……」
ディスプレイで詳しい位置を確認すると僕はおよそ人間では出すことのできないスピードで西へ向かった。
ピピピピピ
僕の速さが光に勝らんとした瞬間、聞き慣れた電子音が耳を刺した。急ブレーキをかけたが、慣性に逆らえず停止したのは1キロほど先まで足を引きずる。
「どうした!?奴らに動きか!?」
僕は銀時計に肉迫するがディスプレイからは返答はない。
ピピピピピ、ピピピピピ
なおも鳴り止まないこの音は僕のポケットからだった。
スマートフォンの着信。
「しまったなぁ、家に置いてくるのを忘れてた」
僕は頭を抱えながら通話ボタンをタップした、と同時に全身が凍えるほどの寒気を感じたのは気のせいだろうか。
「あー天王寺君?僕、店長だけど」
着信の相手はバイト先の店長だった。
「はい、お疲れさまです。どうかしましたか?」
僕は早口で応答した。
「いやぁ、申し訳ないんだけどさぁ、天王寺君、今からシフト入ってくれない?」
「い、今からですか?」
「うん、今から。今日週末でしょう?人がたりないんだよねぇ」
店長のネットリとした鼻につく話し方に苛立ちを抑える。
「すみません、今日はどうしても外せない用事がありまして」
「外せない用事ってなに?」
「え?」
「え、じゃないよ、その用事が何なのか聞いてるの」
「え、言わなきゃだめなんですか?」
「そりゃそうでしょ。理由もなしに断らないよね普通。で、なに?」
店長はしつこく追求する。
用事の何たるかを話す必要性があるのか甚だ疑問だが、話さなければ納得させられない空気だ。といってもこれから地球を救いに行くと正直に話す訳にもいかない。僕が答えられずにいると店長の油っぽい声がスマホから漏れた。
「用事なんてないでしょう?なら頼むよぉ、1時間いや30分でもいいからさ」
「いや、でも……」
「頼むよ」
店長は強面で威圧感がある巨漢ではないが、スマホ越しに聞こえる彼の声は逆らえぬ圧力を帯びていた。
「……じゃあ、30分だけなら」
「いやぁー助かるよ、さすがウチのバイトリーダー!それじゃ待ってるよ」
それだけ言うとスマホはあっけなく切れた。
「き、緊急レベルはまだ1だし30分くらいなら平気か…?」
僕は自らに言い聞かせるようにつぶやくとバイト先へベクトルを変更した。
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「いやぁ来てくれて本当に助かったよ~」
店長は額に脂汗をかきながらそれだけ言うとホールの方へ消えていった。
僕のバイト先は某居酒屋チェーン店なのだが、人の移り変わりが激しいことで有名だ。そして慢性的に人手不足に悩まされている。だからこうして緊急に呼び出しをくらうことも少なくない。
万が一緊急レベルの引き上げに備え、僕は腕の銀時計をつけたままホールにでた。この銀時計は災悪の到来を知らせてくれるだけではなく、僕らヒーローの身体能力を引き上げてくれる重要アイテムだ。高速で移動したり、怪力を発揮したり、肉体を硬質化させたりと正直これがないとただの一般人同然だ。
「ヘイ、ラシャーイ!」
僕は焦る気持ちを紛らわすように大声にぶつけた。
さすが忙しさの為か約束の30分はあっと言う間に過ぎた。幸い本部からの通達はない。仲間たちが何とかくい止めてくれているだろう。
僕はホールから戻ってきた途端、営業スマイルを引っ込め舌打ちを始める店長の元に駆け寄った。
「すいません、30分経ったので帰らせていただきます」
一刻の猶予も惜しい。今にも紫がかっていた雲が空を徐々に蝕んでいるはずだ。
僕は早口で告げると急いで控え室に戻ろうとした。
「天王寺君、まさかこの一番客入りがよくなる時間に帰らないよね?」
店長は無表情で僕の肩を叩いた。
「え、いや、そういう約束のはずじゃ…」
「君が抜けると店が回らないんだよ、わかる?」
「いや、わかりますけど…。でもこれから大切な用事があって」
「さっきも言ってたよねそれ。大切な用事ってなによ?」
「そ、それは…」
僕は頭を回転させた。ここで言葉を濁せばまた彼の思うがままだ、何かいい方法はないのか
「そう、この後彼女の誕生日でして。レストランも抑えているのでこれ以上遅れる訳には…」
「彼女の誕生日か…。うーんそれは大切だなぁ」
「て、店長!分かってくれましたか!!!」
分厚く薄暗い雲から一筋の光が地表に差し込んだ気がした。
「じゃあ、それウチでやりなよ」
「……は?」
「だから、ウチでその誕生日祝えばいいじゃん。天王寺くん、今日手伝ってくれてるしお代はいらないよ。ケーキもちょうどキャンセルで余ってるのがあるし」
「えぇ……」
「うん、そうしよう。だからもう少しだけホール出てくれるかな?」
「…………」
無言を肯定と受け取ったのか店長は汗ばんだ顔でにっこりと微笑むとまたホールへ消えていった。
僕は方針状態で店に舞い戻った。
「いや、思考停止してる場合か!!」
僕は何とかショートした前頭葉にスイッチを入れ直すと冷静になる。
店には悪いがもう話し合いの余地はない。脱出するしかない。この牢獄から脱出しよう!
僕は脱出の機会を伺った。キッチンから人が出払い、店長も接客へ行っている。
いまだ!!
僕は身体におおよそ普通の人間では耐えられないくらいのブーストをかけ、脱出を試みた、とその刹那。
ウォーン、ウォーン
僕の腕から鈍い警告音が大音量で鳴り響いた。緊急レベル2が銀時計のディスプレイに太い赤文字で現れる。
「まずい、とうとうレベル2に…!」
僕はいっそう身体に力を入れようとした。
「なにそれ?」
目の前には店長の小太り姿があった。
は、はやい!いつのまにそこに…!
「変な音がしたから来てみれば、手に付けてるのなに」
「い、いえこれは……」
「アクセサリ付けて接客とかナメてんの??」
「これはアクセサリじゃなくて」
「没収ね」
店長はこれまた目にも止まらぬ速さで僕の腕から時計を抜き取った。
はやい…!
「か、返してください!それは大切なものなんです!」
「仕事終わったら返すから、じゃあ引き続きよろしく」
「そ、そんな、横暴だ!」
僕の叫びは虚しく店長は再びホールへ消えていった。
「弱った。あの銀時計がないと力が発揮できないどころか現場まで行くのもままならないのに…」
僕が頭を抱えている中、店長はホールの客をさばいたのか、キッチンの業務へまわっている。
く、くそ!緊急レベル2は相当やばいはずだ。国連の持ちうる戦力をすべて投入せねば勝てないくらいの事態である。せめて僕前線にでればこんな状況すぐに覆せるのに!
「ここがこの店の最前線だ!君たち急いで!」
店長の意味不明な号令に従業員たちが一斉に声を上げる。
だめだ。この店はもう手遅れである。
こうなったらもう全てを店長に打ち明けるしかない。僕がヒーローであること。地球が今危機に瀕していること。彼女なんていないことを。
僕は調理に専念している店長へ駆け寄った。
「おおおおおおおおおお!」
スタタタタタ!
店長は奇声とともにとんでもないスピードで食材切り刻んでいた。目にも止まらないその手際、普通の人間ができることではない。
僕が絶句していると
ブォーン、ブォーンと禍々しい音がキッチンを包んだ。これは緊急レベルが3に達した時の音である!見れば店長の腕には僕の銀時計がはめられている。
「うるさい!」
店長は銀時計は力任せにたたき警告音を止めると、怒りと喜びを混ぜたアーカックスマイルのような顔を見せた。
「天王寺くん、タイマーは止めておいてよ!でもさっきからこの時計を付けているとすごく仕事が捗るんだ。すごいねこれ」
「て、店長!!」
僕は焦燥と怒りを声に混ぜ込み、店長に全てを説明した。店長は目を瞑ったまま黙って聞いていた。
「というわけで今すぐにでも行かないと地球がやばいんです!」
「…………」
「あなたの一存で世界の、日本の、あなたの運命さえ変わってしまう。行かせてください!!」
「…………」
「店長……!」
店長は目を開けるとどこか遠いところをしばらく見ていた。彼の目は憂いを帯びており、いつものネチネチとした彼とはどこか違う雰囲気だ。
「おまえの話は分かった」
店長は僕に目を合わせる。
「なら、今すぐにでも…!」
「天王寺、お前に守るものがあるように俺にも守る物がある。そう、この店だ」
いつの間にか他のバイトや社員全員が厨房に集まっていた。
「お前がなんとしても地球を守りたいと思うように、俺もこの店を守りたい。その為には手段は問わない。この店を守る為にはお前が必要だ!」
「そんな!こんなちっぽけな店と全世界の人々の命、天秤にかけるまでもない!」
「《《こんなちっぽけな店一つ守れなくて世界が救えるか》》!!!!!」
「!?」
「大切なものに大小の価値差なんてねぇ!地球の運命?そんなもの俺からすればささいなことだ。本当に大切なのは今なんだ。こうしている間にもお客様は俺たちの料理を待っている!今お客様のご要望を満たすのが俺にできる一番大切なことだ!そうだろ?」
「………」
「天王寺、この店を守るのが俺の正義だ。しかし、お前にも正義はある。どうしてもというなら俺を踏み越えて行ってこい」
店長は銀時計をそっと置いた。僕にとって銀時計は眩しくて、戦いの最中でもこの輝きが僕の進む指針だと思っていた。でも今の銀時計はひどく錆びて見える。
ディスプレイにはとうとう緊急レベルが最大を告げる警告文が表示された。僕は銀時計を手に取るとそっとポケットにしまった。
「店長、お客様が待っています、急ぎましょう!」
「ああ、そうだな…」
僕はその日、閉店まで働いた。驚くことに仕事を終えた僕の心は澄みきっていた。なんでだろう、なぜか自分でも分からない。
「タイムカードは押すなよ、俺が預かる」
「はい!」
僕は世界を見捨てこの店を救った。それは世界を救うことと同じくらい満足感のあることだった。
「店長、お疲れさまでした!また明日」
もう外はすっかり暗くなり空の色は見えない。僕はまっすぐ家に帰った。
翌日地球は滅んだ。
おわり
なぜこの作品を書いたのか自分でも分かりません。でもブラックバイト、ダメ、絶対