春休みの小遠征
青空には雲一つない。遠くに見える山々もくっきりと見えて、春の陽気を感じさせる景色だ。
そんな田舎のような雰囲気を醸し出しているが、ここは街のど真ん中である。
聞いたこともない企業名の刀剣販売所が軒を連ねたその通りを「名もなき店の集合住宅」と言ったのは誰であっただろうか。
タケルが浅倉家に突然居候することになってもう二週間が経つ。相変わらず稽古三昧の日々が続いており、クタクタになりながら体に水分を補給する。みるみるうちにエネルギー回復。しかし体力は戻っても、筋力の疲労は溜まっていく一方だ。その理由として、優奈は恐ろしいほど稽古中厳しいのだ。怒鳴ったり、感情を露わには全くしないのだが、優しげに微笑みながら、木刀で叩きのめされるのは非常に不気味なものだった。
何とか必死でここまでやってきた。一週間前に九条 奈々の言葉で何かコツを掴み、剣術士としての動きが様になってきたようだ。それを優奈も理解したからこそ、タケルに対して厳しく稽古をつけているのだろう。
梶田も暇を見つけては相手をしてくれる。タケルにとってはこちらの方がやりやすいと感じていた。優奈よりも動きが遅いため、木刀を防ぐことが可能だからだ。しかし一撃の威力が凄まじいため、防ぐごとに腕が痺れてしまうが。
「今日は隣町の個人経営道場に行く予定なんですが、鶴来くんもどうですか?」
「え、あ、はい。ぜひ!」
突然のことだったが、道場への小遠征については事前に聞いていた。浅倉流は有名であり、様々な流派の道場から声が掛かり、合同稽古や練習試合を行っているとか。
野木平道場という小さな道場らしいが、門下生が梶田と同じ武戦組に勤めるほどの優れた剣術士を輩出しているという。
「練習試合って••••••何をするんですか?」
剣術の試合は先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の順で行う。そのため、最低でも五人必要だということ。
武器は専用の希木で作られた木刀を相互とも使用することになっている。
優奈は出来るだけわかりやすく説明した。
「普段の稽古と変わらない、みたいですね。」
「相手が戦闘不能になるまで行うので、とても危険なんですが、大抵はその前に降参するんです。」
剣術の試合はどこかしらの骨が折れるのは珍しいことではなく、最悪の場合は内臓にまで危険が及ぶほどだ。相手側が五人のうち、女性を三人入れるならば、こちら側も女性を三人入れなければならない。そのため、このような遠征の前には事前に報告を行う必要があるのだ。
話によると、昼にはここを出るらしい。隣町まではバスで数分しか掛からないが、午後一時には試合を始めるようだ。
第三道場を離れると、屋敷前には小型のバスが止まっていた。タケルと同じように第一道場から数人の門下生が向かってきているのがタケルにも見えた。女性三人、男性一人。
その中でも一際目立っていたのは黒髪のショートカットの快活な女の子。
「あ、優奈先輩!おひさでーす。」
「里奈、ふふ•••••••そんなに久しぶりでもないでしょう。二週間しか経ってないじゃない。」
葉山里奈は浅倉流の門下生であり、優奈に強い憧れを抱いている。剣士養成学校東支部の一年生きっての優等生だ(四月からは二年生ということになる)。他の門下生と違うところは他流派の剣術を学んでいることだ。
「あれ?•••••そっちの君は誰、かな?」
楽しげな微笑みを浮かべているが、里奈が若者を見る目は鋭い光を帯びている。
「あ、鶴来 タケルと言います。この度、午後の練習試合に同伴させていただきます。よろしくお願いします。」
いつも以上に丁寧な口調になったのは、その瞳に委縮したからだ。
里奈は目を細めて、顔を接近させる。優奈先輩に近付く悪い虫とでも思っているのだろうか。じわじわとタケルの背中には汗が浮き出る。
「君は優奈先輩の何なのかな?」
タケルが口を開く前に、隣に立っていた優奈が答えた。
「彼は浅倉家で居候しているの。今年の養成学校の入学試験を受けることなっているの。」
周囲の気温がみるみる下がっていくような、そんな幻想がタケルの精神世界で広がっていった。
笑顔が徐々に崩れ落ち、最終的に無表情が現れた。
そして発狂した。
「い、い、い••••••••いそぉぉうろぉぉぉぉぉ???」
鼓膜を揺らす大絶叫。
他の門下生たちも驚いて、何事かとこちらを凝視している。
「ど、どういうことですか、優奈先輩!こんな子を居候させるなんて!」
タケルは優奈には十四歳と伝えているため、十六歳の里奈とは二つ違いだ。里奈もそれは容姿で判断できたらしい。だからこそ強気な姿勢でタケルと話しているのだ。
優奈に問い詰める姿は大げさではなく鬼の形相だと言えるだろう。
もうタケルは眼中にないようだ。確かに年下の男子をいきなり家に住まわせるのは一般的とは言い難い。羨望ではなく百合に近い感情を優奈に対して持っている里奈にとっては非常事態だ。その感情は誰にも言わず、ひた隠しにしているが。
「彼には住む場所がなくて、それに記憶喪失みたいだから、ね。」
「んーもう!何だかよく分からないですよ!」
いろいろな非日常な情報が頭に流れ込んで、完全に処理できない。
「まあまあ、そんなことより遠征メンバーは決まったの?」
里奈の優奈に対しての感情は見ていればわかることだが、優奈が里奈に対して抱いている感情も悪いものではないのだろう。敬語が抜けているのがその証拠だと言える。
「そ、そんなことって•••••••まぁ、今は置いておきます。メンバーは決まってます。優奈先輩を含めて、女子三人、男子二人を選びました。」
優奈は満足そうに頷く。
「じゃあ、早いですけどお昼を食べましょう。皆さん、どうぞ上がってください。」
十一時を回りそうな時計を背にタケルは門下生たちと温かいうどんを食べながら交流を深めた。依然として里奈の視線は刺々しかったが。
ひと通りの準備を終えて、優奈とタケル、里奈そして他三名の門下生を乗せた小型バスは隣町の野木平道場に向けて発進した。ちなみに運転手は浅倉家専属である。
湘南区間は江戸区間の丁度真下にある区間である。タケルたちの目的地は隣町のため、区間の移動はないが、今のような時期、春休みや夏休みのような長期間の休暇時には道場の遠征で区間移動をするのは珍しいことではない。優奈の話では小型バスに揺られて、何時間もかけて伊達地帯の道場まで遠征したことがあるらしい。移動時間を想像するだけで恐ろしいと感じる。
窓からの風景が隣町に入ったことを教えてくれる。浅倉家がある町よりも緑が目立ち、背の高い建物はほとんど見られない。タケルは優奈と梶田の二人としか稽古をしたことがないし、剣術も見たことがない。だからこそ他の門下生、あるいは遠征先の道場の門人たちの剣術を見ることができる、こういう機会は自分にとって非常に有益になるだろうと考えていた。
(優奈さんに感謝しないと•••••••••)
助手席に座る優奈を後部座席から見つめているだけで何故だかタケルは幸せを感じる。この短い期間で少なからず好意を抱いてしまったのだろう。それはタケル自身理解していた。でもそれが明確な、素直にそう言える感情なのかは今はまだわからない。
ここ数日、このような思考に陥ることがある。
すると、突然隣に座っていた里奈が口を開いた。
「やっぱり•••••••我慢できない。あんたは優奈先輩と知り合って二週間しか経ってないんでしょ?ふ、まだまだね!私なんて小学生の時からの付き合いよ。どう?これが私と優奈先輩の繋がりの深さよ!羨ましいでしょ?」
まくし立てるように言葉を浴びせる里奈の姿に他の門下生たちはまぁまぁと懸命に宥めている。
タケルもいきなりのことに驚き、苦笑していたが、里奈が言った言葉が自然と耳に残った。
そう、優奈と知り合ってからまだ二週間しか経っていないのだ。
あの海辺で倒れている自分を見つけてくれた天使のような微笑みをいまだに鮮明に覚えている。心に刻まれているといった方が正しいだろうか。
自宅に住まわせてもらい、剣術という興味深いものを教えてもらい、言葉では言い表せないほどの恩義を感じている。それでも、
知り合ってまだ二週間なのだ。
考えすぎても仕方ないのだろう。これから確かめていけばいい。
タケルは里奈の挑発的な言葉でそう感じることができた。
「あ、ありがとうございます!」
「は•••はい?何で感謝してんのよ。まさか、あんた••••••そういう趣味、なの?」
里奈は当然、疑問を感じていたが、急にハッとした表情を浮かべて恐る恐る尋ねた。
「え?い、いや、違いますよ!僕はノーマルです!ノーマルの中のノーマルです!」
必死に否定するが、誤解が解けたかは怪しいだろう。
一転して、車内は和やかな雰囲気になり、目的地である野木平道場へと到着するのだった。
道場の周辺には広大な畑や田んぼが広がっていて、湘南区間でも殊更に田舎だと言えるだろう。
「ここが••••••••野木平道場か。」
誰かがそう呟いた。
道場は非常に古く、壁に使われている木材が所々朽ち果てている。浅倉家の第三道場の方が断然立派だろう。
小型バスを降りた優奈たちが道場の扉を叩くと、すぐに一人の初老の男性が姿を現した。
「おお、来たか。」
ボサボサの髪を乱雑に掻きながら、濁声で言った。無精髭を生やしたその顔は寝不足気味だとすぐにわかる容姿をしている。
「浅倉 優奈です。今日はよろしくお願い致します。」
優奈は恭しく一礼する。その姿には性別関係なく、誰しもが見惚れてしまうほどの美しさがある。
「そうか、君があの浅倉家の長女にして東の四天王の一人、浅倉 優奈か。噂以上に見目麗しいなぁ。ま、それはともかくとして、入ってくれ。うちの門下生も揃ってるぞ。」
男性が履いているボロボロのサンダルは今にも壊れてしまいそうだ。
靴を履き替えて、細長い廊下を進むと、外観の印象とは異なる立派な内観がそこには広がっていた。思ったよりも大空間で稽古をするにも、試合をするにも支障はないようだ。
「そういえば自己紹介がまだだった。俺は野木平 団平って名前だ。この道場の師範をやっている。よろしくな。そして•••••••••」
そう言って、団平は廊下の先にある扉を思いきり開け放った。
「こいつらが俺の門下生たちだ。」
「よろしくお願いします!」
一人を除いた野木平の門下生たちは大声を張り上げて一礼する。その気合いの入りようにタケルは圧倒されていた。
「よろしくお願いします!」
里奈を筆頭に負けじと声を張り上げる。タケルも少し遅れながら言葉を放つ。
「皆さん、今日は何卒よろしくお願い致します。」
優奈のそよ風か吹き込むような優しげな微笑み。案の定、相手側全員が息を呑むのが分かった。
「まぁ、荷物もあるだろうから、こっちの控室を使ってくれ。」
団平は棚が左右に置かれている手狭な部屋に優奈たちを案内した。もちろん男女別のため、タケルと門下生の平山は細長い廊下に荷物を置き、試合の準備を整えた。試合に出ないため、タケルは何もせず、立っているだけだったが。
浅倉流と野木平一門の面々は両方とも準備を終え、先鋒同士が向かい合っている。事前の相談で女子は四人ということになっていたようだ。
浅倉流
先鋒 葉山 里奈
次鋒 平山 巧
中堅 能勢 京子
副将 町田 理梨
大将 浅倉 優奈
野木平一門
先鋒 佐藤 由利
次鋒 野木平 銀平
中堅 南 静
副将 池田 沙織
大将 家永 恵理子
里奈は相手を威嚇するように睨み付けている。佐藤という相手もなんとか視線を逸らさずに里奈を見ているが、虚勢を張っているのが丸わかりだ。
「これから浅倉流本家門下生と野木平一門の剣術練習試合を始める。」
審判は野木平 団平が務める。相変わらずボサボサの髪はそのままだ。
「では•••••••始め!」
団平の言葉が言い終わると同時に里奈は一直線に突撃した。とてつもない速さだ。しかしそれ以上に驚きなのは加速度が異常だということだろうか。走り出しから最高速度に到達するまで約一秒しか掛かっていない。野木平一門の佐藤は後方に飛びながら里奈の動きをよく観察している。どんなに速くても、変則的ではなく、直線的な動きであるために読みやすい。
下から突き上げるように里奈の木刀が迫るが、それを相手は躱す。次に回転しながら木刀を一閃させるが、これは木刀で防がれる。
自分が出ているわけでもないのに緊張した面持ちで試合を見つめていたタケルはふとした疑問を優奈にぶつけてみた。
「葉山さんは門下生の中でも凄腕なんですよね?」
「ええ、そうです。」
「それなのに一番初め、先鋒で出していいんですか?」
「そうですね••••••••先鋒というのは試合に勢いをつけないといけません。これから四戦あるわけですから、一番最初は絶対に勝っておきたいんです。そうなると、優れた人物を先鋒に持っていくのは定石、ということになります。」
「なるほど••••••••」
タケルは納得した表情で大きく頷いた。
里奈は木刀を何度も振りかざして、相手を追い込んでいく。防戦一方になりながら相手もここまで一撃も与えられていない。
すると突然、里奈が振りかざした木刀が相手の木刀に弾かれた。
態勢を立て直して、前方を向くと、眼前に木刀が迫っていた。里奈がその一撃を防ごうとした瞬間、木刀がまたも弾かれた。
「これは••••••••••」
里奈の口から自然と呟きが漏れていた。
「あれは付加型の異能剣技••••••刀身強化?」
「え?相手何かしたんですか?確かにいきなり力が向上したみたいですけど。」
刀身自体に影響を及ぼす型を付加型といい、刀身強化は非常に基本的な異能剣技の一つである。
「刀身強化•••••••••最大!」
相手は刀身の強度を可能な限り、大幅に向上させる。
里奈は相手の木刀を防御しようとせずに全て躱し続ける。もし仮に木刀を折られてしまえば、否応もなく敗北してしまうからだ。瞬き一つせずに一撃、ニ撃、三撃、華麗に躱している。傍から見れば余裕そうに見えるが、かなりの集中力を使っているのだ。
相手の表情に初めて疲労の色が見え隠れしたのを里奈は見逃さない。
木刀を一閃した後の少しの遅れ。先程よりも次の攻撃に入るのに時間が掛かっている。
その隙を突き、里奈は瞬時に前方に踏み込んで、木刀を横に一閃した。
「ぐっ••••••••」
相手の胴体に強烈な一撃が入り、凄まじい勢いで後方に吹き飛んだ。相手はピクリとも動かない。気を失ってしまったようだ。
「勝者、葉山里奈!」
先鋒の対決は終了した。
「優奈先輩!勝ちましたよ!」
ピースをしながら真っ先に優奈のもとに駆けつけた。隣に立つタケルはおめでとうございますと言ったが、里奈は一瞥しただけで、優奈に向き直る。
「ええ、良い動きだった。相手の刀身強化も結構強力だったみたいね。」
優奈が見たところ、佐藤 由利という相手選手も弱いわけではなかったが、持久力と戦力眼が無かったことが敗北の原因だと感じた。
「はい。正直驚きました。あんなに弾かれるなんて思わなかったですよ!」
試合中の雰囲気はすっかり消え失せて、快活な少女に戻ったようだ。
「次の試合を行う。両者•••••••前へ。」
団平がそう言うと、浅倉流は平山 巧が前へと出た。しかし、相手側は誰も出ない。
「ん?銀平はどこにいる?」
「ぎ、銀平はさっき道場を出て行きました。でもすぐ戻ると言っていたので、止めませんでした•••••••すいません。」
池田という眼鏡を掛けた女性が恐る恐る言った。
「あの馬鹿息子•••••••」
団平は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてから、大きく息を吐き出した。
「すまんが••••••中堅戦から行ってもいいだろうか?」
これは優奈に向けられた懇願だった。
「ええ、構いません。大将戦の後に次鋒戦をやりましょう。」
「いや、本当にすまんな。」
優奈は微笑みを浮かべて、首を横に振った。
一つ飛ばしての中堅戦。
同じように団平の開始の言葉で始まった。
里奈の先鋒戦もそこまで派手な戦闘ではなかったが、それ以上に中堅戦は地味だった。
打ち合いはどちらが優勢とも言えず、決定打が無いまま、気付けば長期戦になっていた。結果が決まったのは始まってからおよそ二十分以上も経った頃のことだった。
野木平一門の南という選手が放った突きを能勢は防ぐのに失敗して、腹部にもろに直撃した。先鋒時の相手と同じように刀身強化を施していたため、通常よりも強烈な一撃となり、能勢の意識はすぐに途切れてしまった。
団平は急いで能勢の無事を確認してから、声を張り上げる。
「勝者、南 静!」
これで一勝一敗。
そして副将戦も同じように開始された。浅倉流は町田 理梨。野木平一門は池田 沙織。
内容は中堅戦とほとんど変わらなかったが、唯一違ったのは勝者が浅倉流だったことだろう。
「勝者、町田 理梨!」
「リリー!おめでとう、良かったよー!」
里奈がテンション高めに賞賛の言葉を口にする。
町田 理梨は剣士養成学校東支部で里奈と同級生で非常に仲が良く、よく稽古を一緒にしている。
次は大将戦。
「あ、優奈さん、頑張って下さい。」
次は優奈の出番でタケルも楽しみにしていた試合だ。
「ええ、頑張ってきます。」
長い黒髪をポニーテールにした姿は普段とは違い、大幅に印象が変わる。いつもの稽古の時と同じ姿であるが、いまだに新鮮な美しさを感じ、タケルは無言で見入ってしまう。それに気付いて、里奈はその間に体っを入れて、睨みを利かせている。
「両者、向かい合って•••••••」
相手の大将は女性でありながら、服の上から強靭な筋肉が窺える。タケルが見た印象では、梶田と似た体格であると言える。
「あ、家永 恵理子って•••••••まさか。」
里奈が思い出したように口を開いた。
「知ってるんですか?」
「梶田さんに聞いたことある。武戦組の大女の話。」
武戦組とは浅倉流門下生の梶田が勤めている民間護衛会社だ。
「それがあの人ってこと、ですか?」
「たぶん•••••••」
里奈が聞いた話によれば、大和政府の軍政副大臣である遠山 茂の護衛を最年少でやり遂げたことがある武戦組の中でも期待の若手だと言われているらしい。
「それでは•••••••••始め!」
団平のその言葉を言い終えた瞬間に相手は巨体に似合わない速さで優奈に突進してきた。
前の三試合の相手とは比べものにならないほどの動き。さすがは一流の民間護衛隊に勤めている人間だ。
それは一瞬だった。相手の巨体は大気を切り裂くような勢いで吹き飛んで、大きな音を立てて、壁に激突した。意識の有無を確認するまでもない。
「い、今のは•••••••?」
誰かが呻くように呟いた。
浅倉流は異能剣技を使用しない剣術を教えている。通常の剣術では他の追随を許さないと言われるほどだが、それでも異能剣技がないことは大きく、門下生の数もそれほど多くはない。
しかしある奥義の存在が結果的に浅倉流を無形文化遺産に選定させた。それは浅倉流の門下生には一人として使えず、浅倉家の人間でさえも現在は二人だけしか使えない技。
浅倉流剣術奥義 居合。
肉眼では確認できない抜刀術。大気を切り裂き、轟音が周囲に響き渡る。
見ただけでは理解できないほどの速さで道場内にいた全員唖然とした表情を浮かべている。空気が凍り付いたようで、沈黙が辺りを支配した。
「おいおい•••••••すげぇな。」
団平は多くの流派の剣術の達人を見てきたという自負があった。それでも優奈の技には強烈な印象を受けて、現に言葉を発するまで多少の時間を要した。
優奈が丁寧に一礼して、タケルの方へと戻ってくる。
「す、すごかったです••••••••」
タケルは懸命に言葉を絞り出す。
「ふふ•••••••ありがとうございます。そういえば鶴来くんには見せたことなかったですね。今のが浅倉流の居合という技です。」
今のがと言われても、タケルの肉眼では速すぎて何も見えなかった。
「やっぱり優奈先輩はすごい!天才だね!」
優奈の奥義に興奮度が最高潮に達している里奈は今にも飛び跳ねそうな勢いだ。
団平は意識を失っている家永を担いで、怪我をしていないことを確認した。
「威力を弱めて、怪我をなるべくしないように配慮した•••••••?」
想像以上の技量だと察した。驚愕が表情に出てしまったが、それを見た人間はいなかった。その天才を一瞥すると、ここに来た時と同じような柔らかい微笑みを浮かべていた。その笑顔の印象も今では恐ろしいものだと感じるようになっていた。
続いて後回しにしていた次鋒戦。
「よし!じゃあ、次は•••••••次鋒戦。両者、前へ。」
しかし今度は浅倉流の平山がそこにはいなかった。
ただ先程いなかった金髪で耳にピアスをした見るからにやんちゃそうな男が姿を現した。
道場の体育館の中央へと躍り出た。不気味な笑顔がその顔には張り付いている。
「あれ?巧、いないじゃん。」
里奈は辺りを見回したが、男子はタケルしかいない。
「さっきまではいたんですけどね••••••••」
どちらにしても三勝した浅倉流の勝利に変わりはない。しかしこれは練習試合だ。第五戦まで行うのは一般的なことだと言える。
そこにいるほとんどの人が疑問に感じていると、副将だった町田が口を開いた。
「平山君ならさっきトイレにいってくるって言って出て行きましたよ?」
どちらかと言えば、大人しい雰囲気の少女であるため、勇気を出して声を振り絞ったのだろう。
「そっか•••••••じゃあ、タケル!あんた、ちょっと呼んで来なさいよ。」
「え?あ、はい。わかりました。」
里奈が自分を名前で呼んだことに違和感を覚えたが、気にせず道場を出て、細長い廊下の右手にある男子トイレに入った。
そこでタケルは思わず立ち尽くしてしまった。
蛇口の水を出しっ放しのまま、一人の男性が倒れていたのだ。その人物こそが浅倉流の次鋒を任されていた平山 巧であった。