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翡翠の緑剣

タケルが蝦夷地で奔走している最中の東京大都市の江戸区。剣士養成学校東支部では今日も滞りなく剣術の圭子が行われている。でもどこか活気がない。いつもと変わらないだろうと言う人もいるだろう。それくらい乏しい変化だ。しかし感じ取れる変化だ。

一年から三年までの主力メンバーが全員留守にしていることは未だかつてない。一軍から五軍までが勢揃いで遠征に行くなど。


翡翠はただひたすらに木刀を振るっていた。

紅の武道場では彼女の他にも多くの生徒が稽古をしていた。日差しが照り返す外とは違い、武道場の中は冷涼で過ごしやすい環境となっている。


「いやーすっかり暑くなったね。」


水分補給をしながらタオルで汗を拭いている太郎が翡翠に話し掛けた。


「うん、そだね。」


「もう七月か・・・」


「四ヶ月も経ったんだね。入学してから。」

太郎が座り込んだので翡翠も同じように座った。


そして思い出す。翡翠が東支部に入学することは両親に反対されていたことを。いや、反対というよりも親は最初から期待していなかったのだ。

だからこそ無意味なことはやめて、河瀬グループとしての経営力を身に付けろ。何度となくそう言われてきた。翡翠はそれに反発し、東支部へと入学した。それが生きてきて初めて主張した自らの意思だった。

翡翠には姉がいる。河瀬 琥珀。河瀬グループのナンバー2で経営者としても剣術士としても非常に優秀で、東支部の元生徒副代表だ。翡翠の行動や心情は彼女の存在が大きく影響している。

琥珀は幼い頃から成績優秀で、それを側でずっと見てきたからこそ翡翠は劣等感を抱いてしまう。

翡翠の人生はその劣等感との戦いだった。

お姉ちゃんはあんなに凄いのに・・・・・・その陰口をどれだけの人間から聞いただろうか。

翡翠の心は幼いときから強いストレスを抱えていた。そういう環境に生まれてしまった自分の運命を呪ったこともある。


懐かしいな。


でも今は一歩ずつ前に進むことが何よりも大切だと学んだし、自分は自分だ。他の誰でもない。誰かと比べることなく、純粋に強くなりたいとタケルや隣にいる太郎達を見てて、そう思った。


翡翠は木刀を杖にして立ち上がる。


「あれ?もう休憩終わり?」


「うん、もう十分。」


「この頃、翡翠頑張るね。」


「私も遠征メンバーに選ばれたいから。」

タケルは五軍のメンバーに選ばれて、蝦夷の地で試合をしている。この時間も多くの経験をしていると考えるとやる気がふつふつと沸き上がってくる。


「それは僕も同じさ。負けないよ、絶対に。」

太郎も翡翠に続いて立ち上がる。翡翠は振り向いて太郎の瞳を見つめる。

私だけじゃない、そういう思いや信念を掲げているのは。

太郎も、そして他のみんなもそう。翡翠も確固たる思いを持つ。負けられないという強い思い。

それは休憩が終わってからの稽古に身を入らせた。


縦へと切り上げ、後方へ回避の行動。そして姿勢を低く保ちながら下から上へと一気に切り上げる。回転し、斜めに線を描くように一斬する。

 呼吸を整え、木刀を体の一部として認識させる。

 刀をただの物だと考えるな・・・ふとそんな言葉が心の奥底に浮かび上がる。

 誰から聞いた言葉だっただろうか?今一つ思い出せないが、スポンジのように染みわたっていく。


「刀は自らの身体の一部。そこに全てを乗せろ・・・」

 翡翠はそう呟きながら木刀を一閃する。

 今までとは明らかに異なる風を切る音が響く。その斬音は武道場内全体に聞こえるほどのものだった。


「す、凄い音したけど・・・今。」

 太郎は翡翠の方を凝視している。


「う、うん・・・私もビックリした。」


翡翠は自分の手、そして木刀に視線を向ける。今の一振りは今までで一番楽に振るうことができた気がする。その要因ははっきり言ってよくわからない。


「今の一振りは理想形だな。」

 武道場のギャラリーから声が聞こえたので翡翠も太郎もそちらを振り向く。そこには白シャツとジーンズのとてもラフな姿の男が立っていた。

 全然気が付かなかった。顔を見ても誰なのか分からない。


「あ、あの、どなたでしょうか・・・?」

太郎は恐る恐る尋ねる。


「ん、ああ、俺か?俺は宮部 奏っていうもんだ。よろしくな。」


「は、はあ。」


「ああ、新しくここの教官として赴任することになったんだ。」


言うの忘れてたと髪をがしがしと掻き乱す。マイペースな感じの人だ。それにしてもこの時期に新しく教官として赴任するなんて何か良からぬことがありそうで恐い。まあそんな風に考えているのはこの場で太郎だけだ。興味津々な生徒達も教官と名乗る男をじろじろと見るようなことはしていない。意識を傾けてはいるだろうが。


「ああ、申し訳ない。稽古の邪魔をしたな。続けていいぞ。」

奏は稽古を再開した彼らの動きを注意深く観察している。

目に留まるのはやはり翡翠。翡翠が河瀬グループのお嬢様だとも知っている。それだけ翡翠は有名人なのだ。


ギャラリーから降りて、同じ目線で木刀の軌道や表情などを見る。部外者ならここに入るために責任者の許可が必要だ。しかし奏は今日から東支部の教官だ。その必要はない。

といっても見られている方は居心地の悪さを感じるのは事実。慣れない視線で稽古に身が入らない者もいた。

そんななかでも翡翠と太郎は集中して取り組むことができていた。おのずと奏も二人を中心に稽古を見つめる。


「なかなか筋がいいな・・・・・・お前の名前は?」


「えっと、河瀬 翡翠です。」


「ふーん、で、お前は?」

 奏は次に太郎の方を向いた。


「松本 太郎です。」


「そうか、よろしく。翡翠、太郎。二人はこの中でも良いものを持ってる。頑張りゃ伸びるぜ、たぶんな。」


「あ、ありがとうございます。」


「特にお前だ、翡翠。お前には秘められた力がある。才能があるってことだ。」


「私にですか?」

翡翠は突然才能があると言われたことに戸惑いを隠せない。


「お前を強くしてやるよ、俺が。」

満面の笑みでそんなことを言う奏に翡翠は思わず構えてしまう。いや教官としては何ら間違ったことではないのだが、数分前に知り合った相手だ。完全に信用などできない。


「どうして私にそんなことをしてくれるんですか?」


「まあそりゃあ疑うわな。いきなり現れた知らねぇ奴に強くしてやるなんて言われたらな。」

奏は悪りぃと軽い謝罪をした。

「ただ、今日から教官としての第一歩だからな。気になる生徒がいたら声を掛けないとな。」


「宮部教官はこれまでは何をしていたんですか?」

 太郎は気になって聞いてみた。

「武戦組に勤めてたんだ。」

 武戦組は護衛隊派遣を主にしている企業だ。大和でもかなり有名で、風林寺財閥の配下にある企業として多くの剣術士が所属している。


「武戦組に・・・そうですか・・・それは腕に自信があるんですね。」


「まあな。それだけさ。それだけしかなかったからな、俺は。」


「で、どうする?俺の特別稽古受けてみるか?」

 翡翠そして太郎にもそう言った。

 二人はじっと視線を合わせる。迷いはない。強くなりたいという気持ちは今の二人には最も強い欲求だ。


「お願いします。私たち、強くなりたいんです。」


 翡翠と太郎は深々と頭を下げた。


「わかった。俺の全力でお前らを強くしてやる。最低でも五軍には上げてやる。絶対にな。」


 不敵な笑みを浮かべる奏にちょっとした恐怖を感じたが、それも覚悟の上。どんなことがあってもやり遂げようと二人は心に誓った。



次の日から奏との稽古は始まった。でも何か特別なことをするわけでもなく、ただひたすら翡翠と太郎に模擬戦をさせていた。

奏はパイプ椅子に座って何も言わずにその光景をじっと見つめている。


翡翠も太郎も木刀を合わせながら心のなかでは少し気掛かりだった。これではいつもと変わらないのではないか、と。


休憩を挟んで何度模擬戦をやっただろうか?さすがに疲れが見え始めた二人。そのタイミングでようやく奏はゆっくりと椅子から立ち上がった。


「おっし、やめ。」

そう言われて翡翠と太郎の二人はすぐに刀を持つ手を下ろす。


「うーん、そうだな・・・型にはまりすぎてるな。二人とも。もっと自由にやっていいぞ。」


太郎は困惑した。今の動きが自分にとって最も隙をつくらない攻撃の組み立て方だったからだ。そう思い込んでしまっているこの思考こそ改善させるべきなのだろうか。


「よし、んじゃあ俺が相手をする。その方が普段とは違う自分を出せるかもしれないだろう?」


「お願いします。」


まずは翡翠と奏が木刀を交える。

奏は太郎とは比較にならないくらいにタッパがあり、一振り一振りが力強く、重い。

「防戦一方では何も得られないぞ?」

 スピード、パワー、全てにおいて翡翠が戦ってきた誰よりも強い。教官である香織と手合わせしたこともあるが、彼女よりも強い気がする。


 翡翠は奏から少し距離を開ける。そして奏の動き全てを見逃すまいと翡翠は集中を高める。

 ・・・・・・右・・・いや、左へと重心が傾いていくのが漠然と判断できた。

 ほんの微かな感覚。でもそれは確かに感じ取れた。

 

 奏の木刀から繰り出される斬撃は左から襲ってくる。奏はその一撃を華麗に躱して、回転しながら木刀を横に一閃させる。奏の首元すれすれで木刀は止まり、翡翠も奏も同時に動きを止める。


「・・・やるじゃないか。別人みたいな動きだな。今の一瞬で何がお前を変えた?」


「い、いえ何も。ただ何となく視えたんです。」


「視えた?」


「はい。宮部教官の重心がどちらに傾いたのかが。」


「へぇ、そうか。じゃあ・・・これはどうだ?」


 奏は再び翡翠に向かって飛び出した。

 さっきと同じように集中を高めるが、奏の細かな動きに惑わされ、何も感じ取ることができない。奏の木刀を避けることも防ぐこともできず、ただ茫然と立ち尽くしてしまう。まぐれだったのだろうかと翡翠は少々落ち込む。しかし奏は嬉しそうに笑いながら翡翠の肩をポンと叩いた。

「そんな落ち込むな。一度俺の木刀を躱すことができたのはまぐれなんかじゃない。お前の才能だ。」


「でも二度目はダメでした・・・」


「そりゃあ捉えられないように攻撃したからな。むしろ二度目のを止められてたなら俺のいる意味がないだろう。」


奏は木刀の他に小刀ほどの木剣を手にした。変則的な二刀流との戦闘訓練。翡翠は一度大きく息を吐いて、よろしくお願いしますと一礼した。


数分後。

「難しいだろう?太刀筋を読むことさえできないと思うぞ、今のお前には。」

「はい、その通りです。動きに全然ついていけません。」


翡翠は見るからに落ち込んだ顔をした。奏は深刻さを一ミリも感じさせない声色で話し始める。


「でも今のところは、だ。これからのやり方次第で今の動きについていくのも余裕になるだろう。」


「はい、頑張ります。」


翡翠の番は終わり、次は太郎が奏と稽古をする。


紅の武道場は三人以外には誰もおらず、閑散としている。開いた窓から風が吹き抜けて、開きっぱなしの扉から出ていく。空気が循環し、いつもより過ごしやすい環境になっている。


翡翠は紅の武道場から一度外へ出て、東支部の敷地内を散歩し始める。ずっと木刀を握っていると気が張り詰めてしまうので、まあ一種の気分転換だ。

 敷地に植えられた木々の枝葉は太陽の光を浴びて、元気良く空に向かって伸びている。もうすっかり夏の日差しだ。外を散歩するだけで額に汗が滲んでくる気温。蝦夷の方はどうだろうか。ここよりも暑いなんてことはたぶんないと思うけど。

奏との稽古は五限目が終わった後、いわゆる放課後に行われている。自主練として放課後も武道場に赴く生徒は多々いるが、今日は偶然にも翡翠と太郎だけだった。


養成学校の敷地を示す外壁の表と裏には多くの見張りが立っている。それもこれも遠征によって教官のほとんどが留守にしているためだ。支部長も不在なのはさすがにまずいのではと個人的には思う。支部長代行は大峰 香織が勤めているらしい。慣れない環境にあたふたしている様子が想像できる。翡翠は思わずクスッと笑った。


校舎裏の並木道を歩いていると裏門に黒い高級車が止まるのが見えた。見覚えのある車で一瞬で体温が上昇する。


翡翠は訝しげな表情で車のドアが開くのを見ていると、降りてきたのは予想通りの人物だった。

翡翠はその男のもとへと早歩きで接近する。

高級感溢れる灰色のスーツを身に纏い、背筋がピンと伸びた姿は彼が高位な人間だと示す証だ。


翡翠が男に近づいてくるのを見て、護衛らしき人物は腰にある刀に手を添えるが、すぐにその手を止めた。

「お父様、どうしてここに?」

翡翠は低い声でそう言い、河瀬 啓一が何故ここに来たのか理由を問う。


「おお、翡翠か。驚いているようだな。私がここにいることに。」


「支部長は不在ですよ。来ても無意味です。」

何の感情も含まない表情と声。それは父親への反抗心の表れ。敵意を見せることさえ嫌だということだ。どちらかと言えば取り繕った笑顔を見せることの方が多い。偽りの笑顔だと父親である啓一も気付いている。いや気付かれても別にいいと翡翠は思っているのだ。


「支部長に用があるとは一言も言っていないぞ?」

 予想外の言葉だった。じゃあ誰に何の用があるというのだろう。翡翠がそう思ったとき、背後から声が聞こえた。

「お待たせしましたね、啓一殿。」


「おお、これはこれは。富山さん、今日は申し訳ないですね。お忙しいでしょうに。」


「いえ、大丈夫ですよ。・・・ん?お前は河瀬 翡翠か?父親と話をしていたのか?」


「富山教官、父に何の用なんですか?」

まさかの相手で翡翠も困惑した。啓一と富山の間に繋がりがあると聞いたことは一度もなかったからだ。


「それは啓一殿に聞いてくれ。俺は少し話したいことがあると言われただけだ。」

具体的な話はこれからということか。事前に内容を明かさないのは父がよくやる手だ。相手が得る情報をできるだけ少なくして、物事を自分に有利に運ぶようにするのが目的なのだ。


「そうですか、わかりました。すいませんでした。失礼します。」

翡翠は啓一に詰め寄ることなく、富山だけに一礼して、その場を後にした。

啓一に聞いたところで誤魔化した解答しか返ってこないのは目に見えているからだ。


翡翠は紅の武道場へと来た道を戻っていく。武道場に置きっぱなしにしていたタオルで流れる汗を拭き取る。この汗の量、外気の暑さだけが理由ではないようだ。

それからは稽古に身が入らず、一日目は終了した。



次の日の朝、携帯に着信があった。その相手は電話を掛けてくるのに珍しい人物だった。

「どうしたの、お姉様。」

友好的ではない空気感。でも嫌悪感にまみれているわけでもない。どう接すればいいのかわかっていないような感覚で翡翠は尋ねる。


「翡翠?久しぶり。元気してる?」


「う、うん。まあまあかな。」


「そう、ならいいけど。」


元気かどうかをわざわざ聞くためだけに電話をしてきた?なんて思うほど馬鹿ではない。

何か伝えなければならない重大な問題があるのだろう。翡翠は姉の琥珀の次の言葉を待つ。


「翡翠、あなたの、その、養成学校にお父様が来なかった?」


「え?・・・う、うん。昨日来てたよ。何で来たのかは教えてくれなかったけど。」


「そう・・・・・・」

そこから一分間の沈黙。姉がこんなにも深刻な感情を露わにさせるのはとても珍しい気がした。

急かすことなくじっと待っていると、電話越しにも大きく息を吐く深呼吸の音が聞こえた。


「よく聞きなさい。私たちの父である河瀬 啓一は米国と繋がりを持っているわ。」


「え?」

米国と繋がり?漠然とした情報ではあるが、間違いなく大和政府からの処分対象になりうることをしている・・・少なくとも姉はそう考えているようだ。

でもそれは一体何なのか。そしてそれは個人でなのか、河瀬グループとしてなのか。疑問が尽きない。


「・・・探知され始めたわ。いい?翡翠、お父様は大和を裏切り、米国と手を組んだ。これは明白な事実よ。私はそれを許さない。あなたも選択するときが来るはず。何を選ぶかはあなた次第よ。ただひとつだけ、私からあなたに渡したいものがあるの。一度どこかで会えない?」


琥珀からそんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。怒濤の展開過ぎて頭が全くついていけていないというのが正直な感想だ。ただ会えば何かが分かるだろう。翡翠は今日の夜中はどうかと提案すると、琥珀から承諾の返事が来た。不思議な気分だった。姉と会う約束をしたことが。たぶん生きてきて初めてのことだった。


翡翠は電話を切る。しばらく動かずにじっと一点だけを見つめてボーっとしていた。


「髪・・・切ろうかな?」


鏡に写った自分の姿を見て、珍しくそう思った。











 





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