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悪夢の始まり

タケルは走っていた。ぜえぜえと息を切らしながら走っていた。

体が軽い。ランナーズハイというやつか。

どのくらい走っただろう。わからないくらい走っている。

剣警局が横浜にあることだけは知っていたが、どちらに向かって走ればいいかよくわからなかったため、適当に走り始めた。

携帯も何も持っていなかったため、地図を確認できなかった。誰かに聞く、それが一番手っ取り早い話だったが、不思議と何もわからないまま走りたいと考えていた。

だから今の状況は別に苦ではない。

ただ冷静になるとやっぱり場所の確認はしたいと考えるようになっていた。

元も子もない。


「ここどこだろう••••••」

漏れ出た呟きは見知らぬ街並みに吸い込まれていく。通行人はほとんどいない。

ビルが立ち並んでいる、いわゆるコンクリートジャングルの真っ只中にいる。

そのため東都の外れではないことは事実だ。アルプスの方に行けばビル群ではなく、森林地帯がメインになってくるのだ。


そのアルプスから昨日帰ったばかりにもかかわらず、こんなハードな一日を過ごしている自分が凄い人間のように思えた。


アルプスでの闘争を思い出す。タケルは何もしていない。いや、何も出来ないのは分かっていた。それほどの実力が自分には無いのだから。

しかし一度無謀な賭けに出てしまった。

ダンテ モーガンという米国きっての剣術士に挑みかかったのだ。

あれは戦うという選択肢が頭にあったわけではない。実を言うと頭で何かを深く考えた訳ではなく、体が勝手に動いてしまった。

剣女衆の戦う姿にじっとしていられなかった。

あの行動で渋沢や綾からはみっちり怒られた。それでも反省はしているが、後悔はしていない。あそこで戦えない男にはなりたくなかった。


そんな風に考えながら走ってきたタケルは急に速度を緩めた。

疲れたからでも考え事をしていたのが理由でもない。


前方から女性が走ってきたのだ。

いや、走ってきたというよりも逃げてきたと言った方が正確かもしれない。

顔は傷だらけ、しかも裸足。服は所々が破れ、柔らかな素肌が露わになっている。

どう見ても深刻な事態に巻き込まれているのは明白だった。

女性は力尽き、倒れ込んでしまった。


「どうしました!大丈夫ですか?」

タケルは慌てて走り始め、倒れ込んだ女性に声を掛けた。

「•••••••••は、はい••••••大丈夫、です。」

弱々しい声で今にも意識を失いそうだ。

とにかく安全な場所に連れていくのが先決だ。

そう思い、タケルは女性を慎重に持ち上げようとした。

その瞬間、女性を追ってきたのか白衣姿の男と黒スーツにサングラスの男が走ってきた。

タケルは向かってくる二人と倒れた女性を交互に見る。

あれは誰だ?この人は誰だ?いや、考えてる暇はない。直感で動け。


この人を連れて逃げる。


タケルの判断は時間にすれば僅かなものだった。

女性を背負い、走る。振り返らずに走る。

背後から怒鳴り声、刀を抜く音が聞こえる。何よりも強い殺気が迫ってくる。


それでもタケルは一切止まらずに全力疾走する。女性は驚くほど軽かった。心配になるほどに。でも今はそれが功を奏していた。

道を曲がり続け、なんとかして男達を巻こうとするが、相手はかなり戦い慣れている剣術士なのか、タケルを見失わずにしっかりとついて来ている。振り返らなくても理解できる。殺気が全く消えない。


焦りはある。でも逃げられる自信はあった。

スピードならば負けない。負けられない。

唯一の自分の武器。


タケルの速度が上昇した。

優奈が見れば手放しで賞賛したであろう。

それくらい一級品のスピードだった。



「なんとか巻いたみたい••••••だね。」

息を切らしながらなおも走り続けるタケルは背後から迫る殺気が消えるのをしっかりと感じた。


タケルはここで携帯を持っていなかったことを初めて後悔した。

あの文明の利器は本当に優れているものなんだと理解し、これからは絶対常備しようと心に決めた。


巡り巡ってなんとか病院を見つけることが出来た。女性は衰弱していた。

彼女は急患として治療され、入院することになった。

命に別条はないらしい。それだけでもタケルのした仕事は大きかった。ホッと胸を撫で下ろす。ここで命に関わることが起きてしまったら、タケルはたとえ自分のせいでなくても自分を責めるだろう。だから本当に良かった。


病室に案内されると女性はベッドで安らかに眠っていた。

女性の寝顔を、しかも名前も知らない人の寝顔を見てもいいものなのか逡巡するタケル。

自分の中の解決策として椅子を少し離し、カーテンを閉めることで折り合いをつけた。


どのくらいそうしていただろう。

帰るのは憚れたし、純粋に放っておけないというのが本音だった。


太陽が沈みかけ、朱色の世界が広がる時間にようやく女性は目が覚めたらしく、布団が擦れる音、そしてここはどこと小さく呟く声が聞こえた。

「気付きましたか?」

女性の戸惑いが最高潮に達する前にカーテン越しにそっと声を掛けた。

「誰、ですか?ここは、どこ?」

女性は怯えている。この怯えようは普通じゃない。何があったのかタケルは無性に気になった。

「えっと•••••ここは病院です。それで僕はあの、鶴来 タケルっていいます。」

「鶴来•••••さん?何故私は病院に?」

現状を把握できていないようだ。まだ目を覚ましたばかりであるし、それも仕方のないことだろう。

「えっとたまたま僕が走ってきたところにあの、あなたが走ってきて••••••いや、逃げてきて、それでなんか怪しい人達が追っかけてきたのであなたを背負って逃げて、最終的にここに到着したんです。」


相変わらずの説明ベタ。タケル自身理解している。上手く伝わっただろうか。もっと丁寧に説明するべきだろうか。


「あ•••••••あ•••ああ、怖い•••••助けて•••怖い••••た、すけ•••••て••••」

女性の変貌ぶりは異常だった。何かを思い出したのか、小刻みに震え出し、虚ろな瞳を大きく見開いている。


「だ、大丈夫ですか!しっかり!」

タケルもどうしたらいいのか分からず、ただあわあわしていた。

幸いなことにすぐに発作のような現象は収まった。女性は息を整えて、落ち着こうとしている。肩が上下する。やはり衰弱している。


「すいません•••••取り乱して。もう大丈夫です。」


タケルはなおも気遣わしげに女性を見つめる。


「••••••••そういえば名乗っていませんでしたね。私は寺内 瑠璃と申します。先程は助けていただきありがとうございました。」

「いえ、そんなたいしたことは••••••••」

タケルは何があったのか知りたいとは思っていた。少しでも力になれれば、そう思わせるほどの発作だった。しかし積極的に聞くべき事ではないなと思い、余計なことを言わないようにしていた。

結果的にその気遣いは杞憂に終わった。

彼女から概要を語り始めたからだ。


「ブラストコーポレーションという企業を知っていますか?」

「企業名だけなら何度か聞いたことがあります。」

「表では米国との貿易がメインで刀剣や人形パペットの輸出入を行っています。」

一つの引っ掛かるキーワード。

「表では?」

「••••••はい、表の話です。」

「ということは裏の仕事があるってことですか?」

小刻みに震える瑠璃の手はギュッと布団を強く握っている。

「••••••••はい。」

瑠璃の返事から何か言いようのない悪い予感をタケルは瞬時に感じ取った。


「••••••裏では人体実験をしてるんです。」


それは突拍子もない内容。

想像もしていなかった内容。

頭が追いつかない理解不能な内容。


人体実験?何が、どうして、何のために。

本当のことなのか。信じられない。

それでも笑って済ませられないのは目の前の彼女の様子が一番大きい。

嘘を言っているとは思えない。思いたくない。


「それは••••••••••••••どういう、ことですか?」

「普通こんなこと言っても信じられませんよね。あんなに有名な一流企業がそんな狂気的な行動をするわけないって思いますよね。でも••••••••これは事実です。」

「でも何のためにそんなことをするんです?彼等の目的は?」

「彼等の目的は人形の強化•••••そのために人間の臓器を取り出しています。」


確かに養成学校入学試験の際に用いられる人形はほぼ全てがブラストコーポレーションを通じて米国から渡ってきたもので、ある程度の合法的な強化処理が行われているのは事実だ。しかし非人道的な方法により人形が強化されているなどという話はまるで聞いたことがない。


「臓器を人形にそのまま埋め込むってこと?」

「はい、そうです。臓器以外にも人間の脳を人形に移植し、人間とほぼ変わらない思考を身に付けた人形もいるようです。」


「そんなことが••••••••••」


あの決められたことしか話せない人形が会話をして、笑ったり、泣いたり、怒ったりするのだろうか。人形の見た目はどうなのだろうか。養成学校の試験の時も相当人間と変わらない見た目で驚いたものだ。

気にはなる。気にはなるが、それが人間から生み出された産物だと考えるとただただ恐怖しかなかった。


「とにかく••••••寺内さんは見つかったらまずいんですよね?」


タケルは目先のことだけ考える。目の前の女性の力になろう。それが自分のするべきこと。


「••••••はい。でももう大丈夫です。少し休んだら身体もだいぶ良くなりました。」

「これからどうするんですか?」

「わかりません。必死に逃げることだけで精一杯でしたから•••••••」

「なら剣警局に保護してもらいましょう。」

「剣警局ですか?」

「はい。国に頼むのは難しいでしょうから。」


瑠璃は少しの間黙って考えているようだった。剣警局は国を介さないため、身動きが取りやすい組織である。それはかなりの利点であり、今の瑠璃の現状では何においても速さが第一条件だ。

決心。

「そうします。剣警局に行きたいと思います。」

「それなら僕が案内します。ついでに護衛もしますよ。」

「でも••••••」

病院に連れてきてもらって、それに加えて剣警局までの案内をする。そこまでしてもらうわけにはいかないと少し困惑気味な表情を浮かべる。

「いいんです。そうしないと気が済みませんから。」

タケルがにこやかに微笑むと、瑠璃も釣られて薄く微笑んだ。


「では早速••••••本当にもう動けますか?」

タケルは心配そうに確認するが、瑠璃はこくりと自信満々に頷く。

「ええ、もう大丈夫です。もともと昔から体力はあったんです。」

「そうなんですか?」

「はい、私、北辰道場の門下生だったんです。」

「え?あの北辰道場ですか?」

「はい、あのです。」

段々と瑠璃の微笑みが柔らかくなってきた。リラックスしてきた証拠だろう。


北辰道場。

タケルでさえも聞いたことがある道場の名前。その北辰道場は大和でも超が付くほど有名な道場で数多くの門下生を抱えている。東北に位置しており、この道場に通うためにわざわざ九州地区から移り住む者もいるという。代々受け継がれてきた剣術の流派と違って、一代で北辰天源流というオリジナル剣術を編み出し、考えられないくらいの規模まで流派を広めたのが師範代の亜龍 天斎である。

その道場の門下生だったということはそれなりの剣術の心得を身につけているということだろうか。


「それなら何か武器があった方がいいですね。」

「それは道中でなんとかしましょう。」


二人が動き始めようとした時、何やら室外が騒がしくなり始めた。嫌な予感がするもののタケルはドアを少し開き、辺りを確認する。

患者らしき人が戸惑っていたり、看護師の怒声が聞こえてくる。何かトラブルがあったのは間違いない。それが何なのかはタケルの場所からは確認できないようだ。

タケルは仕方なく冷静さを装いながら室外に出て、近くの野次馬に声を掛けた。

「何かあったんですか?」

「あ、ああ。何かヤバい人が病室を見回ってるみたいだぜ。誰か探してるみたいだ。」

「ヤバい人?」

「ありゃあ普通じゃねぇぜ。間違いなく裏の人間だ。」

自信満々に断言するその男性に心配ですねと一言返してからタケルは病室に戻った。

彼の言うことが誤っていることを祈りたいが、ただ祈っていても始まらない。早々にこの病院から逃げなければ。

おそらく先程の追っ手が居場所をどうにかして嗅ぎ付けたのだろう。予想していたよりも早かった。流石は一流企業といったところか。


「いろんなルートがあるのかな。」

タケルは小さく独り言を呟き、病室の窓を確認する。

瑠璃はいつの間にか着替えを済ませ、いつでも発つ準備は出来ている模様だ。

「こっから行くしかないみたいですね。」

タケルが示唆した逃走ルートは三階病室の窓からの脱出。もちろん下はただのコンクリート舗装だ。飛び降りれば最低でも足の骨は折れるだろう。打ち所が悪ければ最悪待っているのは死だ。まぁ、ここでじっとしていても待っているのは死という事実に変わりはないが。

「行きましょう。その選択が最良ならばそれを選ばない理由はありません。」

瑠璃は強い視線でタケルを見据える。

タケルが心に溜めていた心配は何処かに消え失せ、決断した表情を浮かべる。


「じゃあ行きましょうか。フォローは僕に任せて下さい。」

室外がやけに騒がしくなり、薄い殺気が漂い始める。それを敏感に感じ取ったタケルが勢いよく窓から飛び出した。その瞬間、木刀を腰から抜き、思いきり振り抜く。

具現型異能剣技、昇龍閃。

今は飛び降りた形で頭が地面に向いているため、降龍閃といったところか。

コンクリート舗装された地面に強い下降気流が舞い踊る。タケルの身体はふわっと勢いを無くし、そのまま何事もなく着地した。


ここまではタケルが描いた通りの展開。

問題はここから。


タケルが身振り手振りで瑠璃に合図を送る。すると全く躊躇することなく、瑠璃は全身を投げ出すように飛び降りた。

それはタケルへの信頼。彼女に安心をもたらしてくれた小さな少年の大きな背中。

それは間違いではなかった。


タケルは振り抜いた。上昇気流。しかしそれは微弱。身体に被害を及ぼさないように上手く調整されている。

その結果、瑠璃は傷一つなく地面へと降り立った。

「すごい••••••••正確ですね。」

「嘘でも嬉しいです。さ、急ぎましょう。」

二人は息つく暇もなく、その場を後にした。三階の病室から覗く数人の影から逃げるように。






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