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アルプス連帯と米国

翡翠色の髪が揺れる。

「す、凄い•••••••」

貼り出された紙の前で翡翠は唖然としていた。

五軍の選抜試験から五日。

朝稽古のため、太陽が目を覚ます前に登校した翡翠。

「ほんとに選ばれちゃった•••••••」

巨大な掲示板が本館ロビーに用意され、選抜団に新しく選ばれた者の名前や昇格した者の名前がでかでかと貼り出されていた。

その中に鶴来 タケルの名前が五軍の欄にしっかりと書いてあった。あまりのことに翡翠は目を疑ったが、すぐに疑う余地がないほどの結果を残していたことを悟る。

タケルの背が遠ざかったようで寂しさが募る。それでもその感情に嬉しさも混じり合い、非常に複雑な気分を味わっていた。


その後の朝稽古にも力が入る。遥か前方を走るタケルの背に追いつきたいという一心でひたすら木刀を振るっていた。

襲撃事件からリハビリを続け、ようやく思うように体を動かすことが可能になってきた。

信春の刃が翡翠の体を抉った時、まさにその瞬間、死というものがすぐ身近なものに感じられた。

死ぬ、亡くなる、滅ぶ、消える。言葉では理解していたつもりでも微かにその一端に触れるだけでこんなにも恐怖を刻むものなのだと体で理解した。

斬られてからは全く記憶がない。目を覚ますと雪のように真っ白な世界が広がっていて、そこが病室だと気付くのに少し時間がかかるほど自分がどうしてしまったのか、現状を把握することに苦心した。

後々何が起きたのかを聞いてから、あの危険に満ちた場所から助けてくれたタケルや八尾、剣警員の人々には翡翠は今でも感謝の気持ちしかない。


三週間ほどの入院の中で久し振りに父親と面と向かって話をした。

翡翠の母親は既に亡くなっていて、肉親は父、そして姉が一人ということになる。数多くの愛人の存在は新聞社がスクープで暴露していたが、翡翠にとってはどうでもいいことだった。

それが翡翠の父親に対する意識。

その父は河瀬グループの総会長、河瀬 啓一という。

東都では知らない人はいない大富豪で、多くの企業を子会社として持っており、政府の高官とも繋がりを持っているとも噂されている。

何度か見舞いに訪れ、雑談に耽っていた。

しかしその二人の会話はよそよそしさを感じさせ、翡翠に限っては作り笑顔さえも覗かせていた。

病室という一緒の空間に身を置いていても、心は遠く離れていたのは明らかだった。

見知らぬ人を接待する時と同じような疲労が溜まったが、そんな憂鬱な気分を晴らしてくれたのがタケルを含む養成学校のクラスメイト達だった。

ワイワイガヤガヤと騒々しく、看護師に注意されながらも笑い合う。そんな光景が愛しく思えた。



思索に耽っているうちに朝稽古の時間は刻々と過ぎていき、ちらほらと生徒の姿が見えるようになった。

翡翠はタオルで汗を拭い、武道場備え付けのシャワー室へと向かう。朝稽古に励む生徒はこのシャワー室を利用する者が多い。男女用が分かれているが、男子用さえも女子に占領されているため、事実上全て女子専用というのが現状だ。


服を乱雑に脱ぎ捨て、柔らかな素肌が露わになる。

シャワー室は左右に六つのシャワーがそなえつけてあり、一つ一つ仕切りで区切られているが、上と下に隙間があり、声は筒抜けだ。

今は翡翠が使うシャワーの水音だけが響き渡り、まるで心を浄化するかのようだ。


ふと翡翠は自らの体を見下ろした。

豊満とは言い難い胸ではあるが、あまり気にしていない。

小さな胸も大きな胸も男の好みは人それぞれらしい。何処かで耳にしたそんな達観した考えは翡翠に安心感を与えていた。

女性らしさの象徴であるから憧れる時期もあるにはあったが、現実を直視するのが非常に早かった。


シャワーを浴び終わり、シャワー室を出ようと入口の扉に手を掛けた瞬間、突如として前方から強い衝撃を感じ、尻餅をつくようにして転んでしまう。

タオルがはだけ、隠していた部分が露出した。

「いたたたた•••••••••」

「あ!ごめんなさい!」

翡翠がお尻の痛みに堪えながら見上げた先には、タオルで隠すこともなく、全裸を披露している少女がいた。

「大丈夫!医療隊員呼ぶ⁉︎」

「いや、大丈夫です、大丈夫ですから。」

過剰な心配を覗かせる少女に落ち着くように諭す。どうにか落ち着きを取り戻すと今度は一転、満面の笑みを浮かべて、太腿にある傷について語り始めた。

「あ!そうだ!この傷見て!痛そうでしょ?実際痛かったんだなぁ〜これ。子供の頃にお父さんの本物の刀で一人でチャンバラごっこしてたら、何故だか太腿切っちゃったんだよね。あはは。」

翡翠は終始圧倒された様子で全く少女の話が入ってこない。

知り合いでもないような人にばったり出くわし、急に自らの怪我の話をするという奇異な行為に頭がついてきていないのだ。

「あれ?よく見れば•••••あなた見たことあります。河瀬 翡翠さん、だよね?」

「え?私のこと知ってるんですか?」

「うん、もちろん!河瀬グループ総会長の娘さんだよね?」

「あ、はい。」

やはり河瀬の名で知られていたに過ぎないと翡翠は肩を落としたが、次に少女が口にした言葉には驚きを隠せなかった。

「それにあの襲撃事件の時、身を挺して、この学校のために戦った勇敢な女剣術士だよね!」

「いやいや、それは違いますよ!」

必死の否定。何か良くない伝わり方をしている気がする。

「でもあの一件での戦闘で怪我したって。」

「まぁ、それはそうなんですけど••••••」

「ほら!やっぱり勇敢ってのは間違ってないじゃん!」

「でも私、あの時何にもやってないですし。」

困惑顔の翡翠に少女は既に見慣れた笑顔を向ける。

「何をやったかじゃないよ。どんな思いでどんな行動をしたか、だよ!」

親指をぐっと立てて、少年のように笑う少女。彼女はすぐにハッとした表情で頭を下げる。

「申し遅れました、です。えっと、林 亜由美。一年弐組です。」

「林•••••亜由美?あ、まさか五軍選抜試験に選ばれてた人?」

そこでようやく翡翠は思い出した。

選抜試験でタケルと同じ一年の中で最も目立っていた初戦に出てきた少女ことを。

そして今朝、掲示板を確認した時に五軍の十人に選ばれていた。

「実はそうなんだよね、これが。まさか選ばれるとは思ってなかったけど、てか、お腹冷えてきた。一回シャワー浴びてくるね。」

「あ、そうだね、ごめん。」

「全然!」

そう言うと、滑る床を一人で楽しみながらシャワーを浴び始めた。

ひあ、冷た!という悲鳴を背後に聞きながら翡翠もそそくさとシャワー室を出て、着替えを済ます。

しばらくするとシャワー室の扉が乱暴に開けられた。

「いや〜、すっきりしたぁ〜。」

「朝稽古してたの?」

「うん、そうなんだけど、その武道場のシャワー室何でか鍵かかってて入れなくてさ〜。だからここに来たの。」

タオルで豪快に髪を拭き始める。おおよそ亜由美の仕草は女性とは思えないほど杜撰なものだ。

「よし。あれ?もうこんな時間だ。行こっか、翡翠。」

亜由美の言葉に頷き、武道場入口に向かう。新たな始まりの予感が翡翠の心に吹き付けていた。




養成学校の外壁はすっかり暖かな朝の色に染められ、街路には多くの市民が行き交い、徐々に活気に満ちてきた。

そんな学校近辺とは全く異なる雰囲気に包まれた国議大聖堂の敷地内。朝も昼も夜も変わらない静けさはこの国の中心地には誰もいないのではないかという錯覚を起こさせる。不気味な気分はいっこうに晴れないまま、九条 奈々は中心の建物、幕政館へと足を踏み入れる。

様々な事項を決定する大和国を動かしている場所。

両開きの豪華な扉を抜けると、そこは吹き抜けの空間が広がっていた。左右から伸びている階段を先導役の男性が無表情に上り始め、好奇心を押し隠しながら背後を黙ってついていく。

実際のところ、奈々は国議大聖堂と呼ばれるこの広大な敷地内に入った経験はあったが、この幕政館に足を踏み入れるのは初めてのことだった。政府のなかでも大臣クラスでなければ入館することは滅多にないとも言われる館のため、自然と肩に力が入ってしまう。

政府からの直接の呼び出し。奈々はおおよその検討はつけていた。

幅の広い二階中央廊下を歩く。床に敷かれた高級感溢れる絨毯に目を遣っていると突如、案内人の前方から声がした。

「九条 奈々さん、お久しぶりですね。」

若々しさと尚且つ気高さを身に纏う女性。

新大和帝国の外交関係の砦。外務大臣である桜田 詩織だ。彼女は四年前に二十五歳という年齢で外務大臣の役職に就いた。もちろんこれは最年少記録である。

「お元気でしたか?」

柔らかな微笑みと声色。

「お久しぶりです、詩織様。はい、なんとか元気にやってました。」

奈々は微笑を浮かべ、気楽な様子で応対している。政府内で唯一気を張らずに話が出来る相手、それが詩織だった。

同性であり、また同じ二十代で年齢も割と近いというのが理由である。

「それにしても珍しいですね。こんなところで会ったのは初めてでしたか?」

「ええ、私がここへ来たのが今日初めてですから。」

「そうでしたか。この先に用が?」

「はい。大元帥閣下直々に会談を設けたいとの話です。」

「珍しいですね•••••••大元帥が誰かを、しかも政府の人間以外を呼び出すなんて。」

何故だか考え込んだ詩織を他所に奈々は切り出す。

「まぁ、これから会ってみればわかりますよ。」

「そうですね。では私も会談があるのでこれで失礼します。」

「はい。」

優雅に歩き出す詩織の姿は他国の人間にも負けない淀みない自信に満ち溢れていた。


永遠に続くのではないかと思ってしまうほどの廊下の終着点には目的の部屋の入口であろう大扉が人間を阻むかのようにそびえ立っていた。開くという動作を一瞬忘れてしまうような、そんな認識をさせるほどの扉だった。

案内人はその扉を二度ノックした後、そっと開け放った。

一人用の椅子が数席あり、半分が白でもう半分が黒という二色のテーブルが視界に入った。それは奈々がこれまでに感じたことのない違和感であった。

その独特な世界のなかに大元帥、二条 宗親はいた。椅子に深々と腰をかけている。奈々が壁際を見遣るとそこには富山が直立不動で佇んでいた。

奈々の顔は引き締まり、無言で一礼する。

「おう•••••••••来たか。まあ、まずは座りなさい。お前もだ、登。」

「はい。」

彼ら三人は文字通り白黒のテーブルを挟んで座った。

奈々の正面に宗親、そしてその隣に富山といった感じだ。

「まぁ、今日来てもらったのはあの依頼についてのことだ。富山が米国の外交管理官、ルイス ファルカン氏を監視していたんだが、どうもきな臭い動きをしとるらしい。」

「きな臭い、と言うと?」

「予定外で秘密裏に接触を図ったものがいる。」

「本国の人間ですか?」

これは富山に対する問いかけでもあった。それを察したようで富山が頷きながら言った。

「はい、間違いないと思われます。」

「そしてその接触した者というのが、アルプス連帯が採用している逆さ富士模様が入った和服を着ていたらしい。」

「アルプス連帯••••••••••」

東京大都市の西側に聳える大和アルプス。

飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈の三つの大山脈が連なっている地帯をアルプス連帯と呼ぶ。

独自の文化や伝統が発達し、大和国内にあるにもかかわらず、他国と同じように情報統制され、隔絶された世界が出来上がっているのだ。

アルプス民族の自尊心は大和国内、世界でも遥かに高いと言える。

自らが世界一の誇り高き民族であり、所属する国家の制約さえも突っぱね、アルプス独立国家を自称しているのが現状だ。

「米国は新大和帝国との同盟を望んでいるからしい。」

何の感情も感じられない無機質な声で宗親は語り始める。

「しかし••••••今、米国がアルプス連帯と密談をしたという事実を考えると••••••」

一区切りして、試すような視線を奈々に向ける。

「米国はアルプス連帯の何者かと接触して何をしようとしていると思う?」

数秒間の沈黙は時計の秒針のカチカチという素朴な音をやけに響かせる。

その中で奈々は躊躇することなく、堂々と口を開く。

「それは••••••••アルプスが我が大和に批判的なことを察するに、アルプスと手を組み、国内に反乱を起こそうとしていると•••••••少し考え過ぎかもしれませんが••••••」

「いや、おおむね当たっているだろう。米国は大和に無視できないほどの打撃を与えたい。だからこそ表面上は友好を表しておき、大和に侵入しやすい環境作りを行った。そして外交管理官がアルプスとの橋渡し役だ。結果的に秘密裏に会談を行うことが可能となったわけだ。」

「しかしかなり杜撰で早急すぎる計画のように感じますが••••••」

「ああ、今の米国の国力が現れているようだ。なんとしても世界一の強国に返り咲きたいと躍起になっているのがわかる。」

宗親は嘲笑うように言った。

「そして今、アルプスの方で何やら動きが活発になってきている。」

「それで、私は何をすればよいのでしょうか?」

奈々は核心を突く言葉を投げかける。それこそが自分が呼ばれた理由なのだと。

「お前には優秀な学生を選別してもらいたい。」

「••••••••••どういうことですか?」

背筋に嫌な悪寒が走り抜け、不穏な予測が頭をよぎる。

「学徒兵団を結成する。」

「な•••••••••」

「もう少しで詳しいことがわかる。そうなれば何が起こるか予測は可能だ。その前に準備を怠ってはいかんだろう?」

「何故生徒達を戦場に立たせる準備を⁉︎剣衛隊を配備させれば何も問題ないはずです!」

宗親は黙って目を閉じている。

「学徒兵団発足の決定は深刻な軍事力低下のために止むを得ず行うというのが主流のはずです!」

「その通りだ。だが、禁止されているわけではないだろう?」

「そうですが•••••••しかし!納得いきません!」

この危険な所業に対して奈々は断固とした決意で否を突き付ける。

「剣衛隊も戦闘準備はさせる。尚且つ学徒兵団も発足させる。それはもう大和として決定したことだ。」

毅然とした態度は人の上に立つ気概を感じさせる。

「私は納得できません。断固として兵団結成は拒否します。」

睨み合う奈々と宗親。その空気に富山は額に汗を滲ませている。


天井から吊るされたくすんだ白色のシャンデリアがなんとも言えない場違い感を醸し出していた。





雲に届きそうな遥かな高度。

黒々しい深淵が潜む森林地帯。

ここはアルプス連帯の北部である飛騨山脈を統治する飛騨衆が生活をしている中心地。

闇に紛れて、木々の上には監視が敵襲に対して目を光らせている。

煌々と燃える篝火が照らされ、白銀の月光が辺りに涼しさを蒔いているようだ。

静まり返った家々の中で一際活動的な場所があった。その巨石で築き上げられた家の中では重要事項の会議の真っ最中だった。

「赤石が米国と接触したようだ。」

重苦しい声が響くが、その声の主である老人は弱々しさを禁じ得ないほど痩せ細っている。しかし滲み出る高位の人格がこの中でこの老人が最高権力者だと認識させる。

「米国?そんな輩と気高き我らが話し合うことなど無いと思いますが。」

露出の多い民族衣装を着た女性が憮然とした表情を浮かべた。

「まぁ、赤石は反乱を起こそうとしているのだろう。」

軽々と放たれたその衝撃的な言葉に周囲からは大きなどよめきが起こる。

制止する声が上がらないうちにどよめきの渦は消え失せ、その場の全員が発言の真意を読み取ろうと老人に視線を集中する。

「赤石は我らアルプス民族の中で最も反国精神を持つ者達じゃ。そして我ら同じ民族の中でさえあやつらは上下を決めておる。」

「上下定分の理、ですね。しかしもし反乱を起こそうと考えているのなら、我々も反乱を起こした国賊とみなされませんか?」

その懸念は客観的な分析として的を得ていた。現にアルプス民族は外から見れば、皆同じ野心を享受し、強い民族愛を持っているという印象が大多数なのだ。

「ああ、間違いなく政府は飛騨も潰しにくるだろうな。」

「ど、どうするのですか?」

押し黙る飛騨衆の幹部達。それでも老人は白髭を撫でながら淀みなく言い放つ。

「剣女衆大頭、大雀。お前に政府まで使いに行ってもらう。」

「私が、ですか?」

「ああ。部下を一人か二人連れて政府中枢の国議大聖堂までわしの書状を届けてくれ。」

「何とお書きになるのですか?」

でっぷりと太った中年の男性が恐る恐る口を開いた。唾を飲み込む音が聞こえる。

「飛騨衆は政府に敵対する意志はない。反乱を企てようとしているのは赤石衆だ。我らは政府側を全面的に支持し、共に赤石に攻め入る準備をしております、とな。」

「ですが••••••我らも赤石まではいかなくとも大なり小なりの反国感情を抱いております。その国を治める憎き政府と同盟を結ぶなど••••••」

「これは飛騨のためだ。わしとて心から政府と共に歩む道など望んではおらん。今回の件は仕方のないことだとわかってくれぬか?」

年老いた人間の苦しげな表情はその場の全員の口をつぐませた。やがて決心したかのように大雀と呼ばれた女性が気合を感じる鋭い眼光を向ける。

「•••••••分かりました。大長老の命、必ずや果たしてみせます。」

「うむ、頼んだ。至急書状を準備しよう。」

張り詰めた空気は弛緩することなく、それぞれが想いを秘めて、大長老が導くことの成り行きを見守っていた。


そして書状を携えた大雀は剣女衆の部下である鶯谷を連れて、とある飛騨の山村を発った。


それから交通機関を使用せずに国議大聖堂に着くまでおよそ一日半。

彼女らが携えたアルプス参仙人が一人、飛騨 龍蔵の書状は大元帥のもとに無事に届けられた。












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