初剣術
食事を終えて少しの休憩の後、優奈はタケルを連れて、第三道場へと向かった。
本家の屋敷よりも一回り小さいように見える。優奈の話では浅倉の道場の中では一番小さく、使われることが一番少ない道場らしい。
そんなわけか、周りの木々たちが道場を囲むように聳えており、一種の隠れ家のような雰囲気を醸し出している。
それでも伝統的な建物のため、外観も内観も奥ゆかしさを感じさせる作りになっている。
屋内はひんやりとした肌寒い空気に包まれていて、少し体が震えるほどだ。
若干ではあるが、隅に埃も溜まっている。使用頻度が少ないことがわかる。しかし何故だか不思議と落ち着く空間だった。
「これを使って。」
優奈は剣術の稽古専用の木刀をタケルに手渡した。
見た目に反して、とても軽量で性差を問わず、誰でも使える基本的な木刀。
希木と呼ばれる非常に稀少価値の高い木から作られている。タケルが手にした木刀に限らず、ほとんどの剣術の稽古に使う木刀はこの希木を材料にして作られる。
その理由の一番として、この木以外では耐久性が低すぎて、剣術の稽古でも試合でもすぐに折れてしまうのだ。また剣術の試合では異能剣技がこれでもかというほど、応酬が激しい。その中でも希木で作られた木刀は滅多に折れないのだ。
その代わり、お土産屋で売っているような木刀とは段違いに高価な代物であり、凡人が手に入れるのは難しいものになっている。
見た目ではあまりわからないし、実際そんなに変わらないらしい。
「では鶴来くん、始めましょうか。」
いきなり始めるのかという心の動揺が顔に出ていたのか、優奈は少し微笑みながら言った。
「こういうものは実戦で学ぶものですよ。」
清楚な見た目に反して、好戦的で活発的な性格なのだろうかとタケルは心の中で思った。
慌てて木刀を構える。
「では••••••••行きますよ!」
敬語に戻っているのを考えれば、優奈はやはり根っからのお嬢様ということなのだろう。タケルはそんなどうでもいいことを優奈が迫ってくる姿を視界に入れて考えていた。
優奈が振り上げた木刀をタケルは反射的に木刀で受け止める。
優奈は続けて打ち込む。タケルはそれをなんとか全て受け止める。
「すごいですね!初めてでここまでやるのは。」
「いやいや、必死ですよ•••••」
タケルは慌てた様子で大きく息を吐いている。
「それでもすごいですよ。」
「あ、ありがとうございます!」
タケルの性格は純粋で真っ直ぐであるため、優奈のお世辞かわからないような賞賛の言葉は素直に嬉しかった。
「少し悔しいですよ。私が初めて刀を持った時よりも断然振れていますから。」
「よし!もう一回お願いします!」
タケルの表情はやる気に満ち溢れている。
「それでは行きますよ。今度はさっきよりも速く、尚且つ変化を加えます。」
そう言うと、優奈は先程よりも素早い身のこなしでタケルへと迫る。
そして木刀を振り上げたが、次の瞬間目の前から消えた。
タケルは木刀でガードしようとしていたが、その顔に戸惑いの色が見られた。
(木刀が消えた?優奈さんの姿は見える••••••確かに刀を振り上げたはずなのに••••••••)
すると脇腹に何かが触れる感触があった。タケルは驚いて一瞥すると、そこには優奈の木刀があった。
振り上げた直後に木刀を下げて、真横から攻撃を仕掛けたということだろう。
その一連の行動が速すぎて、まるで手品のように木刀が視界から消えた。タケルにはそんな風に見えた。
「••••••••すごい•••••••すごいですね!」
タケルは興奮を抑えた声色で呟くが、優奈を見据える両眼の輝きは抑えられていない。
「ふふ•••••••ありがとう。」
それがなんだかとても可笑しく、優奈は微笑む。
「もう一度、お願いします!」
タケルは優奈とある程度の距離を取って、木刀を構えて集中する。
優奈はその姿に微笑を漏らし、
「••••••••わかりました。」
それから何度も木刀を交じ合わせるが、優奈の速さはタケルの肉眼では追いつけず、何度やっても木刀を防げない。
タケルは何故だか剣術にのめり込んでいる。自分でも理解できないほど刀を手放すことを躊躇っている。
この目の前の美剣士の一撃を何とか止めたい。そんな衝動に訳もなく駆られているのだ。
目を瞑り、暗闇に意識を投じて、深く黙考する。
直前までははっきりと木刀が見えている。でも防御しようとした最後の瞬間に軌道が全く見えず、あらぬ方向から木刀が伸びてくる。
こういうものは当てずっぽう、一か八かで成功しても意味がない。百発百中防御できないと意味がない。
真剣ならば一度斬られただけで、最悪の場合命を落とす。いつも死と隣り合わせの危険で残酷なもの。
それが剣術なのだ。
どんな立場の剣術士であっても誰もがその死の恐怖に苛まれている。
タケルの心で何かがそう語りかけてくる。しかし瞼の裏には暗闇しか映らない。
「肉眼だけで見てはいけません。己の心の内にある心眼で感じ取りなさい。」
「え?」
いきなり発せられた言葉に少し驚いて、タケルは前方に佇む優奈の姿を見つめる。
「おじいさまがよく口癖のように言っている言葉です。亡くなった父も言っていました。」
タケルの心で何かがスッと入ってくる感覚があった。手に持っている木刀をじっと見つめる。
しばらくそうしていると、自然と優奈にもう一度お願いしますと声をかけていた。
「•••••••••••わかりました。」
優奈の表情が少し変わった気がしたが、タケルは集中していて気付いていない。
木刀を構える優奈。
「行きますよ••••••••••!」
床を思い切り踏み込んで、走り出した優奈の速度はこれまでとは一線を画す速さだ。
とてつもないスピードで迫り来る優奈の姿をタケルは焦らず、動揺せず、静観している。
先程よりもずっと速い。でも目の前に来た時が本当の勝負。
心と頭を集中させて、木刀を持つ両手に力を入れる。
優奈が木刀を振り上げた。
タケルの目の前まで距離が埋まる。
先程までとは時間の感覚が変わった気がした。正確に言うと、優奈の木刀が視界から消えない。
消えない。消えない。まだ消えない。
心が•••••••••震える。
次の瞬間、左脇腹に木刀が瞬間的に移動するのが肉眼ではっきりと確認できた。
(見えた!!!)
タケルは木刀でその一撃を完璧にガードした。
カンという鈍い音が道場内に響き渡る。それは今までで一番良い打音だった。
タケルも優奈もそのままの態勢で時が止まったように動かない。
「当たった•••••••••••••」
不意にタケルの口から呟きが漏れた。自分でも驚きを隠せないようだ。
肉眼で見たのか、優奈の言う心眼で見えたのかはわからないが、結果的にタケルは優奈の一撃を止めたのだ。
「すごいです!こんなに早く今の一撃を防ぐことができるなんて!才能の塊ですね!」
なんだかお世辞を通り越して馬鹿にされているような気もしたが、今のタケルには最上級の褒め言葉として受け止められた。優奈自身も心底驚愕して、今の言葉も十割の賞賛であったために問題はないが。
それからも優奈に頼み込んで何度か繰り返したが、木刀の動きが先程までが嘘のようにはっきりと知覚できる。何度かやるうちに反撃をする余裕も生まれてきた。
タケルは今、言葉にできないほど幸せな気分に浸っていた。
この幸福感は何なのだろうか。
自らに問うても、答えは出ない。
「ここまでにしておきましょうか。」
優奈は用意していたタオルを手渡しながら言った。
「あ、はい。なんか思ったよりも熱が入ってしまって••••••すいません。」
「いいんですよ。私も楽しかったです。また稽古をしたければ、遠慮せずに言って下さいね。私から言うこともあるかもしれませんけど。」
優奈は微笑んだ。
「はい!ありがとうございます。」
道場を出るともうそこには緋色の輝きを放つ夕焼けが空には広がっていた。
青く茂る葉の隙間から降り注いでいる燃えるような光の線はとても幻想的でタケルの目も心も奪われる。
明日も同じ場所、同じ気候ならば今日と同じ色を見ることが出来るのだろうか。
「綺麗ですよね。」
タケルがその光景に見入っているのに気付いた優奈がふと漏らした言葉にタケルは自然と頷いていた。
「私もここで生を受けてから十七年ですが、未だにこの何気ない光景に目を奪われてしまいます。」
隣で目を細めている優奈の横顔はこの世のものとは思えないほど綺麗で緋色の光景よりもずっとタケルの心を奪った。
「屋敷に戻りましょうか。なんだか少し冷えてきました。」
「••••••••••はい。」
屋敷に戻るタケルの背中を見守るように、微笑むように緋色の風景は一層輝きを増し始めた。