五軍への道のり。
吹き荒ぶ風が金切り声を上げ、窓ガラスを乱暴に叩いていた。平穏な自然が怒りを露わにしたその脅威が酷く心に焼き付いて、ここ数日不安な日々が続いていた。木々はしがみつくように地面に根を張り、必死に暴風から耐えている。
細かな針のような雨粒は地面を抉り、生徒達は皆その威力にただただ目を瞠っていた。
その分、全く稽古に身が入らず、学内全体の空気は緩んだものになってしまっていた。
「えっと、選抜試合エントリーですよね?」
本館一階の職員室。縦長の空間では若干名の教官が事務作業をしている。
その中の一人、大峰 香織は外の様子には目も暮れず、一心にある書類を制作していた。近代的なパソコン操作に悪戦苦闘しつつも徐々に目的の物が完成に近付いているのが傍目からでもわかる。何故だかその不器用な操作に見入ってしまい、終いには応援していた。教師であるのにそのようなあどけないところが彼女の大きな魅力になっているのだろう。だからこそ男子、女子生徒関係なく密かな人気を得ているようだった。
それからしばらく経ち、タケルが不覚にも欠伸をしそうになったその時、香織の喜びの声が耳に届いた。
「や、やった!出来ましたよ!」
覗き込むと画面には定式の文章が打ち込まれていた。細かな文字列なので少し前屈みになってようやく読み取れるほどだ。
これは面倒くさそうだなぁ。そんな感想しかタケルは思い浮かばなかった。もちろん香織への感謝は忘れてはいないが。
「あの、これって、一から作るものなんですか?初めから用意されてるものじゃ?」
タケルは聞き辛そうにそっと言った。
「いいえ、私のクラス、いや、私が担当教官になったのが初めてですからまだ前例が無いんです。だから自分で作らないと。」
「他クラスからデータだけ借りれば、いいんじゃないですか?」
何気ないタケルのこの一言は地雷だった。
「あ•••••••••」
香織の表情は愕然としたものに移り変わる。今までの懸命な努力が水の泡になってしまった。そんな心の声が耳に届いたと錯覚するほどの反応だった。
「い、いや、でも教官が作った方が綺麗で整理されてますよ。」
タケルは慌ててフォローをしようと試みるが、上手くいったかどうかは疑わしい。香織は疲れた様子で印刷した用紙をタケルに手渡す。
大峰 香織教官お手製の選抜試験申し込み用紙。
「これを、どうすればいいんですかね?」
「えっと、富山教官が選抜試合の担当なので••••••」
「じゃあ、富山教官に渡せばいいんですね?」
「そうですね。それで大丈夫だと思います。」
タケルは用紙の内容を確認した。名前とクラスの欄が空白になっている。ここに参加者の氏名を書くようだ。
「一年生で参加する人は少ないんですよね。もっと皆挑戦してほしいんだけどな。」
「そういえば龍魔くん、遠征に帯同してましたよね?」
タケルは思い出したように言った。記憶にはっきりと残っているのはその日が襲撃事件の朝だからである。
「えっと、龍魔くんもそうですけど、壱組の成瀬 鈴菜さんも一軍選抜団に特例で選ばれてますよ。あと参組の今川 輝元くんも二軍選抜団に選ばれてます。」
「特例なんてあるんですか?」
「はい、支部長が例外的に決めてるみたいです。私もあまり詳しく知らないんですけどね。」
香織は苦笑しながら書類の整理を始める。
タケルもそのタイミングで職員室を後にする。
「あ、タケル!何やってんの?」
「翡翠?自主練終わったんだ。」
「今日はもう辞めとく。雨のせいで湿気凄いし。」
翡翠は自分の髪を触って、不快な表情を浮かべる。女にとって湿気は敵なの!と戯けたように言う姿に変わることのない、変わって欲しくない日常を感じ、何度目かわからない強い決意と笑顔が漏れる。
ふと翡翠の視線がタケルの右手を捉える。
「それって、まさか選抜試験の申込み用紙?」
「あ、うん。期限まであと二日だからね。」
予定された選抜試験まであと五日。
五軍に選ばれる者がいれば、五軍から四軍へ、四軍から三軍へと昇格試験を受ける者達も大勢存在する。
「いいな〜、でも私も来月には受けるよ、絶対に!」
翡翠はまだ怪我が完治してまもない病み上がりのため、稽古も思うようにしておらず、現在はリハビリのような形で自主練を重ねている。それは教官である香織の方針のためだ。タケルもそれが翡翠のためになると考えているし、翡翠自身も今焦るのは良くないときちんと理解しているようだった。
「でも他に一年生でどれくらいの人が受けるんだろう?」
翡翠の疑問はタケルも気になっていることだった。
「ん〜••••どうだろう。結構いると思うんだけどなぁ。」
「でも五月って時期を考えると早いから少ない気もするけどね。」
「それもそうだね。じゃあ、二、三年生と試合するのかな••••••うう、もう緊張してきた•••••」
想像を膨らますだけで吐き気を催す。タケルにとって公式の試合は初めての経験であるから当たり前と言えば当たり前の反応なのかもしれない。
「今から緊張してどうするの。大丈夫だって!タケル比べものにならないくらい強くなってるから!」
翡翠が断言したのはお世辞でもなんでもなく、客観的な事実だからだ。誰が見ても四月のタケルと今月のタケルの動きが別人のようになっていると感じるであろう。特別な眼を持っていなくても感じるのだから、翡翠も期待せずにはいられない。もしかしたら本当に選抜団五軍に選ばれるかもしれないと。
雨は午後になっても弱まる気配を見せず、とめどなく降り続き、仕方なく稽古をきり上げて武道場から本館内に戻ってくる生徒で正面玄関は混雑の模様を呈していた。
予報では夕方にかけてますます大降りになるらしい。
タケルは富山に申込み用紙を手渡した後、しばらく校内に留まっていたが、天気の様子を見つつ、帰宅の途についた。
それを合図にしたように他生徒達もぶつぶつと天気に対する不平不満を口にしながら帰る姿が見られるようになった。
あっという間に静まり返る本館内。
若者のエネルギーを失った空間は酷く物悲しげに見える。
その中でも三階の支部長室はまた違った空気に包まれていた。
「それは•••••どういうことでしょうか?」
重く響く声の主は教官の富山 登。
「私自身政府が何を考えているのか、どうも理解しきれていない。」
「米国の外交管理官を監視するというのは教師としての仕事ではないと思います。」
無表情で九条 奈々を見据える。奈々はその視線を逸らさずに真正面から受けている。
二人の年齢差は一回り以上違い、奈々は二十三だが、富山は四十をゆうに超えている。だからこそ富山にも少し複雑な心境があるのかもしれない。
「ああ、全くその通りだ。それに選抜試験があと五日後に控えている。富山教官はその担当になっているんだったな?」
「ええ、まあ。」
「普通ならば、否応なく断っているのだが•••••••」
「普通ではない事情があるのですか?」
富山の目元がピクリと動く。漠然とした嫌な予感が迫ってきていると敏感に察した。
「••••••••この仕事の依頼者が、二条 宗親大元帥なんだ。」
「な••••••」
富山は思わず硬直してしまう。
頭の処理能力はパンクし、一瞬視界が真っ白になった。
大元帥は大和の頂点。この国の支配者と言ってもいい。そんな人物からの直接の依頼だとは想像もしていなかった。
富山は元剣衛隊の情報工作員を勤めていた時期もあり、国への忠誠心は人一倍ある。今でもそれは程度が変わっても、根本は変わらない。その経歴のために依頼を任されたと言っても過言ではないだろう。
しかし富山にはどうしても理解できない部分があった。
「何故私なのでしょう。監視業ならば、私なんかよりも東一族を使うと思いますが•••••」
「確かにそこは疑問だ。東 喜一郎ならば、まず失敗することはないだろうからな。しかし逆に考えれば、東一族には頼めない理由があるということだ。」
「頼めない理由?」
「ここだけの話、東の反政府感情が密かに高まってきているらしい。」
「まさか!東は政府に全てを捧げている一族。それは初代族長、東 大吉郎から変わらないはず。」
「表向きという部分ではそうだろう。しかし東も人間だ。機械じゃない。時に感情は伝統、文化、歴史を超越する。だからこそ歴史上の名だたる国々は滅んできたんだ。富山教官も政府に不信感を抱いたからこそ剣衛隊を抜けたのだろう?」
奈々の問いには無言を貫く富山だったが、その態度が肯定を示していることは明白だった。
奈々は腕を組み、富山の返答を待つ。自分に拒否させる権限はない。ましてや大元帥直々の依頼なのだから、初めから拒否という答えはないのだ。
「分かりました。その仕事を引き受けます。」
「そうか•••••••詳しいことは明日には連絡できるだろう。選抜試験のことは心配するな。」
富山は形式的な一礼をして、部屋を退出した。不穏な黒雲はいまだに空を覆い、窓を激しく叩く雨音だけがいつまでも響いていた。
その日の夜中に大荒れの低気圧は過ぎ去った。それからの五日間はあっという間だった。稽古に夢中で取り組む生徒の姿がいつもより多く見られ、中には近付くのさえも躊躇ってしまうほど殺伐とした空気を纏い、木刀を振るう生徒もいた。そのほとんどが三年生であった。最終学年の焦りもあるのだろう。選抜団入りしたいという願望がムンムンと出ており、一年生参加者を気後れさせていた。
当日の天気は幸運なことに晴天だった。数日前の嵐が嘘だったかと思うほどだ。
木々が風を受け、枝を揺らす。まるで優しく笑い合っているようだ。
タケルは選抜試験会場である紅の武道場にいた。他の参加者も続々と集まってきている。普段のクラスで行う稽古の時とはまた違う顔ぶれで新鮮な気持ちになり、タケルはついつい人間観察をしてしまう。
大柄の人、筋肉が異常に発達した人、真面目で秀才そうな人、ただひたすら本を読む人。
参加者は見れば見るほど興味深い生徒達だった。
選抜試験は男女別々に行われる。一つの団は十名という定員があるが、その内訳は決まっていない。全員男子も有り得れば、全員女子も有り得る。その決定は教官の権限であるため、生徒達はただ良い結果になることを祈るしかないのだ。誰かに勝ったから選ばれるというわけではない。きちんとした判断基準は教官のみが握っているというわけだ。
ストレッチを始めた人に釣られ、各々が我流のストレッチを始める。もちろんタケルもその流れに乗る。ふと斜め上を見ると、多くの生徒達がギャラリーを埋め尽くしていた。手摺に体重をかけて、雑談に興じている。下からはまるで言葉の雨を浴びせられているかのよう。
「タケル!頑張って!」
すぐ上から聞き慣れた声。
「翡翠、来てたんだね。」
「当たり前でしょ!タケルの晴れ舞台だからね。」
「頑張るよ!」
そうこうしていると、武道場入口の扉が木材が擦れるような音を立てて開いた。
すぐさま雑談は止み、皆が皆入口に目を遣る。そこには足を小刻みに震わせた小柄な少女、いや女性が立っていた。
少女と見間違うようなあどけない童顔の持ち主で、ボブカットの髪型は余計に幼さを演出する。少し涙目になっているところは小動物のようで可愛がりたいという人間の本能を刺激する。何もかもがその人物が思って欲しくない要素であったが、この場合仕方ないだろう。
一瞬の静寂は歓声に変わる。思わず耳を塞いでしまうほどの声が屋内に反響する。
当の本人は当てもなくキョロキョロと辺りを見回す。
タケルはゆっくりとその人物に近づく。
「あの教官、大丈夫ですか?」
「は!タケルくん!ううう•••••••どうしましょう•••••なんでこんなことに••••••••」
大峰 香織。剣士養成学校東支部一年肆組の担当教官である。
半べそで自分の受け持つクラスの生徒に助けを請うようにすがりつく。
「一体何があったんですか?」
何も知らない人が見れば、今の状況は兄と妹。最悪の場合、父と娘にさえも見えてしまうだろう。
「実は担当だった富山教官が急な都合で外れまして、そして次は久保内教官が担当になったんですけど、体調不良で今日休みだったいう話で、どうするんだってことになったんですけど、そうしたらついさっき、支部長から私に選抜試験を担当するように言われて•••••••」
「それで教官がここに来たわけですね?」
「そうなんですよぉぉぉ!」
潤んだ瞳でタケルを見つめるが、こればかりはどうしようもないのではないかとタケルは思っていた。そして当の本人もそれを自覚していた。ただ誰でもいいから話を聞いてもらいたかっただけなのだ。
「うう••••大丈夫です。が、頑張ります。」
「が、頑張って下さい!」
ようやく持ち直した香織の指示で男子選抜試験参加者は学年ごとに列をつくる。
その時、タケルはようやく気付いた。
一年生の列。その一番前にいるのがまさにこの武道場で出会った少年だった。
お世辞にも目立つという感じではなく、はっきり言って地味な印象を受ける。それでも誰よりやる気に満ち溢れているのがその顔つきや姿勢から手に取るように理解できた。
松本 太郎という名の少年。タケルと同じく牧場 竜丸に剣術指導してもらった経歴を持つ。タケルは結果的にほんの一日の関係だったが、太郎は何度も竜丸に指南していた。そのため並々ならぬ尊敬心が存在したのは明らかだった。あの襲撃以来、なるべく人目を憚り、剣術に勤しんできた太郎は竜丸との約束でもある選抜団五軍を目指す。
「では、えっと、私が事前に考えてきた組み合わせの順に並んでもらいます。」
香織はあたふたしながらも内容が書かれている紙を凝視して、辛うじて進めているといった様子だ。
選抜試験はリーグ戦の形式で行われるため、敗北を喫しても試合回数が決まっているため挽回が可能だ。その点は緊張をほぐしてくれる利点の部分であろう。
参加者の人数は一年から三年の男女合わせて五十人近くおり、一つのリーグに五から六人振り当てられた。AからIまでのリーグがあり、タケルはDに分けられていた。A、B、Cは全員女子だった。
「では、皆さん。並び直して下さい。」
並び直してからタケルは唖然とした。またも一番前に背筋をピンと伸ばした太郎がいたのだ。
「同じリーグだ•••••••」
たった一人で汗を流していた太郎の横顔が脳裏をよぎる。
幸いその思考も長くは続かなかった。
「じゃあ、早速始めましょうか。まずは•••••Aリーグの第一試合、えっと、一年弐組の林 亜由美さんと三年伍組の久米 茉莉花さん。」
他の参加者はギャラリーに上っていく。
朝早くからの夕方遅くにかけてまで行われるため、参加者達は自分自身で出番の管理、食事のタイミングなどをおおよそ目安をつけておく必要がある。
二人の女生徒が武道場中央へと歩み寄る。
かつてよりも男女の差別は無くなりつつあり、剣術の世界でも多くの女流剣術士が活躍するようになった。大和政府外務大臣で桜田流現継承者でもある桜田 詩織や剣衛隊第一部隊隊長の西木 梨央奈、もちろん東支部支部長の九条 奈々もその代表格の一人だ。
だからこそ選抜団に女子が選ばれるのは社会的にも実力的にも全く問題ない。
男女混合で開催するべきではないかという議論もあるが、今のところ男女別々のリーグを設けて、試合を行うという決まりになっている。
「では、は、始め!」
二人共ほぼ同時に駆け出した。三年の久米は瞬時に異能剣技を発動する。タケルも目を瞠るほどの速度。やはり三年生の熟練度は一年生を大きく上回っている。木刀の刀身が二つに分裂し、一年の林 亜由美に襲い掛かる。タケルも味わったことのある刀身分裂だ。不規則に動く二つの刃は休む暇を与えない。そんな隙のない剣技を高速発動され、もはや勝負あったかと思った矢先、どよめきが武道場を支配した。亜由美は久米の攻撃を笑顔で軽やかに躱し続けたのだ。
全く力みのない身のこなし。微笑を浮かべ、余裕なのが伺える。
呆気にとられるギャラリーの面々。
「じゃあ、今度は私から行くよ!そりゃあ!」
そう言うと、亜由美は瞬時に久米の真上に移動した。空中で倒立した状態を維持して、二人の頭と頭が向き合うようになっている。
並大抵の運動能力で出来る芸当ではない。まるで異国のサーカス団のようだ。誰もがその光景に見入っていた。
苦悶に満ちた表情を浮かべなからも久米も負けじと真上からの斬撃の応酬を受けきっている。
「うわ•••••••やっぱ三年生は凄いや。弐組の生徒ならこれで倒せたのに。」
亜由美は久米の後方に着地して、華麗な宙返りで距離を置く。
アクロバティックな動きは相手を翻弄するのには十分だった。亜由美は大きく息を吸ってから、思いきり地面を蹴り、短時間で加速し始める。周囲を素早く回り続けると、久米は集中力低下を起こし、亜由美の狙い通りの状況に陥った。
「よし、ここだね!」
「うっ!」
亜由美の一撃が久米を吹き飛ばした。
戦闘不能。
亜由美はまるで金メダルを取った陸上選手さながらギャラリーに向けて笑顔で手を振っている。
「あ、勝者は一年弐組の林 亜由美さん!」
香織の精一杯の声を掻き消すには十分な大歓声。それと共に所々で溜息も聞こえる。複雑な感情が混み合っているその特殊な空間は一年生の参加者が経験したことのないものとなっていた。生徒達にとっては一種のお祭りなのかもしれない。
次々と流れるように進んでいく試合。それと同じようにギャラリーの顔ぶれもガラリと変わっていく。
そして太陽が真上で世界を照らす時刻にようやくタケルの出番が回ってきた。
「次は一年肆組、鶴来 タケルくんと、一年参組の松本 太郎くん!」
「ギャラリーから急いで駆け下り、翡翠の個人応援を受けながら、終始挙動不審な状態で中央の位置につく。
「君と戦えるなんて••••••••嬉しいよ!」
太郎は木刀を握る手に力を込める。
「う、うん!よろしく!」
香織は双方の準備が出来たことを確認してから言い放った。
「それでは、始め!」
こうしてタケルの最初の試合が幕を開けた。




