明日の一歩
太陽が照りつけ、夏が少しだけ顔を覗かせる。まるで覗きのようにはしたない顔、いやらしい目つきをしているようにタケルには感じられた。それほど過ごしにくい気候だった。剣士養成学校を囲む外壁も悲鳴を上げるように熱を帯びている。
すっかり校舎は修築され、真っ白な外観を取り戻した今日此の頃。隣接した別館がより古臭く見えてしまい、違った意味で目立っていた。
活気溢れる道場区画。稽古に励む生徒たちの姿が多く見られ、またいつも通りの日常が戻りつつある。
「そ、そこまで!」
相変わらずの辿々しさを残した口調で香織の大声が武道場内に響く。すると一斉に木刀の打ち合いが終息し、乱れた息遣いが聞こえ始めた。
いつもながら大の字になって疲労を隠せない者や険しい表情を浮かべタオルで汗を拭っている者、水を口に流し込んで体力を回復している者など生徒達の色々な様子が見られた。
タケルはその中で他者よりも一層疲れた様子を見せており、膝に手を置いて、ぜえぜえと息を乱していた。
優奈と新左衛門から聞いた五軍昇格の可能性。その唯一の可能性に向けて、誰よりも剣術に精を出す日々が続いている。
「お前、何でそんな頑張ってんだ?」
ふらふらした足取りで八尾はタケルに近付いた。例の一件以来、タケルは八尾と少し話すようになった。仲が良いというわけではないが、不愉快な感情は双方どちらにも見られない。
「僕、五軍に入りたいんだ。」
タケルは少し掠れた声で言った。
「五軍?まさか、選抜団に入りたいのか?」
「うん。」
「おいおい、正気かよ。定員十人だぞ?しかも一年から三年全部合わせて十人だ。五軍はその中で末端だけど、それにしたって一年から入れる奴なんていないぞ?いたとしてもごく僅かだぜ?」
「それでも選ばれたい。いや、絶対選ばれるよ!」
強い意志を秘めた双眸は八尾を射抜く。その真正面からの強さに八尾は少し漠然とした憧れを抱いた。
「ま、お前が頑張るって言うなら、止めはしねぇけどな。」
五月開催の選抜試合の日程が正式に決まり、多くの生徒がそれに向けて稽古に励んでいた。あと一週間に迫ったその日はタケルにとって入学してから初めての公式の試合だ。
目的があるだけに幾分稽古に熱が入り、今日のように誰よりも疲弊した様子で稽古を終える。そんな日常がこのところ毎日のように続いていた。そのため、タケルは着実に力をつけていき、同じクラスで龍魔以外の生徒達に勝つことができるようになっていた。
あの一件以来、学校敷地内に軍服を着た人間やスーツをきっちりと着た見慣れない男女の姿が度々見られるようになった。それは政府が配属した監視員であり、同じような惨劇を起こさないように対策をしたものと見られている。しかし校内の教師、生徒達の反発はなおも強く、襲撃時の政府の対応の遅さに対しても多くの疑問の声が挙がっていたため、政府としての東支部の支配力は著しく低下していると言わざるを得ない。
そのため、支部長の九条 奈々は現在進行形で第一会議室で政府高官との会議を執り行っているらしい。
タケルはその会議を少し気にしていたが、しっかりと自らを戒め、目の前の課題に向けて練習に取り組んでいた。
放課後が訪れると、いつもは居残りで木刀を振るのが日課だが、今日は医療局を訪ねた。
五月に入って約二週間。やっと翡翠の退院の日が決まったらしく、タケルはお祝いをしようと考えていた。といっても祝いの品を買うお金などありはしないから、言葉だけの形の無いものになってしまうだろうが。
病室の扉をノックすると、はいという元気な声が耳に届いた。タケルの主観ではそう思ったのだ。スライド式の扉を開けると、翡翠はちょうど荷物をまとめていた。顔色は程よく血の気が通っていて、しっかりと二本の足で立っており、タケルは少しホッとした心持ちになった。
「あ、タケル。来てくれたんだ?」
「うん。何も持ってきてないけど。」
「そんな気にしなくていいよ。」
「調子はどう?」
「うん、バッチリ。」
翡翠の微笑む姿を何故だかとても久し振りに見たような気がして、感慨に耽ってしまう。
「親御さんはいないの?」
タケルは広々とした病室を見回して言った。
「うん。使用人が外に車を用意してるはずだよ。」
「そっか•••••••」
ベッドの脇に置いてある小さな机の上を見ると、色とりどりを通り越して、目がチカチカするほどの花が咲き誇っており、多くのお見舞いや退院のお祝いがあったことを伺わせる。
「タケル、何か前よりも筋肉ついたね。」
「え、そうかな?」
医療局には度々顔を出していたので、翡翠は何度もタケルを見ていたはずだが、今もマジマジと観察中だ。
「うん。やっぱり腕とか太くなってるよ。」
「それなら嬉しいけど。」
「••••••••稽古頑張ってるんだね。」
翡翠の顔にほんの少し陰りが見えたのをタケルは見逃さなかった。
「出遅れちゃったな。」
心の声が漏れ出たような囁きが翡翠の口からこぼれる。
窓の外は薄青の世界がどこまでも広がり、木々の緑が一層映えていた。
窓越しでも風が吹き付けるのがわかった。
「大丈夫だよ。翡翠が翡翠のままでいれば。」
「え?」
「自分らしくいけば大丈夫ってこと。」
タケルは優しげな声色で笑いながら言った。二人の間には温かく柔らかな空気が流れていた。
東京大都市の中心部、江戸。
その中でも大和国内を事実上統治している本拠地が存在する。
政府が活動する場である国議大聖堂。
敷地面積は剣士養成学校東支部の三倍以上あるとも言われている。
そして巨大な岩石を掘って作られた風神雷神の像が門の両側に立てられ、その壮大な光景はくぐる者の緊張を増長させる効果がある。その恐ろしくも神聖な場所に一台の外国製の車が停まる。黒いボディは品のある艶を晒し、どこにあっても目立つような存在感を示している。グレーのスーツを見事に着こなした紳士である運転手が下車し、流れるように後部座席のドアを開けた。白人のキリッとした横顔が車の中から現れ、やはり緊張した面持ちで巨門を見上げている。
小刻みに震えているのは武者震いだろうか、それとも恐怖からだろうか。
その後、運転手は車に乗り込み、走り去った。その場には孤立した白人の男性しか残っていない。そう思いきや、門が重低音を鳴り響かせながらゆっくりと開き始めた。その瞬間、男性は背筋を伸ばす。
門が開き終えると、そこには数人の軍服姿の兵士が控えており、その中心に五十前後の年齢の男性が立っていた。身なりと雰囲気からしてそれなりの地位の人間に違いない。異国の地からやってきた男性もそう思っただろう。
「初めまして。遠山 茂と申します。大和政府軍政副大臣を務めております。以後お見知り置きを。」
優雅に一礼し、自己紹介する大和側の男性。すると背後の兵士たちもすかさず頭を下げる。訓練された大和人の礼儀作法への美意識は目を見張るものがある。
「米国の新外交管理官に任命されましたルイス ファルカンです。よろしくお願いします。」
米国側の男性も同じように礼をする。
「これはこれは。こんなところではなんですから、お入り下さい。ご案内します。こちらへどうぞ。」
ルイスは驚愕を隠すのに必死だった。
外交管理官に任命されて初めての大和であり、世界第二位の強国相手は自分には大き過ぎる相手のようにも思えていた。
その漠然とした予想が紛れもない確信に変わるのはそう時間の掛かることではなかったようだ。
大門を抜けた先は近代的な建造物が立ち並び、何の目的のためにあるものなのか見ただけでは全く理解できなかった。
目的の建物である大元帥官邸に到着した時には大和の圧倒的な国力にもはや疲弊を隠し切れていなかった。この深刻な疲労を歴代の外交管理官が耐え抜いたことにむしろ驚きを感じたほどだ。
「ここです。大元帥閣下がお待ちです。さぁ、参りましょう。」
欧州をモデルにしたような白亜の豪邸。部屋に案内されるまでの道のりを忘れてしまうほどの広さ。ルイスの予想を遥かに超えていた。
身の丈をゆうに超える大扉が開かれると、真っ白な円卓が中央に置いてある会議室が姿を現した。
「ここにお座りなってお待ち下さい。」
そう言うと遠山は部屋を後にした。兵士が扉の両側に無表情で立っている。
しばらくの間、時計の秒針の音が聞こえるほどの静寂のなかでじっと待っていると、扉が不気味な音を立てて開いた。そこには白髪で白髭の老人が立っていた。その後ろには遠山が控えている。ルイスはすぐさま背筋をこれでもかと伸ばし、起立した。
「お待たせして申し訳ない。大和政府大元帥、二条 宗親です。よろしく。」
「米国外交管理官、ルイス ファルカンです。よろしくお願いします。」
二人は握手を交わす。宗親の手は年齢を感じさせないほど若々しく、肉感的な手だった。ルイスも負けないほど硬く強靭な握手をする。せめてものあがきを見せるが、それは何の意味もない虚勢で、ただの現状に対する最低限の自己満足を得ようとしただけだった。
大元帥は抗うことのできない、抗うことを忘却させる人間力を体中から放っていた。
宗親はルイスの正面の席に腰を下ろす。その何気ない動作一つでさえも思わず見入ってしまう。ルイスは平静を保った風を装って、なんとか着席した。
「この度は外交管理官就任おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
「人形開発は順調ですか?」
「ええ、問題はないと聞いております。」
「そうですか、その方面でも大和は米国と協力関係を結びたいと、そう考えております。」
「それはありがたいお言葉です。軍事連邦局局長に進言したいと思います。」
米国は数年前から多くの勢力が乱立しており、不安定な社会情勢が続いている。かつては国の頂点に君臨していた大統領制度が存在していたが、反乱によって没落。今では米国政府のトップとして事実上軍事の中心である軍事連邦局の局長が就任している。その軍事連邦局が総力を挙げて、取り組んでいるのが人形開発。もちろん目的は軍事的利用だ。世界的に米国の力は数百年前の世界聖法成立から急速に衰えてしまい、今では軍事力は王都ブラジリアと同等レベルにまで落ちてしまっている。だからこそ人形開発で軍事力低下に歯止めをかけ、新たな軍事国家、米国を誕生させようとしているのだ。
「ダズリー殿によろしくお伝え下さい。あとは•••••我が新大和帝国との連携を強固なものにしていきたいという見解は変わりませんか?」
鋭い眼光がルイスを射抜く。
「はい、米国側は同盟について近いうち話し合いを持ちたいと考えております。」
大和と永年同盟を組む唯一の国は那覇王国。米国も永年とはいかないまでも同盟について多いに興味を抱いているのは確かなことだった。
「よろしい。大和側も今のところ同じ意見です。」
上から目線を隠そうとすることもなく、大和の頂点、大元帥の威圧感を醸し出し、会話の主導権を確実に握っていた。
「••••••日は追って連絡致します。」
「うむ。わかりました。」
会話が途切れたのは執事のような身なりの男性がお茶を持ってきたためだ。
宗親はお茶を啜ってから言った。
「大和にはいつまでご滞在する予定だろうか?」
「一週間ほどと見積もっています。」
「誰と懇談する予定なのです?」
ルイスが最も聞かれたくない内容だった。
背中に冷や汗が浮かぶのがはっきりとわかった。ある人物との秘密会談が今回の訪問の一番の目的だったのだ。
「軍政大臣の倉 蓮三郎氏、外務大臣である桜田 詩織氏、そして世界連盟新大和帝国代表の秩父 元蔵氏と会談の予定があります。」
無難であり、目的の一つでもある三人との会談の予定を伝えたのは本当の目的を隠すため。宗親がその意図を読み取ったかはルイスの眼力ではわからなかった。
宗親は無表情でルイスを見つめていたが、すぐにくしゃっと微笑み、
「そうですか。いや、それなら大和政府特務大臣である南田 伊茅音にも会ってみては如何でしょう?」
「特務大臣、ですか?」
「ええ、あまり聞き慣れたものではないと思いますが、そのような役職がありましてね。米国にとっても不利益にはならないと思いますが。」
「そ、そうですか。それは是非会ってみたいですな。」
「わかりました、連絡致しましょう。詳しい日程は後々ということで。」
「はい。よろしくお願いします。」
それから少し雑談を交えながら世界情勢について話し合い、会談は終わりを迎えた。
「この会談が大和と米国の明日への一歩となることを願ってやみません。」
ルイスは握手を求める。
「ええ、それはこちらもですよ。」
宗親はその手を強く握り、無言の権力を改めて示した。
ルイスが部屋を後にしたのを見届けてから、宗親は備え付けの電話に手を伸ばす。
「私だ。伊茅音か?官邸に来てくれ、話したいことがある。ああ、頼んだ。」
受話器を戻し、椅子に腰を下ろす。円卓には宗親の姿しかなく、冷たい空気が室内に充満している。
「米国め••••••何を考えておる。」
その囁きは誰にも聞かれることなく室内に溶けていった。




