タケルと翡翠
タケルと翡翠の二人は湘南区間のとある喫茶店にいた。
文化遺産の玄天道場で色々あって知り合った二人はもうすっかり打ち解けている。
あの刀の波紋は生で観る価値があるだとか、あの鞘は装飾が豪華でどのくらいの値段がするのだろうだとか、国宝の刀の斬れ味が気になるだとか、熱を帯びた刀剣談義に花を咲かせている。
そのせいか、手元にあるウーロン茶のグラスには水滴が付き始め、テーブルに小さな水溜りをつくっている。
「そういえばタケルは何処の道場で稽古をしているの?」
「浅倉道場だよ。」
タケルはウーロン茶を一口飲んでから答える。
「え!あの浅倉道場?」
翡翠は何気なしに聞いたが、返ってきた答えに驚きを露わにした。
それほど浅倉の名前は有名であり、無形文化遺産浅倉流は大和でも後世に残すべき流派の一つということだ。
「凄い!じゃあ、東の四天王の浅倉優奈さんもお会いしたことがあるってこと、だよね?」
剣士養成学校東支部の入学試験を受けると言っていたなら、東の四天王を知らないわけがない。翡翠は期待に満ちた表情でタケルを見据える。
「うん。今、直接稽古つけてもらってるよ。」
「え!羨ましい•••••!」
興奮した様子でタケルに羨望の眼差しを向ける。
タケルの小さな悪戯心が芽吹いた。
「今、浅倉家に居候させてもらってるんだ。」
翡翠は前のめりになって、顔を近づけてくる。深緑の瞳を大きく開いて、じっとタケルを見ている。
先程までは上品の雰囲気を醸し出していたが、今の翡翠の印象は感情が豊かな年相応の女の子といった感じだ。
案外、この姿が翡翠の本来の姿なのかもしれない。
「僕、記憶無くしているようで、それで偶々倒れているところを見つけてくれた優奈さんの家でお世話になることになったんです。」
タケルは打って変わって真剣な口調で言った。
「そうだったんですか••••••••」
翡翠も沈痛な面持ちになり、すっかり温くなってしまったウーロン茶で喉を潤す。
突然猛暑から極寒へと変わったような、そんな空気が二人の間を蔓延した。
「でもそんなに記憶が無いことに不安を覚えてはいないよ?優奈さんやそれにあの浅倉 新左衛門さんにも会えたから。」
タケルは慌てて、空気の修復にかかる。
自分の発言で気を遣わせてしまったのだから当然のことだが。
「あ、あの剣聖の••••••?」
浅倉 新左衛門の名は剣術に馴染みがある者ならば誰でも知っている。
その強さも、その人格も。
「ど、ど、どんな方だったんですかぁ!」
極寒を抜け出し、猛暑へと戻ったようだ。
それから翡翠と談笑を続けていると、いつの間にか太陽が沈みかけていた。
「もうこんな時間だ。」
喫茶店のアンティーク時計はもう午後四時を回っていた。
「本当だね。そろそろ帰らないと•••••••」
翡翠は乱雑にウーロン茶を飲み干した。
すると、翡翠は嬉しそうに言った。
「私、いつも周りの人達に礼儀だったり、作法だったり、普段から注意されるけど、やっぱり友達は良い。そのままの私を見てくれるから••••」
翡翠の大きな悩みなのだろう。
タケルには翡翠がどんな環境で生まれて、どんな風に育ってきたのかはわからないが、自分を偽り続けて、河瀬 翡翠を演じてきた。
だからこそ好きな刀の話になると、目の色を変えて、本当の自分を出せるのかもしれない。
タケルにはまだ何もわからないが、今の翡翠の言葉にそんな大きな苦悩を感じ取った。
タケルは翡翠の力になりたい。純粋にそう思った。
まだ知り合ったばかりだが、友達としてその義務があるとタケルは考えた。
「僕といる時は畏まらないで、そのままの翡翠でいて欲しいな。だって友達だもんね。」
わざと軽い口調でタケルは言った。
少し驚きつつ、翡翠は深緑の瞳を細めて、優しく微笑む。
「そう、だね。ありがとう、タケル。」
一転、翡翠は拳を握り締めて気合を入れるような素振りを見せると、そのまま高々と腕を上げて叫んだ。
「そして二人で剣士養成学校東支部に入学するぞ!」
「うん!」
タケルも立ち上がり、腕を天井へと向ける。
「お、お客様、少し••••お静かにお願い致します。」
店員が二人を注意する。主に翡翠の方を。
周りのお客さんからの注目を一斉に浴びてしまった。
しまったという表情で周囲を見遣る翡翠と慌てて店員に謝るタケル。
二人の珍事は今日のこの喫茶店で一番印象に残った出来事になっただろう。
二人は喫茶店を出て、帰路に着くことにした。翡翠は五時までには帰宅するように言われているらしい。
もう薄暗くなりつつあり、街灯も灯り始めて、青白色の世界が現れている。
喫茶店の通り沿いを歩いていると、突如として数人の男性が前方の暗い路地から顔を出した。
「おいおい、俺を振ってデートかよ?さっきはその餓鬼が邪魔だったが、もうそうも言ってらんねぇんでな。」
人数は六人。 先程の男達が後をついてきて、待ち伏せしていたのだろう。
翡翠と夢中に話していて、迂闊だった。
油断していたことは否めない。
タケルは歯噛みして、悔しさを露わにした。
翡翠は露骨に嫌な顔をしている。
「お前んとこの会社にうちの会社潰されてなぁ。困ってんだよ。」
「そんなことは父に言って下さい。」
「その親父に会えないからこそ娘であるお前に会ってるんだ。」
「••••••何をする気ですか。」
「何、おじさん達と一緒に来てくれればいいだけさ。」
ニヤニヤと不気味な笑顔を隠さずに男の一人が言った。
タケルは周囲を見渡して、何か得物探す。
しかし木の枝一つも見つからない。
「私はあなたたちとは一緒に行きません。父に文句があるなら直接父に言って下さい。タケル、行こう?」
翡翠は男達を無視して、そそくさと歩き出した。肝の据わった少女だ。
「う、うん。」
タケルもなんとか彼女の後をついていく。 もちろん一瞬の気も緩めない。
一人、二人、三人と男の傍を抜けていく。
誰も何もして来ない。ただこちらをじっと見ているだけだ。
疑問に思ったのも束の間、次の瞬間、四人目が前方から急に襲ってきた。
それを確認して見ているだけだった三人目も同じように襲ってきて、ちょうど挟み撃ちされる形になる。
翡翠とタケルは何も言葉を発さずに戦闘に入る。翡翠は前方、タケルは後方を位置的に担当することになった。
素手での戦闘の訓練は経験が無いため、タケルは非常に不安に感じていたが、思ったよりも体が動く。相手の拳を刀の突きに見立てて、上手く躱す。そして次の瞬間には鳩尾に強拳を叩き込む。
翡翠の様子を確かめたいが、そんな暇がないほど男達は迫ってくる。
相手は蹴りを連発するが、リーチの外まで距離を取って、一発も当たらない。
疲労からの攻撃の遅延をタケルは見逃さず、一瞬で距離を詰めて、またも鳩尾に一撃を叩き込む。
男は呻き声を上げて苦しみながらその場にうずくまった。
タケルの正面にはあと一人。
相手の男は伸縮性の木刀を懐から取り出した。これは耐久性には欠けるが、持ち運びが便利ということで愛好者が多い一品だと前に梶田が教えてくれたのをタケルは覚えていた。
しかし相手に得物があって、タケルには無いのは非常にマズい状況だ。
男は木刀を構え、タケルに向かって突撃した。
しかし男はすぐに立ち止まった。
木刀が相手の手の中からこぼれ落ちる。
タケルはその姿を理解できないとばかりに凝視した。
次の瞬間、男はその場にうつ伏せに倒れた。
唖然とした表情で男の背中を確認すると、そこには銀色に光り輝く短刀が突き刺さっていた。
「法介さん••••••」
翡翠は明らかに悪感情を乗せた声色で呟いた。
タケルが後ろを振り向くと、翡翠の側に三人の男が倒れていた。
タケルはそのことにも驚いたが、今はこの法介という人物が気になった。
「駄目じゃないですか、お嬢様。あんな挑発的な態度を取っては。」
灰色のスーツに青いネクタイ。
整えられた髪の毛に見るからに高そうな金色の腕時計。
男の身に付ける物全ては高価な製品ばかりだ。
「私には•••••関係ないことです。」
悔しげに俯く翡翠。
「そんなことはないはずですよ。貴方は将来河瀬グループを受け継ぐのですから。」
法介という名の男はゆっくりと歩いて、タケルの目の前に倒れている男の背中から短刀を抜いた。
すぐに赤黒い血だまりが現れる。
背広の胸ポケットからハンカチを取り出して、短刀を染める赤を拭き取る。
「それに、厄介事に巻き込まれないようにするのが河瀬の人間には必要なことですよ?」
翡翠は何も答えず、黙っている。
「やれやれ•••••まぁ、良いでしょう。それでは翡翠お嬢様、こちらへ。迎えの車を用意しております。」
翡翠はその場からゆっくりと法介のもとまで歩いていく。
タケルを追い越して。
タケルはじっとその様子を見ていたが、離れていく翡翠の後ろ姿に向かって、大声で言い放つ。
「絶対に養成学校に入学しよう!二人で!一緒に!」
張り上げた声で通りを行き交う人々は諸々タケルに視線を向ける。
翡翠は立ち止まり、振り返ってこちらも大声で言う。
「うん!絶対だよ!約束だからね!」
タケルを追い越して、去って行った時とは表情や纏う雰囲気までもが明るいものに変わっていた。
タケルはホッとした面持ちで翡翠の後ろ姿を眺めていた。
タケルが浅倉家に着く頃には五時を過ぎてしまっていたが、何故だか昼の時よりもずっと暖かく感じられた。




