目覚め
国際的に剣士を育成するようになった世界。
大和という極東の国が世界でも大きな影響力を持っており、数多くの剣士を生んでいる。そんな国に何故だか流れ着いた漂流物。
いや、物ではない人だ。濡れた髪、濡れた服。
少年は巨木の丸太にしがみついたまま、気を失っている。
季節は春。いくら三月という時期でも海の中にずっと浸かっていて、加えて誰にも発見されずに時間が経てば、どんな人間でも低体温になり、命の危険に晒されてしまうだろう。
吹き荒ぶ海風が少年の体を徐々に衰弱させる。そんな時……
「あの……大丈夫ですか?」
優しげな声が少年の耳に届く。それが意識を呼び戻すきっかけとなったか、少年はゆっくりと重い瞼を開けた。
どうやら命を脅かすような危険な状態ではないらしい。
少年の目は青空を背景にし、黒髪の女性を視界に捉えた。
「……こ、ここは?」
「気付かれましたか?」
少年はすぐにその女性の容姿に思わず見惚れてしまった。
男女問わずに惹かれるであろう抜群の容姿、魅惑的な肢体、漂う雰囲気。
不謹慎かもしれないが、少年は女性としての魅力に思わず息を呑んだ。
何も言わずに見つめてられていることを不思議に思ったらしく、
「あ、あの••••••私の顔に何かついていますか?」
「え?あ、いや。すいません。なんでもありません!ごめんなさい!」
少年は慌てて目を逸らした。少し頬を赤らめながら。
「そんなことよりもこんな所にいると、風邪を引いてし
まいますよ」
女性は周りを見渡すが、ここは砂地やテトラポッドが置いてあるだけの何もない海辺だ。
「これ、どうぞ」
少女が渡したのは大きなタオル。きちんと四つ折りに畳まれた汚れ一つない真っ白な布生地だった。しかも信じられないくらいフワフワだった。
「これは……?」
「髪が濡れてると、風邪引いちゃいますよ?これで拭いてください」
「そ、そうですね。ありがとう、 ございます。」
少年はその肌触りの良いタオルを受け取って、乱雑に髪を拭き始めた。飛び跳ねた水飛沫はキラキラと輝きを放ち、砂場に黒い斑点をつくり出す。
「あとちょっと待ってくださいね」
女性は腰に携えた刀に念じる。
「遥かなる母の大地より、微風よ届け、流麗風」
「こ、これは風の魔剣術ですか」
「あんまり使う機会ないんですけどね」
女性はニコッと微笑んだ。
「私の家が近いので案内します。少しは休めると思いますよ」
「い、いいんですか?」
唇を震わせて、今にもくしゃみが聞こえてきそうなびしょ濡れ姿の人を見て、そのままにしておく方が難しいだろう。
「はい、大丈夫ですよ」
優しげな笑顔はとても柔らかく、少年を包み込んだ。
何だか体が重いし、今はこの状況に甘えようと少年は思った。
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大和は世界でも突出している剣術士輩出国。略せずに言えば国名は新大和国という。
面積は約三十八万キロ平方メートルと米国や新欧州帝国、亜細亜連邦とは比べ物にならないほど小さい。
数百年前まで外国からはただの極東の島国だと思われていたが、ここ半世紀から数十年の間に剣士の育成に発展の活路を見出し、成功を収めた。その結果、大和は世界でもトップクラスの軍事大国になった。
普段から軍備を整え、自国の領土や資源を守るために剣を持つ。どんな時代でもそれは変わらない。
強さこそ正義なのだ。
強力な武器を保有していれば誰も戦争を仕掛けてこない。強大な武力は最強の抑止力である。過去も現在も、そして未来も、それは変わらない考え方であろう。
皮肉なことにそれこそが平和を繋ぐ。世界を安定させる唯一の手段だ。
女性の後について歩いていくとそこまで時間を掛けずに目的地に辿り着いた。
「あ、あの、ここは?」
案内される場所は知っていたが、見たことのない光景に圧倒され、思わず少年は聞いてしまう。
「私の家ですよ。どうぞ、お入りください」
少女はなおも笑顔で応対してくれる。
超巨大な敷地。
和風な作りの見上げるほど大きな門は感じたことのない荘厳な迫力を生む。周囲とは全く異なる雰囲気だ。
少女に付いていき、門を潜るとそこに広がっていたのは見渡す限りの庭園。静寂と緊張という言葉が似合うような極東の美がこれでもかと追求されている。
水が透き通るほど綺麗な池や石の配置、樹木の組み合わせ、通路の作り方など玄人が見れば、凄腕の庭園設計士が作り出した傑作だとテンションを上げて吼えるだろう。
とても風情があり、趣がある。素人目にさえもそう感じるのだから。
「す、すごい」
心の中で呟かれた言葉は口からも発せられた。突然広がった目の前の光景に小さくない衝撃を感じたためだ。
「とりあえずお風呂に入りましょう」
唖然とした様子のまま硬直していた少年は慌てて奥へと進む女性の後ろを付いていく。
後ろ姿さえも艶やかで優美だ。
彼女の名前は何と言うのだろう。無性に気になるが、切り出すタイミングがわからない。
屋敷へと到着するのに一分はかかるほど大門から距離がある。敷地外に出るのが非常に面倒な家だ。驚愕が一気に押し寄せ、少年はそんな軽薄なことを考えてしまっていた。
「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね。お聞きしてもよろしいですか?」
「えっと鶴来タケルって言います」
だだっ広い玄関で湿った靴をなんとか脱ぎながらタケルはその頭の中の言葉、自分の名前を口にした。
「鶴来くんですか。私の名前は浅倉 優奈。四月から剣士養成学校東支部の三年生になります」
「蝦夷ですか••••••••自然豊かでとても良い所ですね。蝦夷にも剣士養成学校はあるんですよ。」
「そうなんですか?」
「ええ、北支部ですね。この東都にあるのは東支部です。」
剣士養成学校は日本に三か所存在している。別名北海道とも呼ばれる蝦夷という北の大地には北支部、日本の中心地の東都には東支部、西京に西支部が存在する。
そして他に那覇王国に南支部がある。日本との唯一の同盟国であり、米国から独立を果たしてまだ数年しか経っていない国。
その那覇王国と日本は剣士育成の面で協力関係を結んでいる。剣士養成学校南支部もそのために作られた新設校だ。
「そ、そうなんですか。」
タケルは寒さで小刻みに震えている。
それに気付いた優奈はハッとした表情を浮かべて、
「すいません。お喋りが過ぎましたね。この奥に浴室があります。着替えやバスタオルはこちらで用意しておきます。」
「何から何まですいません。」
「いえ、気にしないで下さい。」
優奈は丁寧に一礼して、その場を去った。
浴室はマンションの一室と言われてもおかしくないほどの広さであったが、感覚が麻痺したのか、もうあまり驚きはしない。
あり得ないほど巨大な門や庭を見てしまったため、この浴室も想像していた範疇だった。
温泉のようにかけ湯をしてから、湯船にゆっくりと浸かるとタケルはあまりの気持ちよさに大きく息を吐き出した。
湯気の中だからだろうか、浴室の天井が遥か遠くに感じる。
「すごいな•••••••••この家は••••••••」
家というより大きな屋敷だ。お手伝いや執事がいてもおかしくないと感じる高額所得者の屋敷。
浅倉優奈という少女はお嬢様ということなのだろう。
どうりで高貴な雰囲気を身に纏っている、そんな風にタケルは思った。
湯船から出て、体を洗い、頭を洗う。
タケルのまだ出来上がっていない筋肉は少年の体つきそのものだ。
その自分の体を物珍しそうに鏡で眺めている。
目が覚めてから微少な頭痛が続いていたが、今はもうだいぶ痛みが引いたみたいだ。
またゆっくりと湯船に浸かる。
「着替えとタオルを置いておきますね。」
浴室の扉越しに女性の綺麗な声が聞こえた。浅倉優奈の声だ。
「あ、ありがとうございます。」
短い時間しか湯船に浸かっていなかったが、タケルはすぐにのぼせてしまった。
顔を薄赤く染めて、浴室から出る。奥ゆかしさを感じさせる棚を一瞥すると、空色の浴衣が丁寧に折り畳んであり、汚れ一つない真っ白なバスタオルも置いてあった。
一瞬だが高級ホテルにでも泊まっている気分になったが、タケルは浮かれた顔を引き締めて、用意された浴衣に着替えた。
長い廊下を何も考えずに進んでいると、他とは明らかに違う豪勢な装飾に彩られた襖のドアがタケルの目の前にとび込んできた。
何も考えずに襖の取っ手に手を掛けて、思いきり開けると、異様な雰囲気に包まれた和風の部屋がそこには広がっていた。
素人が見てもわからないような花が活けられて、その傍には高価な壺が並べられている。
そんな風情を感じさせる物以上にタケルの目に入ったのは一本の刀。
艶のある黒鞘、深い緑色の柄。鍔には金色の龍の装飾が施されている。
誰しもが目を奪われる漠然とした迫力がその刀にはあった。
タケルは吸い寄せられるように刀に近付いて、思わずじっと見つめていると、
「その刀に興味があるのか?」
タケルはビクッと体を震わせた。危うく大声を上げそうになるくらいの驚きを感じた。 ゆっくりと後ろを振り向くと、そこには和服の老人が立っていた。
「あ、すいません。勝手に入っちゃって•••••••」
慌てて謝罪の言葉を述べる。
「かまわんよ。この刀は浅倉家の家宝でね••••••わしが一番大切にしている刀なんじゃよ。古龍影霧と言ってな、その刃紋は見る者を畏怖させる力がある。」
老人はおもむろに刀を持ち上げて、鞘から刀身を抜くと、銀色に光り輝いた刀身に波打つ刃紋がタケルの目に飛び込んできた。
老人の言うように確かに刀自身が恐怖を感じるほど冷たく鋭い殺気を放っていた。
ふと扉の方から人の気配を感じた。
「鶴来くん?こんな所にいらっしゃったんですね。あれ••••••おじいさまもご一緒でしたか。」
「ん、優奈か。朝の稽古は終わったのか?」
「お、おじいさま?」
「あ、はい。この方は私の祖父の浅倉 新左衛門。こう見えても新大和の剣星の一人なんですよ。」
剣聖とは新大和帝国の中で最強の剣術士のこと。
まず政府が優れた人物を選定、そして本人の承諾を経て、初めて公式に剣聖と認められる。それは国を代表する剣術士となったということである。現在は七人の剣聖がこの新大和に存在しており、剣聖一人ひとりの力は強大で世界でもその名は轟いている。
浅倉新左衛門は浅倉流剣術の第十五代目の継承者で居合の達人として世界的にも有名な人物である。
浅倉流が他の流派と違い、異能剣技を使用しない通常戦闘の剣術が持ち味。
異能剣技は科学では証明できないようなさまざまな現象を起こして、相手を攻撃、攪乱させる正真正銘の剣術である。それを使用しないということは大きなハンデになってしまうものの、それでも他の流派に遅れを取らず、剣聖までも輩出しているのは浅倉流が並大抵の流派ではないことを示しているといえよう。
ただ一つタケルは剣聖が何なのか理解していなかった。だがここで剣聖って何ですかと聞くのはあまりにも失敬であることは重々承知している。なので大体こんな感じだろうという予想でリアクションした。
「剣聖って••••••新大和で最強ってことですか?」
「剣聖なんてそこまでたいそうな肩書きじゃないぞ。国が勝手に決めただけじゃからな。」
剣聖とは国が勝手に決めるものらしい。後でこっそりと優奈に聞こうと決心した。
タケルは応対を続ける。
「でも剣聖になることを承諾したんですよね?」
「ああ、わしの息子が全て決めたようじゃ。」
「どういうことですか?」
タケルの頭に疑問符が浮かぶ。
「ふふふ、祖父の息子•••私の父親が国から送られてきた承諾書に勝手にサインと判子を押して、そのまま送り返したらしいんです。」
優奈は楽しそうな微笑を浮かべている。
詳細は分からなくてもそれだけ聞くと後々父子で揉めなかったのか非常に気になった。
そんな風に三人で談笑していると廊下の奥からギリギリ耳に届くほど微かな女性の声が聞こえた。
「おかあさまの声、呼んでいるみたいですね。」
「昼飯じゃろう。もう十二時になるからのぉ。」
部屋に置いてある年季を感じさせる柱時計を見ながら、新左衛門が言った。
「鶴来くんもぜひ食べていって下さい。」
優奈の提案はタケルにとっては非常にありがたいものだった。それほど空腹の度合いが高かったということだ。
「え、いいんですか?」
タケルは目を輝かせている。
「はい。おじいさま、いいですよね?」
「ああ、もちろん。」
新左衛門はそのまま部屋を出て、さらに奥にある自室へと戻った。
それと同時に十二時を知らせる時計の鐘の音が屋敷内に轟いた。