ピンク色は、好きだった色
そして、山道を抜けると、少し開けた場所に着いた。その先は崖になっていた。
もちろん、崖の先端にはロープが張ってあったが、空たちは危なくないように、崖から少し離れた場所に座り、二人でその先に広がる景色を見た。
「…………」
とても綺麗な景色だ。思わず見とれてしまう。見渡す限りの赤い絨毯の上を、彩る白い雲。鳥たちはその中を駆け巡る。
でも、加奈の心は分からない。昔は手に取るように分かったのに。どうして?
「…………」
空の顔が疑心に染まりそうになった時、加奈が空の頬を人差し指でつついた。
「……?」
びっくりした空は困惑した顔を加奈に見せる。
加奈は呆気にとられている空に無邪気な笑顔を見せ、ポケットから何かを取り出した。少し緊張した面持ちで、頬をほのかに赤く染めながら、それを空に差し出した。
「…………」
空はそれを受け取った。それをじっと見つめた。どういう顔をしていいのか分からなかった。
加奈が渡してくれたもの。それはヘアピンだった。ピンク色は、空が昔好きだった色。加奈はそれを覚えていた。
ピンク色のことに気が付いた空は、慌てて加奈の顔を見る。今、自分がどんな表情をしているかも分かっていない。
「…………」
加奈は笑顔のまま、ゆっくりと自分の前髪を指差した。その先には、空の手の中にあるものと同じヘアピンがつけられていた。
そういえば、加奈も私と同じでピンク色が好きだった。私は、そんなことも忘れてしまっていた。
空はそれを見て、瞳の奥から発生した熱い衝撃のようなものが、全身を駆け巡っていくのを頭ではなく、心で理解した。
その衝撃は、自分を元気づけているような、傷つけているような。
「…………」
体が熱くなる。また涙が零れ落ちている。やっぱり加奈は優しい。そう思うと。また涙がとめどなく流れてきた。
自分と加奈を比べて、どうしようもなくて。
「…………」
そして、空はそんな気持ちを拭い去ろうと、加奈からもらったヘアピンを髪につける。笑顔でそのヘアピンを指差す。
加奈は空の行動を見て、より一層微笑んだ。その笑顔は天使のようで、空の心の中に染みわたる。
「…………」
二人でヘアピンを見せ合いっこして笑い合った後、加奈が何か思い出したような顔をして、空の手をぎゅっと握った。
加奈は何かを伝えたかったのだろうが、空にはそれが分からない。
「…………」
加奈はその手を放し、今度はヘアピンが入っていたポケットとは反対側のポケットから、何かを取り出した。
「…………」
それは手紙だった。加奈はこの日のために手紙まで書いてくれていたのだ。
空の内側から溢れるものが、空の体を震わせる。
風でざわめく森の木々たちは、浮かれている。きっと、葉っぱも浮かれているから、あんな色になったんだろう。
空はどこかで分かっていた。自分がそれに乗り遅れていることを。
確かに嬉しいけど、そこに何かが混じっているということを。
「…………」
その時だった。いきなりのことで、空は目を閉じてしまった。風が吹いたのだ。色めきだっていた森に、現実を突きつけるかのように、葉っぱが乱れ飛ぶ。
もちろんその風が襲ったのは、浮かれた葉っぱだけではなかった。
加奈の持っていた手紙も、その風にさらわれてしまったのだ。手紙はひらひらと風に流されていく。加奈は慌てて、それを追いかけていく。手紙にしか目が向いていない。
あっ! 加奈!
加奈が手紙に手を伸ばしたその時、空は咄嗟に立ち上がった。加奈の体はロープから半分以上出てしまっていた。
「…………」
空は急いで駆け寄った。加奈に向けてこれでもかと手を伸ばした。何とか抵抗して体を反転させた加奈も、空に向けて必死で手を伸ばしていた。
あと少し、お願い、届いて……よ。
無情にも二人の手は触れ合うことはなかった。空の手の数ミリ先を、加奈の手が掠めていった。 加奈はそのまま、空の視界から消え去った。
加奈? 嘘? 待って……
空は慌てて腹這いになって崖の下を覗く。崖はかなり高く、その下には川があった。
加奈は? 死んじゃやだ!
空の頭の中では最悪な事象だけが駆け巡っていた――がそれだけは何とか回避できていた。
加奈は空に向けて伸ばした手で、崖のわずかなくぼみを掴んでいたのだ。
よかった、助かる。助かった。よかった。
空は急いで加奈に向けて手を伸ばす。
今度こそ絶対離さない。この手は絶対離さない。
大丈夫、今度は届く――あっ!
瞬間、加奈が捕まっていた場所が重みに耐えきれなかったのか、崩れ落ちてしまった。
加奈の体がまた落下し始めようとしていた。
ダメ。絶対、助けるんだから。
「…………」
よかった。今度は、届いた。
空の手は、加奈の手をしっかり握っていた。必死になって伸ばしたその手は、しっかりと加奈の手を握って離さなかった。
待ってて加奈、すぐ引き上げるから。
空は精いっぱい力を込めて、加奈を引き上げようとする。
大丈夫、今助けてあげるから。
それだけしか、考えられなかった。
加奈を引き上げようとすることで必死になりすぎていた空は、髪に付けていた加奈からもらったヘアピンが、髪から外れたことに気が付くことはなかった。
「…………」
そのヘアピンは、谷底まで落ちていく。
「…………」
何で? 何で持ち上がらないの? 私の力じゃ無理だっていうの?
空は何度も何度も力を込める。何としても助けたいと、必死で願う。
なのに、動かない。引き上げられない。空がどれだけ抵抗しても、加奈はなかなか自分のもとにたどり着かない。
何で? 人ってこんなに重いの? 何で?
「…………」
引き上げられない。離れて行く。それどころか、逆に自分の体が、どんどん引きずりこまれていく。
空の脳裏には、はち切れそうな程の焦りの感情とともに、最悪の展開がよぎっていた。
ダメ! 絶対そんなのダメなんだから! 何とかしないと……何とかして引き上げないと。
「…………」
空は力を込める。何度も何度も、どうにかしたくて、何度も何度も。
でも、引きあがらない。
何で? 何でそんなことするの?
その時、加奈が首を振るという光景を、空の瞳が捉えてしまった。こわばった表情のまま、目からは涙が零れ始めていた。
そんな顔しないでよ。もっと助かろうとしてよ。
「…………」
それが、何を意味しているのか分からない。分かりたくない。
空は加奈の表情を無視して、必死で加奈を引き上げようとする。絶対離さないって、そう思うから。
「…………」
空は助けたいのに、それを強く願っているのに、それでも加奈は首を横に振り続ける。
加奈。全然分からないよ。そんなの、分かりたくないよ。私は絶対、分からないんだから!
「…………」
でも上がらない。
何で? 私にもっと力があったら、私がもっと、もっと……。
これまでの日々を無駄に過ごしてきて、随分と痩せ細った体になっていた自分が憎い。もっとちゃんと生活して、もっと力があって、そしたら、もしかしたら……。
「…………」
その時だった。空が加奈を引き上げるために体全身に力を入れた時、加奈は笑顔になった。目尻から流れ落ちる涙が、その笑顔に花を添えているような感じがあった。
その表情は、きっと絵画なんかに残したら綺麗なのだろう。美しい一瞬を切り取った素晴らしい作品として評価されることだろう。
ただ、空はそんなこと思いたくなかった。そんなの認めたくなかった。最後まで必死になって加奈を引き上げようとしていた。
何? 全然分かんないよ! そんな顔しないでよ! 加奈! ダメ! 私は大丈夫だから! そのままにぎって……よ。何で……。
現実は起こった瞬間には理解できない。その物事が過去になって、光が目の中の網膜に映って、脳で処理されて、実感になる。
認めたくないものは実感から、空想、幻想へと格下げされる。実感を消して、奇跡を信じようとしてしまう。
それは空も同じだった。
無言のまま加奈が空の手を振りほどいた時、何も考えられなかった。掌で感じていた温もりが消えた時、何も思わなかった。
自分の目から涙だけが流れていた。
「加奈! ダメ!」
声が出た。こんな時に声が出た。
「待って、ダメ! 加奈!」
加奈は、その声を聞いて、また笑った。
「待って! いやぁぁあああ!」
加奈はそのまま落ちてしまった。