楽しいって、素敵なことだ
それから一週間。空へのからかいはまだ続いていた。
空はそれをずっと無視し続けた。ロープで首より少し大きな輪を作って、触っていた。首を吊るためではない。これで首を吊れば死ねるという安心感が欲しかった。
時刻は午後五時。
今日二度目のドアをノックする音がした。二回も懲りずにやってきたのか。そう思ったけど、今回はそうじゃなかった。
「ごめんください。空ちゃん? 田中です。いるんでしょ? ここ、開けてくれない?」
その人物は田中と名乗った。空はその声に聞き覚えがあった。預けられていた、孤児院の院長さんだった。懐かしい周波数だった。
その訪問は、本当に突然の訪問だったが、空の表情は少しだけ明るくなった。自分を締め付ける鎖がほんの少しだけ緩んだみたいだった。田中さんの声が優しかったから。懐かしかったから。
知らぬ間に自分自身が求めていたものだったから。
空は呆然と千鳥足で、ゆっくりと玄関まで歩いて行く。その途中で食べかけの弁当を踏みつけてしまい足が汚れてしまったが、それはどうでもよかった。
今更いくら汚れても、限界なんてとっくに超えてしまっている。
「空ちゃん、久しぶりね。こんなに痩せて。大丈夫だった? 私のせいでこんなことに。ごめんね……」
田中さんは空がドアを開けた瞬間、空を抱きしめた。柔らかくて暖かい人の体の感触。久しぶりの温もりだった。
「…………」
「今度は絶対、あなたを一人にはしないわ。どこか具合悪いところない? もう大丈夫だから。また私たちと一緒に暮らしましょう。もう大丈夫よ」
田中さんは私を強く強く、涙ながらに抱きしめてくれた。
***
空は元の孤児院に戻った。これでまた加奈に会える。父親は死んだと聞かされた。ゴミ捨て場で死んでいたらしい。知らぬ間にリストラをされていたようだ。死んだのは酒を飲みすぎたことが原因らしい。
まあ、どうでもいいことだ。人が死ぬことはもう、経験済みだし。
「…………」
空は孤児院に戻ってきて一番に、田中さんの手を強く握って、加奈がいた部屋の方を指差す。喋ることができない空の、必死の意思表示だった。
「あっ、えっと、ごめんね。でも、加奈ならすぐ会いに来てくれるわ」
それで、空はすべてを察した。
加奈がここにはいないということを。
田中さんの話の続きでは、結城という人のところ、いわゆる里親に引き取られたらしい。
しかも、ほんの一ヶ月前だそうで。
「…………」
空は田中さんの言ったことを覚えていなかった。加奈にせっかくまた会える。一緒に遊べると思っていたのに。結局一人だった。それだけしか、頭には残らなかった。
***
次の日。空はどこにも行かず部屋の隅でうずくまって、ただ何もせず過ごしていた。これじゃあ場所が変わっただけで、前と何も変わっていない。世界はまだモノクロでできていた。誰かがからかいに来るだけ、前の方がましなように思えた。
その日の夕方だった。
「空ちゃん? ちょっといいかしら? 明日からの連休で、キャンプに行こうと考えてるんだけど、空ちゃんも行く? そのキャンプに加奈ちゃん呼んであるの。加奈ちゃんがまた会いたいって言ってるのよ。空ちゃんもまた会いたいでしょ?」
「…………」
空は少し戸惑っていた。でも、空の目からは涙が出てきていた。
「…………」
空はゆっくりと頷いて、嬉しくて、田中さんに抱き付いた。嬉しくて、嬉しくて、泣きながら、顔を赤らめながら、空は田中さんの胸の中で何度も何度も頷いた。
「そう。よかったわ。じゃあさっそく準備しないとね。明日の朝は早いわよ!」
田中さんも、少し明るくなったようだった。
その夜、空は嬉しさと興奮でなかなか寝付くことができなかった。
明日が楽しみなんて思うのは、一体いつぶりだろうか。こういう気持ちになることはいつ以来だろうか。
明日が楽しいって、素敵なことだ。