それは、空気みたいに
一三歳。今は、部屋の中に一人。
安心? そう言うことじゃない。安心とかどうでもいい。
部屋の隅で座っている少女の目は虚ろだ。
私は、いつまで続けていればいいんだろう。
その少女は声を出すことができない。空の口はただの装飾品だ。一般的な人に見えるように、配置されているだけだ。
偽物よりも、たちが悪い。本物のくせに、能無しなんだから。
でも、それは生まれた時からそうだったというわけではない。空はある事件がきっかけで、声を出せなくなったのだ。
六歳の時の、強盗事件のせいで。
その日。空の家族はみんな寝ていた。みんなと言っても、空とお母さんの二人。アパートの狭い部屋で二人肩を寄せ合って同じ部屋で寝ていた。
夜中二時過ぎ。空は何かの物音に気が付いて目を覚ました。部屋はもちろん真っ暗。目が慣れるまではまだ時間がかかる。ぼんやりとした視界しか存在しない。
「…………」
空は寝ぼけたまま、ゆっくりと起き上る。羽織っていたタオルケットが足までずり落ちる。幼い子供ながらに少しの不安を覚えていた。
「…………」
ぼやけた視界の中で、何かの違和感を感じ取った空は暗い部屋の中で目を凝らす。キッチンの方から何やら物音が聞こえてくる。
空はその人影をお母さんだと思った。暗くてよく見えなかったから。寝ぼけていたから。安心したかったから。
今の空が、そんな理由程度で納得できるなら、どれだけよかったのだろう。
「お母さん……何してるの?」
空は勝手にお母さんだと認識した人影に声をかけた。
「…………」
その瞬間に、その物音は止まった。空の目にようやく実像として映りだした人間の動作は、物音に遅れる形で止まったのだ。
光の方が音より早いのに。
「…………」
その人間は、ゆっくりゆっくり振り返る。空の方へと。目を大きく見開いているのが空からでも確認できた。その人の雰囲気で。
空はそこでようやく理解した。その人間はお母さんではないということに。人間の手に、当時空が存在すら知らなかった、人殺しのための簡易兵器が握られていたということに。
きっと、その簡易兵器が何かを守るためだけに使われている兵器だったら、空のような子供でも知っていたのだろう。
当初の目的が何かを守るためであったとしても、人間はあらゆるものを攻撃手段として用いる才能に長けているので、仕方がない。自然の摂理というものだ。兵器には心がないので、人間に使われるしかないのだから。
そもそも、最初から攻撃手段として作られるものだってあるのだから。
「…………」
人影の目と空の目がついに合ってしまう。人影の体は横を向いているせいか、厚さが半分になってしまったかのように見える。
「……あ、ああ、ああぁ!」
人間は突然錯乱し、叫び声を上げた。それと共に、空が初めて耳にする乾いた音も鳴り響く。
まるでその音は、空が保育園の発表会で叩いた太鼓の音のようだった。咄嗟のことで混乱し、脳細胞が似た音を必死で探り当てた結果が、それだったのだ。
そして、その太鼓の音のせいで一つ、どうしようもない事が起きた。空のお母さんは目覚めてしまったのだ。
どうしてお母さんが横で寝ていることに気が付かなかったのだろう。いつもそうやって寝ていたはずだったのに。
私は本当にバカだ。
「……お母さんダメ!」
空はお母さんが動いたことに気が付いて咄嗟に叫んでいた。
何発も鳴り響いた銃声が、その声を掻き消すなどとは思いもせずに。
「…………」
ほんの少しだけ、静けさが辺り一面を覆う。そこにいる誰もが、現実を理解しようとする時間が必要だった。
「……お母さん?」
その次の瞬間にはすでに、空の声は疑問形に変わってしまった。
そうなってしまった背景には、キッチンにいる人間の奇怪な叫び声と、お母さんの体に突入して行った黒い塊の存在が関与しているのは言うまでもない。
血飛沫の残像で赤くも見えた黒い塊は何発も何発も、お母さんの体に撃ち込まれた。弾丸が皮膚にめり込んで細胞を破壊し、肉を抉っていく瞬間は、今でも夢に出てきて、そのたびに吐いてしまう。
つまり、この時の空は、お母さんが目の前で色んな場所から血を流して倒れたのを見てしまったのだ。自身の体にも数多くの血飛沫がかかってしまったことも覚えている。視界が急に赤く染まったから。
空はあの日のことを事細かに思い出せるくらい、脳裏に残像としてあの部屋が刻まれている。
「……お母さん? 大丈夫?」
もちろん空の手にも、小さな黒い塊が一発当たっていた。骨に接触した塊の感触は、もう忘れてしまった。自分のことだから。
その他の弾丸は、二人の後ろの壁や、手前の床にめり込んだりもしていた。
お母さんから流れる血が黒く見えたのは、部屋がきっと暗いせいだろう。
どの音が木にめり込む音で、どの音が人間の肉を抉る音なのかも覚えていない――と思う。
覚えているのは、乾いた発砲音だけ――だと思う。
「…………」
当然、空は銃声が聞こえてからお母さんが倒れるまでの間、何もできなかった。お母さんが床に倒れていく光景が理解できなかった。自分の手にも傷を負ったはずなのに、痛みすら感じていなかった。
「ああ! ああ! うわぁああああ!」
人間はまた叫び声を上げて倒れこんだ。全身が震えている。何をそんなに怯えているのだろうか。そんな人殺しの兵器なんかを持っているのに。
「……お母さん?」
空が見つめるお母さんは、真っ赤な血を流したままで動かなかった。手も足もお腹も首も。動いているのは流れ出てくる真黒な血液だけ。
「起きてよ? お母さん?」
空はお母さんの体を数秒間見つめて、我に返った。急いでお母さんの体に触れた。
「お母さん! お母さん! お母さん!」
空がゆすっても、びくともしなかった。体はまだ柔らかくて、死後硬直が始まる前で、その原理も知らなくて。
動かないという事実は、当時の空には、理解しがたい事実だったのだろう。お母さんが、唯一の肉親が〝死んだ〟という事実を認めたくなかったのだろう。
「う、撃つつもりなんてなかった。急に起きるから、殺すつもりなんて、お母さんなんて、喋るから……」
人間はそう言い残し、動物にでもなったかのように謎の喚き声を上げてから、自分で自分の頭を撃ちぬいた。
空がその姿を見ているとも知らずに。なんと無責任な大人なのだろうか。
そいつが力を失って床に倒れていく姿も、頭から噴き出る血も、湿っていく髪の毛も、空は見ていた。水道管が壊れて、水漏れしているみたいに、広がっていく赤い液体は、今でも空に震えをもたらす。
空の全神経に、二人の人間が目の前で死ぬ場面が焼き付く。記憶にも焼き付いているなんて、生ぬるいほどに。
その後、発砲音を聞いた近所の人からの通報で、警察と救急車が来た。
でも、もう遅かった。
お母さんは死んでしまった。犯人も死んでしまった。空だけが助かった。助かったのだが、そのショックからか、空は声が出せなくなってしまった。出そうとしても出ないのだ。脳に強引に取り付いた鎖は、ほどけることなく空の頭を締め続けているのだ。忘れようとしても忘れることができないのだ。
血が噴き出ていく光景や、乾いた音ばっかりが、空気みたいに空の周りを駆け巡る。