君の声がする
病院に着いてすぐに、空はパトカーを飛び出した。加奈からもらった手紙を持ったまま。どの部屋にいるかは、パトカーの中で聞いた。
加奈、やっと、私、ちゃんと伝える。声、聴かせてあげられるよ。
空は他の患者からどんな目で見られようが関係なく、病院内を必死で走って、加奈がいる部屋のドアを開けた。
…………
その部屋は、やけに静かだった。電気がついているのに、薄暗く灰色に染まったこの部屋は、何だか希望とは正反対の――そんな感じがする。そして、その部屋では、一人の女の子がベッドの上で横になっていた。
「加奈? 加奈?」
空はそれまでの勢いが嘘のように、近づくことができなかった。
後れて、田中さんと結城さんが、重い足取りで入ってきた。結城さんは加奈を見るなり、その場に泣き崩れた。空はもう理解していた。いや、本当は、もっと前から分かっていた。
「空ちゃん。ごめんなさい。さっき本当のことをはっきり伝えられなくて。言い方……もっとあんなじゃなくて……ちゃんと……」
結城さんは、泣きながら空に謝る。
その後ろでは、田中さんが顔を手で覆い、泣いている。
ほら。みんなだって、やっぱり無理なら、泣いたってよかったのに。
本当に、私のために、ごめんなさい。
「加奈? 私、会いに来たよ」
空は覚悟して、ゆっくり加奈に近づいていった。淀んだ霧の中をもがきすすむように、光の入ってこない深海を進んでいくように。ゆっくりゆっくり加奈の体に近づいていく。
「加奈、手紙、ありがとう」
空は加奈の横まで来た。手紙を加奈の顔の横に置く。ベッドの横の台には、何も活けられていない花瓶が寂しそうにポツンと置かれていた。
「加奈? 加奈はもう、目を覚まさないんだよね?」
聞いてしまった。それを聞けば、自分は現実をはっきりと知ることになるのに、聞いてしまう。
だって、反応して欲しいじゃん。誰だって、そう思うじゃん。だから……。
「覚まさないんだぁ……」
加奈の顔を見て空の目からまた涙が零れ始めた。今日何度目かも分からない涙。
加奈の顔は穏やかで優しくて、あの時の笑顔のままだった。
「あの下は川があったんですが、近くに打ち上げられていて、幸いでした。大きな傷もありませんで……よかったのではないかと」
部屋にいた医者が、俯きながら三人に加奈の現実を伝える。医者でも、死に慣れるなんてことはできないのだろう。直接的に言わないのは。気を遣っているからなのだろう。
そんな風に気を遣うって、どれだけ一体、辛いんだろう。よかったことなんて一つもないのに、私たちを思って、そうやって、言ってくれる。
「加奈、ごめんね、私、バカで、ごめんね」
空は震える右手で加奈の頬を触った。優しく、優しく。
「手紙……ごめんね。私、今読んだの。ごめんね。返事、まだ一通も書いてないのに……ごめんなさい」
空の流した涙が加奈の頬に落ちていく。まるで加奈が泣いているかのように涙は加奈の頬を流れ落ちる。
結局、私は、私の声で、加奈に気持ちを伝えることができなかったんだ。一番聞きたかったはずなのに……聞いて欲しかったはずなのに。
『空、泣かないで。大丈夫。絶対大丈夫。私、空に会えて幸せだったから……そうだ。プレゼント。毎日つけてよね。絶対似合うから。可愛いから。私とお揃いだから』
えっ? 今の声……って。
突然聞こえたような気がしたその穏やかな声に、空は耳を疑った。
それは空の心の中に響いてくるような。広がっていくような。
そんな感じがするじゃなくて、きっとそうなのだと信じることができる、当然のこと。
その現象は、その心に染み込んでくる暖かな光は、一度も聞いたことないがないけど、懐かしくて、何度も何度も感じたことがある。私を優しく包んでくれる。
だから、その声の持ち主は、加奈だって分かる。私の中に流れてくるその声は加奈だって確信できる。
だって、加奈にぴったりの声なんだもん。優しさに溢れた、加奈の声なんだもん。
空は泣きながら加奈の顔を見た。加奈の顔はさっきと同じ笑顔のままだった。
「加奈……ごめん。私、プレゼント落としちゃった……加奈とお揃いのプレゼント、私、落としちゃった」
『大丈夫。私が見つけたから。大丈夫』
「えっ……?」
その時、空は加恋の右手が握られているのに気が付いた。何かを握っているのに気が付いた。
「……加奈?」
名前を呟く。加奈の名前を呟く。
空はゆっくりと加奈の手を開けてみた。空は嬉しくて、勇気をもらったようで、涙が止まらなかった。
「これ、加奈がくれた……」
「その手、強く握られすぎてて、私が開けようとしても開かなかったんです。よっぽど大事なものだったんでしょうね。この子にとってよほど」
「これ、これって、加奈……」
空は加奈がもう一度プレゼントしてくれたヘアピンを胸に押し当てた。加奈の髪にはまだ、ちゃんとヘアピンがついていた。
きっとこの先、どんなことがあっても、やっぱりそれは、お揃いだ。私たち二人の、お揃いだった。
「加奈……ありがとう」
空はもう一度加奈の手を握りしめた。そのありがとうに、色々な感情を刻み込んだ。
「……あっ」
そしてまた気が付く。まだ何かが加奈の手の中にあった。加奈は私のために、色んなものを残してくれていた。
「これ、も、加奈の」
空はそれを広げる。それは手紙だった。水に濡れていたけど、それでも読めた。読めないところもたくさんあったけど、流石は加奈だ。読める。ちゃんと読めるように、握りしめてくれた。
【空。今日はありがとう。プレゼント気に入った? かわいいでしょ。私とお揃いなんだよ。今日からまた毎日遊ぼうね。……。空ならならきっと大丈夫。また絶対喋れるようになる。私が今日からずっと一緒にいて、喋れるようにしてあげる。流れ星にもそう願ったことあるんだよ。だから、空も少しだけでいいから勇気を出して。大丈夫。空なら絶対大丈夫。だって、空は私の最強の親友なんだから。大好き】
その中身は、加奈の心で一杯だった。その暖かい心は、確かに空の中で響き渡った。
私は、加奈のために。
だったらきっと、私にだって、大丈夫。
もっとそれが早くだったらよかったかもしれない。私は、いつだって遅すぎて、後悔して。
でも、私を変えてくれたのが、加奈でよかったような気もする。そんな加奈のために、私は何ができるんだろう。
「加奈、ありがとう。ありがとう」
加奈が私のためにしてくれたこと。私は何も返せていない。返せてないのに、それでも優しいと言ってくれる加奈。
空は、安らかに眠っている加奈に、優しく語りかけた。
最初の一歩の踏み出し方が分からないなんて、そんなの理由にはならないって、もう分っているから。
「加奈。もう私は大丈夫。加奈だって優しいよ。親友だよ。私の最強の親友だよ。加奈の心は私にちゃんと伝わってるから。私は勇気をちゃんと出して見せるから、だから、加奈、ちゃんと見ててね。私は、もう逃げたりしないから」
気が付くと雨は止み、病室の窓から眩しくて鮮やかな太陽の光が差し込んでいた。病室がさっきよりずっと広く暖かく感じる。
空はそのヘアピンを、前髪につけた。加奈とお揃いのヘアピンを、加奈と同じように。
もう、大丈夫。私には加奈がついている。
そして、空は泣くのを辞めた。結城さんと面と向かって対面した。
自分の思いを、まっすぐ結城さんに伝えた。
「結城さん。私を、あなたの子供にしてください。加奈の代わりになれるなんて思ってません。加奈みたいに、優しくもありません。でも、私は、加奈に勇気をもらいました。私は、全然ダメな人間です。でも……それでもいいなら私を、結城さんの子供にしてください」
空は結城さんに頭を下げた。深く深く。最後までしっかり、涙は少しだけ、まだ流れていた。
「………」
結城さんは、少し驚いているようだった。突然言われて、現状がまだ呑み込めていないようだった。
「……そう。ありがとう。空ちゃん」
でも、もう違った。結城さんは優しく空の名前を呼んでくれた。泣きながらにっこり笑ってくれた。結城さんの笑った顔って、こういう顔だったんだ。
「はい。分かりました。田中さん、よろしいですか?」
「……ええもちろん。私からも、よろしくお願いします」
田中さんも一緒に頭を下げてくれた。ありがとう。田中さん。田中さんはいつだって私の味方でいてくれる。
「ありがとうございます。田中さん。空ちゃんも、ありがとう。私たちのこと、絶対加奈も祝福してくれてるわ」
「……はい。私も、そう思います」
空は頭を上げた。最後に自分がこの顔をしたのはいつだっただろう――ううん。そんなの関係ない。
だって、私はこの先、いつだってこういう気持ちになれるのだから。
空の笑顔はまだぎこちなくて、涙の跡も、そこを流れる涙も、輝いていた。陽の光が少し眩しかった。
「それとね、空ちゃん。空ちゃんはダメな人間じゃないわ。絶対。だって、こうして話せるようになったもの。勇気を出せるようになったもの。自分で一歩踏み出したもの。加奈の心をちゃんと感じてくれたもの。それって、とっても素敵で、凄い事よ」
「でも、私はこういうことになってからしか、こういうことできなくて、だから」
「そんなことない。大丈夫。空ちゃんは優しい。だから、もう自分を責めるのは辞めて。加奈はそれを望んではいない。空ちゃんは絶対にダメな人間なんかじゃない。だって……空ちゃんは加奈に、あんなにも愛されていたんだから」
そっか、そうだったんだ。
私って、こんなにも愛されてたんだ。
「あっ、これからは、あなたのこと、ちゃんと空って呼ぶわね。私の大事な娘だから」
「……はい。えっと、その、ありがとうございます」
空は喜んでそれを受け入れて、恥ずかしくて、お母さんと言えなくて、頭を下げた拍子に瞳の中に溜まっていた涙が零れ落ちていった。
赤く染まった空の頬を伝ったその涙を、一番喜んだのは、きっと、きっと。




