第一部 第九話 ――名を知る者と、名を与える者
南方警戒線の陣地を包んでいた緊張は、一晩を越えても完全には解けなかった。
焚き火の火は落とされ、騎士たちは必要最小限の装備を身につけたまま、静かに朝を迎える。戦闘は終わっている。だが、それが「一段落」ではなく、「次への間」であることを、誰もが無言で理解していた。
椎名は、夜明け前から起きていた。
眠れなかったわけではない。
むしろ、身体は休息を欲していた。
それでも、目が覚めた。
(……見られている感覚が、消えない)
森の奥。
そこに何がいるのかは分からない。
だが、こちらを“認識した存在”がいる――その確信だけが、静かに胸の奥に残っていた。
「椎名殿」
背後から声がかかる。
振り返ると、セリウスだった。魔法師団長としての威厳を保ちつつも、どこか柔らかな表情をしている。
「公爵城より、正式な召喚です。
ガイウス団長とともに、今から向かってほしいとのこと」
「……分かりました」
椎名は短く答えた。
このタイミングでの召喚。
意味は明白だった。
◆
アルヴァリア公爵城は、相変わらず無駄がなかった。
装飾は抑えられ、だが手入れは行き届いている。
権威を誇示するための城ではなく、機能するための城。
椎名は、この場所に来るたびに、地球で見た「無駄に豪奢な権力の象徴」との違いを思い出す。
(……ここは、現場を知っている)
城内に入ると、執事長が出迎えた。
「お待ちしておりました。
閣下は、すでに執務室に」
その口調は、以前と変わらない。
過剰な敬意も、露骨な警戒もない。
だが、椎名は気づいていた。
視線の置き方が、微妙に変わっている。
観察から、評価へ。
執務室の扉が開かれる。
そこにいたのは、アルヴァリア公爵。
そして、家族ではないが、領政を支える中核の職員たち――文官長、兵站責任者、城付き騎士長。
外部の貴族はいない。
あくまで、公爵家の“内側”の会議だった。
「来たか」
公爵は、椅子から立ち上がることなく言った。
「まずは、南方警戒線での働き、感謝する」
形式的な礼ではない。
淡々としているが、実務家の言葉だった。
「被害が最小限で済んだのは、評価している」
ガイウスが一歩前に出る。
「現場判断は、椎名が中心でした」
公爵の視線が、椎名に向く。
重い。
だが、不快ではない。
測るための視線だ。
「報告は読んだ」
公爵は、書類を指で叩いた。
「魔物の動き、統制の有無、そして“あえて深追いしなかった理由”。
興味深い」
「敵が、こちらを試していると判断しました」
椎名は、余計な言葉を足さなかった。
「試し、か」
公爵は、椅子に深く腰掛ける。
「では問おう。
なぜ、あの段階でこちらは勝てた?」
少し意地の悪い質問だ。
だが、椎名は迷わなかった。
「敵が、勝つ気で来ていなかったからです」
執務室が、一瞬静まる。
文官長が、眉をひそめる。
「それは……」
「こちらが油断すれば、次はもっと深く来る。
ですが、慎重に動けば、相手は“次の手”を考え直す必要がある」
椎名は、公爵をまっすぐに見た。
「つまり、勝ったのではなく、均衡を保っただけです」
公爵は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……その認識を、現場の全員が共有していたら、戦はずいぶん楽になるだろうな」
それは、賞賛だった。
◆
会議は続いた。
補給線の再確認。
騎士団と魔法師団の連携。
南方森域における監視体制の強化。
椎名は、必要な部分だけ意見を述べた。
出過ぎず、黙りすぎず。
その姿を、公爵は注意深く見ていた。
(権限を与えても、振り回さない)
それは、領主にとって何より重要な資質だった。
会議の終わり。
公爵は、椎名を呼び止めた。
「椎名」
「はい」
「お前は、この世界の人間ではないな」
直球だった。
だが、椎名は驚かなかった。
「……はい」
「それでも、我が領を守るために動いている。
理由を、聞いてもいいか」
一瞬、沈黙。
椎名は、言葉を選んだ。
「放っておけば、無関係な人が死ぬ。
それが、嫌なだけです」
それ以上でも、それ以下でもない。
公爵は、目を細めた。
「単純で、厄介だな」
そして、はっきりと言った。
「ならば、もう少し深く関わってもらう」
椎名の胸に、わずかな緊張が走る。
「南方に限らず、領全体の防衛と判断に、お前の視点が必要だ」
それは、招きだった。
同時に、逃げ道のない一歩でもある。
「……承知しました」
椎名は、頭を下げた。
◆
その頃。
森のさらに奥、闇の中。
「――名は、椎名、か」
赤い瞳が、愉しげに細められる。
「人でありながら、魔力に依らず、場を読む存在」
魔族は、低く笑った。
「ようやく、こちらも本腰を入れられる」
均衡は、まだ崩れていない。
だが、両者は互いを知った。
それだけで、戦は次の段階へ進む。




