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影縫う剣と蒼き城の執事  作者: わまたよ


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最終話 ――名を持たぬ者の剣

 風が、止んでいた。


 空は高く、どこまでも澄み渡っているはずなのに、その場だけが異質な静寂に沈み込み、まるで世界そのものが息を潜めて、これから起こる何かを見届けようとしているかのようであった。


 荒野の中央に、二つの影がある。


 一つは、黒。


 深淵のように濃く、夜そのものを切り取ったかのような魔力を纏う存在。足元の大地は、触れてもいないのにじわりと焦げ、空気は歪み、視界の端が揺らぐ。そこに立つだけで、世界の理が僅かに軋む。


 魔族の王。


 インベイを率いる、絶対の頂点。


 そして――もう一つは、ただの人影。


 装飾もなく、華やかさもなく、ただ静かに佇む一人の男。風に揺れる外套の裾も、剣を収めた鞘も、どこまでも控えめで、まるでこの場の異様さとは無関係であるかのように、穏やかな気配を保っている。


 椎名。


 魔力を持たぬ、異邦の執事。


 その二人の間に、距離はある。


 だが、その距離は、意味を持たない。


 踏み込めば一瞬。だが、その一瞬の中にこそ、すべてが詰まっていると、両者は理解していた。


「……改めて、問おう」


 魔王の声は低く、しかし不思議と遠くまで澄み渡る響きを持っていた。耳ではなく、骨の奥に直接触れてくるような、重さを帯びた声音である。


「貴様は、なぜ剣を取る」


 問いは、単純だった。


 だが、その単純さゆえに、逃げ場はない。


 椎名は、わずかに目を伏せる。


 その仕草は、考えるためのものではない。すでに答えは、とうに定まっている。ただ、それを言葉にするために、ほんの僅かな間を置いただけであった。


「守るためでございます」


 静かで、柔らかな声音。


 しかし、その中には、揺るぎのない確かさが宿っている。


「何をだ」


「人でございます」


 魔王は、わずかに目を細めた。


 興味深そうに、だが同時に、どこか呆れたように。


「人、か。……貴様は、それほどまでに人を信じるか」


「信じているわけではございません」


 椎名は、顔を上げる。


 その目は、まっすぐに魔王を見据えていた。


「ですが、信じたいと願う者がいる限り、それを守る価値はあると存じます」


 一瞬の、沈黙。


 その沈黙の中で、空気が僅かに震えた。


 魔王の周囲に渦巻く魔力が、濃度を増していく。黒が、より深く、より重くなり、まるで底の見えぬ海のように沈み込んでいく。


「……くだらぬな」


 その一言と同時に、世界が歪んだ。


 魔王の足元から、闇が噴き上がる。


 それは炎のようでもあり、霧のようでもあり、しかしそのどれとも違う。光を飲み込み、音を吸い込み、存在そのものを侵食するような、純粋な“否定”の力。


 大地が砕ける。


 空気が裂ける。


 だが、椎名は動かない。


 ただ一歩。


 前へ。


 その瞬間、世界の流れが変わった。


 魔力の奔流が、彼の周囲だけを避けるように流れ、触れる寸前で断ち切られていく。見えない何かが、そこにある。術でもなく、力でもない。ただ、研ぎ澄まされた技と感覚が、すべてを拒絶している。


 椎名の手が、柄に触れる。


 指先が、静かに鞘を押し開く。


 その動きは、あまりにも遅く見えた。


 だが、それは錯覚である。


 時間が引き延ばされているだけだ。


 魔王の瞳が、わずかに見開かれる。


(――来る)


 次の瞬間。


 音が消えた。


 いや、音が生まれる前に、すべてが終わっていた。


 一閃。


 それは、光でも、影でもない。


 ただの“線”。


 しかし、その線は、世界を分かつ。


 魔王の身体が、わずかに揺らぐ。


 黒の魔力が、裂ける。


 遅れて、衝撃が走った。


 大地が抉れ、空気が爆ぜ、遙か後方の岩山が音もなく崩れ落ちる。だが、それらすべては副次的な現象に過ぎない。本質は、ただ一つ。


 斬られた、という事実。


「……見事だ」


 魔王は、静かに言った。


 その声には、怒りも、嘲りもない。ただ純粋な感嘆があった。


「魔を持たぬ身で、ここまで至るか」


 椎名は、何も答えない。


 ただ、構えを崩さず、次の一手に備える。


 魔王の口元が、わずかに歪む。


「ならば、応えよう」


 黒が、膨張する。


 それは先ほどまでとは比較にならない密度で、空間そのものを塗り潰していく。視界が奪われ、感覚が鈍り、存在が溶けていく。


 だが。


 その中で、椎名だけが、はっきりと“そこにいた”。


 足の裏に伝わる土の感触。


 空気の流れ。


 わずかな温度差。


 すべてを拾い上げ、組み立てる。


(……来ます)


 次の瞬間、闇が“形”を持った。


 無数の刃。


 無数の牙。


 それらが同時に、あらゆる角度から襲いかかる。


 避け場はない。


 逃げ場もない。


 だが、椎名は動いた。


 踏み込む。


 最短で、最速で。


 すべてを無視して、ただ一点へ。


 魔王の喉元へ。


 刃が迫る。


 肉を裂く寸前で、しかし軌道がずれる。紙一重で外れ、わずかな空間を残す。その隙間を、椎名は通る。


 常人には不可能な軌道。


 だが、それは奇跡ではない。


 積み重ねた技術と、経験と、そして――守るという意志が生み出した、必然であった。


 再び、鞘が鳴る。


 抜刀。


 今度は、より深く、より確実に。


 魔王の胸元に、線が走る。


 黒が、崩れる。


 世界を覆っていた闇が、音もなく解けていく。


 風が、戻る。


 光が、差す。


 魔王は、ゆっくりと膝をついた。


「……なるほど」


 その声は、驚くほど静かであった。


「これが、“人”か」


 椎名は、剣を納める。


 それ以上の言葉は、不要であると知っていたから。


 魔王は、顔を上げる。


 その瞳には、もはや敵意はない。


 ただ、確かな理解があった。


「貴様のような者がいるならば……」


 言葉が、途切れる。


 その身体が、ゆっくりと崩れていく。


 魔力が、ほどけていく。


 最後に、ほんの僅かに笑ったように見えた。


「……共存も、悪くはない」


 風が、吹いた。


 すべてが、終わる。


 戦いは、終わった。


 だが、それは終焉ではない。


 始まりであった。


 椎名は、静かに空を仰ぐ。


 どこまでも広がる青。


 その下で、人は生きていく。


 争いも、迷いも、すべてを抱えながら。


 それでも。


 守るべきものがある限り。


 彼は、剣を取る。


 名を持たぬまま。


 ただ、静かに。


 その在り方こそが、この世界に残る“楔”となることを、誰もが知る日が来るとしても――彼自身は、決してそれを語ることはない。


 ただ、いつものように。


「お帰りなさいませ」


 そう言って、迎えるだけである。

今まで読んでいただきありがとうございました。

最後の方は自分もうまく書くことができなくてとても苦労しましたがひとまず終えることができて良かったと思います。


次の作品も読んでいただければと思います。

本当にありがとうございました。

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