第一部 第八話 ――評価という名の静かな戦場
夜明け前の空気は、冷たく、澄んでいた。
南方警戒線に設けられた仮設陣地は、前夜の戦闘を終えてもなお、緊張を解いていなかった。焚き火の赤い火がいくつも揺れ、鎧を脱がぬまま休息を取る騎士の姿が点在している。
完全勝利――そう言ってしまえば簡単だ。
だが、誰一人として、その言葉を口にしようとはしなかった。
理由は、誰もが理解していたからだ。
敵が本気ではなかった。
椎名は、陣地の端に腰を下ろし、刀の手入れをしていた。布で刃を拭う動作は丁寧で、無駄がない。まるで日常の延長のような仕草だった。
(こちらの出方を測られている……)
魔物の動きは単調だった。
統制はあるが、決定力がない。
つまり、背後にいる指揮者は、情報収集を優先していた。
「……やっぱり、落ち着きすぎてるな」
独り言のように呟いた椎名の背後から、足音が近づく。
「お前は、いつもそうだな」
低く、よく通る声。
振り返ると、ガイウスが立っていた。
鎧の一部を外し、無骨な剣を背に負っている。長年戦場に立ってきた男特有の、疲労と覚悟が同居する表情だった。
「初陣を終えた騎士たちが、浮き立つこともなく、震えもせず、ただ静かに次を考えている。
これは、異常だ」
「……悪い意味で?」
「いいや」
ガイウスは短く笑う。
「“上が”落ち着いていると、部下は真似る」
そして、視線を椎名に向けた。
「お前が、余計なことを言わなかったからだ」
椎名は、刀を鞘に収めながら首を振った。
「言う必要がなかっただけです。
あの場で勝ったと騒げば、次で死ぬ」
その言葉に、ガイウスの目がわずかに細くなる。
「……若いのに、嫌な現実を知りすぎているな」
「戦場では、楽観は罪です」
会話は、それ以上続かなかった。
しばらくして、陣地に伝令が駆け込んでくる。
「団長!
公爵城より使者が到着しました!」
その言葉に、空気が変わった。
アルヴァリア公爵城。
そこからの使者は、単なる労いではない。
評価と判断を運んでくる存在だ。
◆
簡易天幕の中。
ガイウス、セリウス、そして椎名が並び、使者の言葉を聞いていた。
「昨夜の戦闘報告は、すでに公爵閣下の元へ届いております」
使者は、形式ばった口調で続ける。
「損耗を最小限に抑え、敵の出方を見極めた判断――
特に、椎名殿の戦術眼について、高く評価されています」
セリウスが、わずかに目を見開いた。
ガイウスは腕を組んだまま、黙って聞いている。
「閣下は、椎名殿を“単なる戦力”ではなく、“判断を任せるべき人材”として見ておられる」
その言葉に、天幕の空気が一段重くなった。
椎名は、静かに息を吐く。
(……来たか)
評価とは、常に責任を伴う。
力を認められることは、同時に失敗を許されなくなるということでもある。
「よって、次回以降の南方警戒において、椎名殿には――」
使者が、一拍置いた。
「戦術助言役として、正式に権限を与える」
セリウスが、思わず椎名を見る。
「……つまり?」
「判断を求められた際、団長・魔法師長と同等に意見を述べる立場です」
それは、異例だった。
貴族でもなく、騎士でもない。
ましてや、この世界の人間ですらない者に与えられる権限ではない。
ガイウスが、低く笑った。
「公爵閣下らしいな。
使えるものは、立場を問わず使う」
椎名は、少しだけ眉を下げた。
「……重い役目です」
「断るか?」
「いいえ」
即答だった。
「引き受けます」
理由は、単純だった。
ここで退けば、次に死ぬのは判断を委ねられない兵だ。
◆
その夜。
椎名は、一人で陣地を歩いていた。
騎士たちは、彼を見ると自然に背筋を伸ばす。
恐怖ではなく、信頼に近い空気。
(……立場が、変わったな)
望んだわけではない。
だが、拒む理由もなかった。
森の方角を見やる。
闇は深く、静かだ。
だが、椎名には分かっていた。
見られている。
魔力ではない。
視線でもない。
それでも、確かに――。
「次は、もっと大きく動く」
誰に向けるでもなく、椎名は呟いた。
「小細工は、もう通じないだろう」
遠くで、風が木々を揺らす。
その音は、まるで何かが笑ったようにも聞こえた。
アルヴァリア公爵領。
その均衡は、静かに、確実に、崩れ始めていた。




