第一部 第七話 ――静かな森と、崩れる均衡
南方警戒線――。
それは、アルヴァリア公爵領において「最前線」と呼ぶには、あまりにも静かな場所だった。
朝靄の中、森の縁に設けられた仮設陣地には、騎士団と魔法師団の混成部隊が集結している。
人数は多くない。
だが、その一人一人の気配が、張り詰めていた。
「……音が、しませんね」
若い騎士の呟きに、隣の古参が低く応じる。
「だからこそ、だ」
森は本来、音に満ちている。
風に揺れる葉、虫の羽音、小動物の足音。
それらが――ない。
椎名は、陣地の端に立ち、森を見ていた。
(静かすぎる)
魔力の感覚はない。
だが、人の気配が消えた戦場と同じ匂いがした。
セリウスが、控えめに声をかける。
「椎名。
魔力の流れは、確かに歪んでいます。
ですが、強引に押し切るほどではない」
「ええ」
椎名は頷いた。
「こちらを“見せている”段階ですね」
ガイウスが、地面に突き立てた剣に手を置く。
「誘い、か」
「はい。
深く踏み込ませて、包むつもりでしょう」
騎士団長の目が細くなる。
「では、踏み込まねばいい」
椎名は、わずかに口角を上げた。
「踏み込みます。
――ただし、相手の想定より“浅く”」
その言葉に、セリウスが理解を示す。
「周縁部を叩く、と」
「ええ。
集められた魔物たちは、統制がなければ烏合の衆です」
ガイウスは短く笑った。
「なるほどな。
じゃあ、派手な一撃はいらん」
「むしろ、静かに」
椎名の声は、淡々としていた。
「魔法師団は、森に“重さ”を落としてください。
空気と地面に、違和感を残す程度で」
セリウスが目を見開く。
「……ああ、分かりました」
詠唱はない。
魔法師たちは、それぞれの感覚で魔力を広げる。
風が、わずかに重くなる。
土が、微妙に沈む。
森そのものが、息苦しさを帯び始めた。
その瞬間だった。
――ざわり。
森の奥で、何かが動いた。
「来ます!」
騎士の声と同時に、影が躍り出る。
牙を剥く狼型の魔物。
枝を砕きながら突進してくる猪型。
本来なら、正面からの力押し。
だが。
「散開。
囲まず、流してください」
椎名の声が、戦場を通る。
騎士たちは即座に反応した。
包囲ではなく、道を作る。
魔物たちは、そちらへ流れ込む。
そこに、椎名が立っていた。
刀が、音もなく抜かれる。
一歩。
踏み込み。
刃が、最小の軌跡を描く。
魔物の首が、落ちた。
血は、ほとんど飛ばない。
動きが止まる前に、次へ。
(……速い)
ガイウスは、内心で息を呑む。
魔力の光は、ない。
強化も、付与も、ない。
ただ、そこに斬るべき線があるかのようだった。
数刻も経たぬうちに、魔物の群れは崩れた。
統制を失い、逃げ散る。
「……終わり、ですか?」
若い騎士が呆然と呟く。
椎名は、刀を納めながら言った。
「いいえ」
視線は、森の奥。
「これは、“確認”です」
セリウスが、眉を寄せる。
「何を、でしょう」
「こちらの反応と、力量」
椎名は、静かに続けた。
「相手は、まだ本気ではありません」
その夜。
陣地から離れた、森のさらに奥。
人影が、一つ。
いや――人の形をした、魔族だった。
「……なるほど」
低く、愉しげな声。
「力を振るわず、場を崩す。
魔力も使わず、流れを読む」
闇の中で、赤い瞳が細められる。
「面白い。
本当に――面白い」
彼は、笑った。
「世界最強の一角、か。
あの男が来る前までの話だが……」
その視線は、確かにアルヴァリアを向いていた。
「さて。
次は、もう一段階、踏み込んでみるか」
森が、再び静まる。
だがその静けさは、
嵐の前のものだった。




