第四部 第十二話――静かな刃は名を持たない
南西街道の朝は、何事もなかったかのように始まった。
行商人の馬車が通り、農村へ向かう人々が歩き、騎士団の巡回が淡々と交代する。
表向き、そこに「戦争の気配」は存在しない。
だが――
地面の下では、確かに何かが蠢いていた。
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アルヴァリア公爵城・地下の会議室。
ここは正式な謁見や評議には使われない。
記録も残らず、壁の外に声が漏れることもない。
ラルト公爵は立ったまま、机に置かれた報告書に目を通していた。
「……三日で、五組か」
低く、部下に向ける声音。
向かいに立つのは騎士団長ガイウス、そして椎名。
「はい。
いずれも公国領内に侵入後、行動不能となって発見されています」
ガイウスの表情は険しい。
「殺されてはいない。
だが、戦力としては完全に無力化されている」
ラルトは椎名に視線を移した。
「お前がやったな」
「はい。
中立侵犯に対する、必要最小限の対応でございます」
声は、いつも通り穏やかだった。
「尋問は?」
「行っておりません。
彼らは“自分たちが何者かを語らぬよう”訓練されています」
椎名は一呼吸置く。
「ですが――
装備、動線、合図の取り方。
いずれも、同一の教範に基づいておりました」
「国家が絡んでいる、か」
「その可能性は高いかと存じます」
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ラルト公爵は、しばらく沈黙した。
この沈黙は、迷いではない。
盤面を再構築している時間だ。
「騎士団は引き続き、表では動かない」
ガイウスが眉をひそめる。
「しかし公爵、これ以上――」
「分かっている」
ラルトは言葉を切った。
「だからこそ、だ。
こちらが“反応していない”ように見せる」
そして椎名を見る。
「椎名。
お前は引き続き、裏を任せる」
「かしこまりました」
「ただし条件がある」
ラルトの声が、わずかに低くなる。
「一線を越えさせろ」
椎名は、即座に理解した。
「……意図的に、でございますか」
「そうだ。
相手に“中立は破れる”と錯覚させる」
それは、非常に危険な賭けだった。
だが――
それをやり切れる者が、ここに一人いる。
椎名は静かに頭を下げた。
「承知いたしました。
越えてはならぬ線を、越えさせた瞬間――
必ず、結果を示しましょう」
⸻
その日の午後。
城の裏庭で、ファルカは木剣を振っていた。
汗をかき、息を切らしながらも、必死に動きをなぞる。
「……っ、こう……?」
剣筋はまだ甘い。
だが、目は真剣だった。
少し離れた場所で、椎名がそれを見ている。
「ファルカ様。
今の踏み込み、悪くはございません」
少年は振り返り、目を輝かせた。
「本当!?」
「はい。
ただし、力を入れ過ぎでございます。
剣は――振るものではなく、運ぶものです」
椎名は近づき、木剣をそっと握らせ直す。
「こうして……
肩ではなく、体全体で」
ファルカは言われた通りに動き、驚いた顔をした。
「軽い……!」
「それでよろしいのです」
しばらくして、ファルカは不意に尋ねた。
「ねえ、椎名さん」
「はい」
「最近……
城、ちょっと変じゃない?」
椎名は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……よく、気づかれましたね」
「悪い人、来てる?」
「ええ。
ただし――公爵様と皆様が、必ず守っておられます」
そして、優しく続ける。
「ファルカ様が心配する必要は、ございません」
少年は頷いたが、完全には納得していない顔だった。
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その夜。
椎名は一人、南西の境界線付近に立っていた。
月明かりの下、森が静かに揺れる。
(……来ましたね)
今までの侵入者とは、気配が違う。
数も、質も。
しかも――
彼らは、堂々と境界を越えてきた。
隠れもしない。
「これは……
“誤認”や“事故”ではございませんね」
椎名は、外套の前を整えた。
「明確な意思をもっての、侵犯――」
剣に手をかける。
「では、公爵様のお言葉通り」
その瞳に、静かな光が宿る。
「――一線を、越えさせて差し上げましょう」
風が止み、森が息を潜めた。
中立の試練は、次の段階へと進む。




