第四部 第十一話――境界に立つ者
夜明け前のアルヴァリア公爵城は、ひどく静かだった。
空はまだ群青色を保ち、城壁の外に広がる街並みも眠りの中にある。
だが、公爵城の一角――執務棟の灯りだけは、すでに点いていた。
椎名は廊下を歩きながら、無意識に背筋を伸ばしていた。
(……空気が、張りつめておりますね)
独り言でさえ、声音は穏やかで丁寧だ。
長年染みついた癖は、緊張の場面ほど揺るがない。
執務室の扉の前で立ち止まり、軽くノックする。
「失礼いたします」
「入れ」
中から返ってきたのは、短く、端的な声。
アルヴァリア公爵――ラルトの声だ。
⸻
執務室に入ると、机の上には地図が広げられていた。
首都ヴァルアスを中心に、周辺の街道、村、国境線が細かく書き込まれている。
ラルト公爵は椅子に座ったまま、椎名を一瞥した。
「椎名。状況は把握しているな」
「はい。
各国使節団の帰還後、首都周辺で不穏な動きが増えております」
椎名は一歩下がった位置で、静かに報告を続ける。
「特に南西街道沿いで、身元不明の集団が散発的に確認されています。
正規軍装ではありませんが、練度は高いようです」
ラルトは、机を指で軽く叩いた。
「傭兵か?」
「表向きは、そう見えるかと存じます。
ただし、装備の質と補給状況から判断すると――
背後に国家がいる可能性は高いかと」
「……だろうな」
公爵の声には、苛立ちよりも冷静な重みがあった。
「連中は“事故”を起こしたい。
中立公国が手を出したように見せかけてな」
椎名は、わずかに視線を落とす。
「まことに、厄介なやり方でございますね」
⸻
ラルト公爵は、椎名をまっすぐ見た。
「お前に任せる」
短い言葉だが、意味は重い。
「騎士団は動かさない。
正規軍を出せば、相手の思う壺だ」
「承知いたしました」
椎名は即答した。
「では、私は――
“公国領内に侵入した不審者の排除”として動きましょう」
「そうだ。
国家名は一切出させるな。
生きて帰したとしても、口は封じる」
それは命令だ。
だが、冷酷さはない。
中立を守るための、最低限の非情だった。
椎名は一礼する。
「かしこまりました。
必要以上の流血は避けます」
ラルトは、ふっと息を吐いた。
「お前は、いつもそれを言うな」
「はい。
私個人の信条でございます」
⸻
城を出た椎名は、南西街道へ向かって歩いていた。
空が白み始め、冷たい朝の風が外套を揺らす。
(相手は、こちらの反応を測っているのでしょうね)
一歩一歩、足音を殺しながら進む。
(中立を破らせるために。
あるいは――中立が“弱い”と証明するために)
そのどちらであっても、答えは同じだ。
「……困った方々でございます」
独り言すら、穏やかだ。
だが、視線は鋭く、意識は研ぎ澄まされている。
街道脇の林に、微かな気配。
一つではない。
複数だ。
椎名は立ち止まり、静かに口を開いた。
「こちらは中立公国領内でございます。
これ以上の侵入は、領法違反となります」
返事はない。
代わりに、風を切る音。
投擲された短槍が、椎名の頬をかすめる。
(……交渉の余地は、ございませんか)
次の瞬間、椎名の姿は消えた。
⸻
林の中で、音はほとんど立たなかった。
剣が振るわれる音も、叫び声もない。
あるのは、短い呼吸音と、倒れる気配だけ。
数分後。
椎名は、何事もなかったかのように街道へ戻ってきた。
外套に、血は付いていない。
「……これで、三組目でございますね」
倒れた者たちは、生きている。
だが、二度と武器を握れない。
椎名は空を見上げた。
朝日が、ようやく地平線から顔を出す。
「中立とは、何もしないことではございません」
誰に聞かせるでもなく、丁寧に言葉を紡ぐ。
「守ると決めたものを、
静かに、確実に守り続けること――」
その足取りは、迷いがなかった。




