第四部 第八話 ――境界に、名なき刃が立つ
国境とは、線ではない。
それは“人の意思が最も曖昧になる場所”だ。
アルヴァリア公爵領の南東。
なだらかな丘陵と低木が連なるその一帯は、地図上ではただの境界線にすぎない。
だが実際には、交易路が交差し、巡回路が入り組み、そして――
**「誰のものでもあるようで、誰の責任でもない」**と錯覚されやすい場所だった。
その朝、霧が出ていた。
視界は悪く、音は吸われ、足音すら曖昧になる。
そんな条件の中で――事件は起きた。
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「……馬が倒れています」
斥候の声は低く、慎重だった。
騎士団の小隊が足を止める。
隊長である副官は、すぐに合図を出した。
「距離を取れ。
……匂いは?」
「血です。
まだ新しい」
倒れていたのは、交易用の馬だった。
鞍は外され、荷は荒らされている。
だが、不自然だった。
「略奪にしては……」
「ええ。
金品が残っています」
盗賊なら、まず奪うはずのものが、手つかずで残っていた。
「これは――」
副官は、唇を引き結ぶ。
「事故ではない。
“見せるため”だ」
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同時刻。
公爵邸では、緊急の報告が届いていた。
「国境付近で武装集団との接触がありました」
報告役の騎士は、緊張を隠せていない。
「相手は?」
「所属不明。
装備は統一されておらず、旗も印もありません」
ラルト公爵は、即座に理解した。
「代理だな」
「はい」
そして――視線が、椎名に向けられる。
「椎名」
「承知しております」
椎名は深く一礼した。
「これは、“誤認”を装った侵犯。
こちらが引けば、次は踏み込んできます」
「行くか」
「はい。
ただし――」
椎名は言葉を選んだ。
「国家としてではなく。
公爵領の“治安維持”として」
ラルト公爵は、静かに頷いた。
「望むところだ」
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国境付近。
霧はまだ晴れていなかった。
椎名は、騎士団の先頭には立たない。
だが、その存在感は、誰よりも前にあった。
「敵は、こちらを測っています」
椎名の声は、騎士団内の簡易通信で伝えられる。
「攻めてくる気はありません。
“こちらがどう反応するか”を見たいだけです」
「なら――」
副官が言いかけた。
「撃退しますか?」
「いいえ」
椎名は即答した。
「排除します」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
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霧の向こうで、動きがあった。
数は二十前後。
装備はまちまちだが、動きは揃っている。
(傭兵……いや、正規訓練を受けている)
椎名は、相手の歩幅、間合い、重心移動を見るだけで判断していた。
「止まれ」
騎士団の声が響く。
「ここは中立公国、アルヴァリア公爵領だ。
これ以上の進入は――」
その言葉を遮るように、風が走った。
空気が歪む。
霧が、一瞬だけ切り裂かれた。
(魔力操作――風属性)
だが、粗い。
「……試しているだけです」
椎名は、一歩前に出た。
騎士たちの間を抜け、霧の中へ。
「中立公国は、宣戦布告をしておりません」
静かな声だった。
「しかし、侵入は敵対行為です」
霧の向こうから、嘲るような声。
「誤認だ。
こちらは盗賊討伐の途中で――」
「その割に、隊形が整いすぎております」
一瞬の沈黙。
その瞬間――来た。
魔力が、地面を這う。
土が持ち上がり、礫となって飛ぶ。
「散開!」
騎士団が動く。
だが――
礫は、椎名に届く前に、すべて落ちた。
剣が、いつの間にか抜かれていた。
速すぎて、誰も見ていない。
「――ここから先は」
椎名の足元で、地面が静かに割れていた。
「通しません」
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戦闘は、短く――だが圧倒的だった。
騎士団は連携し、魔法師団が後方から支援する。
火は面制圧、水は動きを止め、風は視界を奪う。
だが、決定的だったのは――椎名だった。
魔法を使わない。
ただ、踏み込み、斬る。
相手の魔法は、椎名に届かない。
届く前に、距離が消える。
「――っ!」
敵が倒れる。
死なない。
だが、二度と立てない。
骨を断ち、腱を斬り、意識を刈る。
「撤退だ!」
遅すぎた。
逃げ道は、既に騎士団が塞いでいる。
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戦闘が終わった時。
霧は、嘘のように晴れていた。
地面には、武装した者たちが伏している。
誰も死んでいない。
「記録を取れ」
副官が指示を出す。
「装備、身元、魔力反応――すべて」
椎名は、倒れた一人の傭兵の前に立った。
「貴方方は、国家を背負ってはいない」
傭兵は、苦しげに笑う。
「……そう言われてるだけだ」
「ええ。
ですが」
椎名の視線は、冷たい。
「ここは、背負わなくても許される場所ではありません」
傭兵は、何も言わなかった。
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その夜。
各国に、情報が流れた。
「中立公国、国境侵犯を排除」
「所属不明の武装集団を拘束」
「国家名なし。
しかし、圧倒的」
誰も、名前を出さない。
だが――
誰もが理解した。
中立公国は、牙を隠していただけだと。
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公爵邸。
「これで、次はどう出る」
ラルト公爵が言う。
「慎重になります」
椎名は答えた。
「一度噛まれた相手は、
“どこまで噛めるか”を学び直しますから」
「戦争は――」
「まだです」
椎名は、窓の外を見る。
「ですが、均衡は崩れ始めました」
中立とは、何もしないことではない。
それを、世界が――理解し始めていた。




