第四部 第七話 ――沈黙に、火を点ける者
首都ヴァルアスの朝は、以前より騒がしくなっていた。
露店の呼び声は減り、代わりに小声の囁きが増えた。
市場の一角では、人々が集まっては散り、散ってはまた集まる。
「……聞いたか?」
「中立公国が、裏でアルスト王国に協力しているらしい」
「いや、違う。カンフリークト帝国だって話だ」
「どっちにしても――中立なんて、もう嘘だろ」
言葉は軽く、だが毒は深い。
噂は、形を変えながら街を巡っていた。
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アルヴァリア公爵邸。
執務室では、静かな会議が行われていた。
「流言の出所は?」
ラルト公爵の問いに、重臣の一人が答える。
「複数です。
酒場、商人宿、難民居住区……
共通しているのは、“特定の主張に誘導している”点かと」
「中立公国は既にどこかに肩入れしている、か」
「はい。
証拠はありませんが、“信じさせるには十分な量”が流れています」
椎名は、机上の書類を一枚、そっと指でなぞった。
そこには、最近急増した難民への支援記録がある。
(支援が多い場所ほど、噂が濃い)
「――意図的ですね」
椎名の声は低い。
「不満と不安が溜まりやすい場所を選び、
“中立への不信”を育てております」
「放置すれば?」
「内乱の芽になります」
即答だった。
「暴動に至らずとも、治安は確実に悪化します。
そして――」
椎名は視線を上げる。
「“中立は維持できない”という空気が出来上がる」
ラルト公爵は短く息を吐いた。
「政治戦争、というやつだな」
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その日の午後。
椎名は、騎士団の制服ではなく、地味な外套を纏い、街に出ていた。
同行者はいない。
彼が向かったのは、難民居住区の一角。
支援物資の集積所だった。
「……椎名様?」
気づいたのは、若い支援担当の女性だった。
「ここでは、その呼び方はお控えください」
椎名は穏やかに微笑む。
「少し、お話を」
倉庫の陰。
人目の少ない場所で、椎名は静かに尋ねた。
「最近、特定の話を広めている方はいらっしゃいますか」
女性は一瞬、言葉に詰まる。
「……います。
“外から来た人”です。
難民の代表のように振る舞って……」
「どんな話を?」
「中立公国は、戦争が始まれば切り捨てる、と。
今の支援も、他国への体裁だって……」
椎名は頷いた。
(典型的です)
不安を煽り、
“裏切られる前に動け”と誘導する。
「その方は、どこに?」
「今日の夜、集会をすると……」
「ありがとうございます」
椎名は深く一礼し、その場を去った。
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夜。
難民居住区の広場。
簡易な灯りの下、人が集まっていた。
中央に立つ男は、声を張り上げる。
「我々は、捨てられるのです!」
「中立公国は、戦争になれば我々を盾にする!」
「今こそ、声を上げるべきだ!」
ざわめき。
怒りと恐怖が、混ざり合う。
その時。
「――少し、よろしいでしょうか」
静かな声が、広場に響いた。
男が振り返る。
「誰だ!」
「通りすがりの者です」
椎名は、群衆の中から一歩前に出た。
「一つ、伺いたい」
「何だ!」
「貴方は、いつから難民なのですか」
男の表情が、一瞬、固まる。
「……何を言っている」
「服の縫製、靴底の加工。
この居住区で手に入る物ではありません」
ざわめきが変わる。
「それに――」
椎名は、男の足元を見た。
「歩き方が、軍人のものです」
沈黙。
男が一歩下がる。
「貴様――」
その瞬間、椎名は一歩、踏み込んだ。
だが、剣は抜かない。
男の耳元で、囁く。
「ここは中立公国です。
戦場ではありません」
男の顔色が変わる。
「国家名を出さずに、火を点ける。
随分と、卑劣な戦い方ですね」
男は、逃げようとした。
次の瞬間。
地面に伏せていた。
いつ倒されたのか、誰も分からなかった。
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翌日。
首都に広まったのは、こういう話だった。
「扇動者が捕まったらしい」
「難民を利用してた偽者だって」
「中立公国は、ちゃんと守ってる」
誰が捕まえたのか。
どこに消えたのか。
誰も知らない。
だが、噂は、噂で塗り替えられた。
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公爵邸。
「見事だな」
ラルト公爵が言う。
「剣を抜かず、血も流さず」
「仕事でございます」
椎名は一礼した。
「ですが――」
視線を窓の外へ。
「次は、もう少し露骨になるでしょう」
「武力か」
「はい。
“事故”や“誤認”を装った形で」
中立は、試され続ける。
だが。
「その時は」
椎名の声は、静かだった。
「――掃除を、少しだけ丁寧に致します」




