第四部 第六話 ――中立に、刃が触れる
夜明け前の空気は、冷えていた。
公爵領南端に位置する街道沿いの小さな宿場町。
朝靄が低く流れ、石畳を踏む足音さえ吸い込んでしまいそうな静けさの中、異変は起きた。
――爆ぜるような衝撃音。
続いて、悲鳴。
倉庫街の一角から、炎が立ち上った。
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「状況を」
椎名は現場に到着するなり、騎士団の報告を受けていた。
黒煙が空に溶け、焦げた木材の匂いが鼻を刺す。
「倉庫一棟が全焼。
幸い死者は出ていませんが、負傷者が数名。
内部には交易用の魔道具部品が保管されていました」
「原因は?」
「……不明です。
魔力反応は残っていますが、特定の属性に偏りがありません」
椎名は焼け落ちた梁に近づき、静かに屈む。
崩れた木片の断面。
溶けた金属。
地面に残る、歪な魔力の痕。
(これは……戦闘用魔法ではない)
威力は抑えられている。
だが、確実に燃え広がるよう調整されている。
「事故ではありませんね」
「はい……」
騎士の声が沈む。
椎名は立ち上がり、周囲を見渡した。
町人たちが不安げな目で集まり、ひそひそと声を潜めている。
――中立公国は安全だ。
――アルヴァリアは守られている。
そう信じていた日常に、
小さな刃が、確かに触れた。
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同時刻。
公爵邸では、ラルト公爵と重臣たちが集められていた。
「街道沿い、交易倉庫の火災……」
「偶然にしては、場所が良すぎますな」
「ええ。
しかも、被害を受けたのは“特定の国と繋がる商人”です」
空気が重くなる。
「つまり――」
「ええ。“警告”でしょう」
そこへ、椎名が戻ってくる。
「人的被害は最小限に抑えられております」
「……だが、意味は重いな」
ラルト公爵は深く息を吐いた。
「中立でいるなら、守れるのか、と」
椎名は静かに頷いた。
「相手は答えを求めていません。
反応を見ております」
「騎士団を動かすべきか?」
「いいえ」
椎名は、きっぱりと言った。
「ここで過剰に動けば、“脅せば動く”と示すことになります」
「では、どうする?」
「――何もしない、ように見せて、備えます」
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その夜。
椎名は、町外れの高台に立っていた。
遠く、街の灯りが揺れている。
平和な光だ。
だが、闇の中で、確かに視線を感じる。
(潜伏……複数)
魔力の気配は薄い。
だが、消し方が雑だ。
“隠れているつもり”の者たち。
椎名は剣に手を掛けない。
ただ、一歩、踏み出した。
次の瞬間――
風が、歪んだ。
魔力による圧縮ではない。
純粋な踏み込みによる、空気の断裂。
闇の中で、何かが息を呑む気配。
「……こちらは中立公国アルヴァリアでございます」
椎名の声は低く、静かだった。
「敵意ある行動は、望みません。
ですが――」
一歩、さらに前へ。
「これ以上の試しは、不要かと存じます」
沈黙。
やがて、気配が一つ、また一つと消えていく。
椎名は追わない。
(今日は、これで十分です)
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翌朝。
使節団が帰還した国家から、公式文書が届いた。
内容は簡潔だった。
「昨夜の火災は、我が国とは一切関係がない」
「中立公国の安定を尊重する」
言葉は丁寧。
だが、その裏にある意味は明白だ。
――まだ、本気ではない。
ラルト公爵は文書を畳み、椎名を見る。
「始まったな」
「はい」
椎名は静かに答えた。
「ですが、まだ“戦争”ではありません」
「では、何だ?」
「――値踏みです」
中立公国が、
どこまで沈黙に耐えられるのか。
どこまで、力を見せずに立っていられるのか。
その試しは、
これから、さらに苛烈になる。
夜明けの光が差し込む執務室で、
椎名は深く一礼した。
「お任せくださいませ。
この均衡――崩させはいたしません」




