第四部 第五話 ――沈黙に値を付ける者
朝の光は穏やかだった。
雲一つない青空が、公爵邸の白い壁を柔らかく照らしている。
だが、その穏やかさとは裏腹に、邸内には昨日よりも濃い緊張が漂っていた。
理由は明確だ。
本日、使節団との正式会談が行われる。
椎名は会談室の準備を確認し終え、扉の前で一度だけ深く息を整えた。
装飾は最小限。
過度な威圧も、迎合も感じさせない配置。
椅子の高さ、距離、視線の角度――すべてが計算されている。
(中立とは、立場ではなく“姿勢”です)
椎名はそう考えていた。
相手が求めているのは、答えではない。
反応だ。
中立公国が、どこまで揺さぶれば動くのか。
どこまで圧をかければ、均衡を崩すのか。
⸻
定刻。
扉が静かに開かれ、使節団が入室した。
先頭に立つのは、外交官らしい柔和な笑みを浮かべた中年の男。
言葉遣いも所作も洗練されている。
だが、その背後――椎名が昨夜から意識していた年配の男が、黙って立っていた。
目立たぬ位置。
だが、空間全体を測る視線。
(やはり、こちらが本命ですね)
ラルト公爵が席につき、会談が始まる。
「遠路はるばる、我が領へようこそ。
中立公国アルヴァリアは、貴国との友好を大切にしております」
形式的で、しかし隙のない挨拶。
外交官は満足そうに頷いた。
「こちらこそ、公爵閣下。
近年、この周辺で不穏な動きが見られるため、安全確認のために参りました」
“安全確認”。
便利な言葉だ。
会話は、交易路、治安、魔物の発生状況へと進んでいく。
一つ一つは無害。
だが、その順序と間に、意図が見え隠れする。
「最近、南方の森で大規模な戦闘があったと聞き及びまして」
外交官の声が、わずかに軽くなる。
「中立公国が、武力を行使するほどの事態だったのかと」
室内の空気が、ほんの一瞬、張り詰めた。
ラルト公爵が答える前に、椎名が一歩前に出て、静かに口を開いた。
「魔物の異常発生への対応でございます。
住民保護が最優先であり、国家間の問題ではございません」
丁寧で、しかし余計な説明はしない。
外交官は笑みを崩さない。
「なるほど。
ですが――貴国の戦力は、近年著しく向上しているとも聞いております」
その言葉と同時に、背後の年配の男が、初めて椎名を正面から見た。
視線が、ぶつかる。
(……試されている)
椎名は、視線を逸らさない。
だが、威圧もしない。
「守るための力でございます」
短く、端的に。
「我々は攻めません。
しかし、侵されることも選びません」
沈黙が落ちた。
この沈黙こそが、交渉の核心だった。
⸻
会談の後半。
使節団は、遠回しに“協調”を持ちかけてきた。
共同警備。
情報共有。
名目はすべて善意。
だが、そのどれもが――
「中立」を少しずつ削る提案だった。
ラルト公爵は、すべてに曖昧な笑みで応じた。
「検討いたしましょう」
それ以上も、それ以下も言わない。
会談が終わり、使節団が退出する直前。
例の年配の男が、初めて口を開いた。
「……この国は、不思議だ」
低く、しかしよく通る声。
「力を見せず、隠しもしない。
だが、踏み込ませもしない」
彼の視線が、再び椎名を捉える。
「あなたが、その均衡か」
問いではない。
確認だ。
椎名は一礼する。
「私はただの執事でございます」
男は、わずかに笑った。
「執事が国の重さを背負うとは――
いや、だからこそか」
その言葉を残し、使節団は去っていった。
⸻
夜。
公爵邸の回廊で、ラルト公爵が椎名に声をかける。
「どう見る?」
「向こうは、まだ迷っています」
椎名は即答した。
「中立公国を敵に回すか、利用するか。
その天秤が、まだ定まっていない」
「だが、いずれ――」
「はい」
椎名は静かに頷く。
「均衡は、必ず揺さぶられます。
次は言葉ではなく、行動で」
月明かりが庭を照らす。
美しい夜だった。
だがその光は、これから訪れる影を、確かに浮かび上がらせていた。




