第四部 第四話 ――均衡を測る者たち
朝霧がまだ街路を離れきらぬ刻、アルヴァリア公爵邸には、いつもより静かな緊張が満ちていた。
人の動きは普段と変わらない。使用人は廊下を歩き、騎士は持ち場に立つ。
だが、その一歩一歩の裏に、言葉にされない警戒が沈んでいる。
椎名は執務棟の窓辺に立ち、首都ヴァルアスの方角を見ていた。
遠く、霞の向こうに見える街並みは、今日も変わらず華やかであるはずだ。
だが、その裏で流れ始めたものを、彼は確かに感じ取っていた。
「……風向きが変わりつつありますね」
小さく漏らした言葉に、背後で控えていた老執事マルコが頷く。
「ええ。表向きは静かですが……各国の視線が、はっきりとこちらを向いております」
第三話で排除された“名を持たぬ刃”の一件は、公式記録には盗賊同士の抗争として処理された。
しかし、それをそのまま信じるほど、周辺諸国は愚かではない。
――中立公国は、何かを隠している。
――あるいは、誰かが裏で動いている。
その疑念こそが、今、公国を取り巻く最大の圧力だった。
⸻
その日の正午、公爵家の会議室には主要な面々が集められていた。
ラルト・アルヴァリア公爵を中心に、騎士団長ガイウス、魔法師団長セリウス、そして椎名。
「北東より、使節団が到着する」
公爵の低い声が、室内に響く。
「名目は交易路の安全確認と、友好関係の再確認。……だが、本音は別にあるだろう」
誰も否定しなかった。
沈黙が、それを肯定している。
ガイウスが腕を組み、重々しく言う。
「こちらの対応次第では、弱腰と取られる可能性もありますな」
「かといって、威圧すれば中立が揺らぐ」
セリウスが淡々と続ける。
視線が、自然と椎名に集まった。
彼は一礼し、穏やかに口を開く。
「中立とは、何もしないことではございません。
相手に“選択肢がない”と理解させることです」
公爵が、わずかに眉を動かす。
「続けよ」
「こちらは、友好的に迎えます。礼節を尽くし、力も見せません。
ただし……隙も見せない」
椎名の声音は静かだったが、そこに迷いはなかった。
「中立公国は、攻めないが、測られることも拒む。
その姿勢を、会談の空気そのもので伝えるのです」
誰かが深く息を吐いた。
それは緊張か、あるいは納得か。
「……影で動くのは?」
公爵の問いに、椎名は小さく首を振る。
「今回は不要かと。
使節団の中に、“見る者”がいるはずです。
剣ではなく、言葉と沈黙を使う者が」
その一言で、会議の空気が一段引き締まった。
⸻
使節団が公爵領に入ったのは、夕刻前だった。
整えられた装束、過不足のない護衛、礼節を知る歩き方。
だが、椎名は一人だけ、違和感を覚えていた。
列の後方。
護衛でも文官でもない、年配の男。
視線が鋭すぎる。
周囲を観察する癖が、戦場のそれに近い。
(……この方は、測りに来ていますね)
椎名とその男の視線が、一瞬だけ交差した。
言葉は交わさない。
だが、互いに理解した。
――相手もまた、剣を抜かぬ戦を知っている。
その夜、椎名のもとに一通の文が届けられた。
差出人は不明。封も簡素。
短い一文だけが、そこに記されていた。
「中立を守る刃は、
いつまで鞘に収まっていられるか」
椎名は文を静かに畳み、懐にしまう。
「……いよいよ、ですね」
誰にともなく呟いた声は、夜の静寂に溶けて消えた。
中立は、まだ保たれている。
だがそれは、均衡の上に辛うじて立つ、極めて脆い静けさだった。




