第四部 第三話 ――名を持たぬ刃
北部国境に近い町、リーヴェンは、表向きは穏やかな交易町だった。
石畳の通りには商人の呼び声が響き、酒場からは夜ごと笑い声が漏れる。
だが、ここ数日、その空気は確実に変わっていた。
人々は声を潜め、夜の外出を避ける。
門番の視線は鋭く、巡回の回数は増えた。
誰もが口にしないが、皆が同じものを感じている。
――何かが、近づいている。
町外れの古い倉庫街。
月明かりすら遮るほどに雲が垂れ込める夜、椎名は静かに歩いていた。
外套の下には、派手さのない革鎧。
剣も一本だけ。
紋章も、所属を示すものも、一切ない。
「……集まったようですね」
低く抑えた声でそう告げると、闇の中から人影が一つ、また一つと現れた。
冒険者。
元傭兵。
密猟者上がりの弓使い。
そして、身分を捨てた元騎士。
共通点はただ一つ――
今は、どの国にも属していないこと。
「椎名様」
一人が頭を下げる。
「本当に“盗賊退治”だけでよろしいのですか?」
椎名は頷いた。
「ええ。
それ以上でも以下でもありません」
言葉は丁寧だが、そこに余分な説明はない。
「相手は?」
別の男が問う。
「盗賊団です」
椎名は淡々と答える。
「装備が良く、統率が取れている、少々厄介な盗賊団」
誰も笑わなかった。
その言葉の裏を、全員が理解している。
「国境線を越えることはありません」
「正規兵を攻撃した事実も、残しません」
「生き残りが逃げた場合も、追撃は不要です」
「……随分と制約が多い」
弓使いが呟く。
「はい」
椎名は静かに答えた。
「だからこそ、意味があります」
作戦は単純だった。
北部街道沿いの峡谷――最近、盗賊団が姿を見せている場所。
補給部隊を狙うには最適で、退路も確保しやすい。
「迎撃ではありません」
椎名は地図を広げながら言う。
「“偶然、遭遇した”形を取ります」
「偶然にしては、用意が良すぎるな」
「ええ」
椎名は僅かに口元を緩めた。
「ですが、戦場ではよくある話です」
翌夜。
峡谷には冷たい風が吹き抜けていた。
岩陰に潜む盗賊団は、静かに獲物を待っている。
革鎧に統一された装備、手入れの行き届いた武器。
明らかに、寄せ集めではない。
「来たぞ」
先頭が囁く。
街道を進むのは、少人数の荷馬車。
護衛は少なく、緊張感も薄い。
――完璧な餌。
だが、動いたのは盗賊だけではなかった。
「今です」
椎名の合図と同時に、闇が裂ける。
矢が飛び、前列の二人が倒れる。
直後、左右から剣士たちが雪崩れ込んだ。
「敵襲だ!?」
「伏兵だ!」
盗賊団はすぐに立て直そうとする。
統率は取れている。
やはり、素人ではない。
だが、椎名は一歩も引かない。
剣を抜く動作は静かで、無駄がない。
一閃。
相手の剣を弾き、次の瞬間には喉元に刃が届いている。
「――っ!」
倒れた男は、声も出せずに崩れ落ちた。
魔法が飛ぶ。
火球ではない。
視界を歪ませ、音を狂わせる、補助系の術。
「幻惑か!」
盗賊団の動きが乱れる。
「深追いは不要!」
椎名の声が響く。
「目的は殲滅ではありません!」
数分後。
峡谷には、倒れた者と、散乱した武器だけが残った。
生き残った盗賊たちは、統率を失い、闇へと逃げ去っていく。
椎名は剣を納め、静かに息を吐いた。
「これで十分です」
「……追わなくていいのか?」
元騎士が問う。
「ええ」
「彼らは、報告します。
“この辺りは危険だ”と」
それだけでいい。
翌朝。
町には「盗賊同士の抗争があったらしい」という噂が広がった。
正規軍の名は出ない。
中立公国の名も出ない。
だが――
北方人族国家の補給線は、確実に一つ、沈黙した。
王城の執務室で、ラルトは報告書を読み終え、静かに目を閉じた。
「見事だな……」
「ありがとうございます、公爵様」
椎名は深く一礼する。
「だが、これで終わりではないだろう」
「はい」
椎名は顔を上げ、穏やかに答えた。
「相手は、次はもっと巧妙に動いてきます」
中立とは、動かぬことではない。
見えない場所で、均衡を支え続けることだ。
そのための刃は、名を持たず、
歴史にも刻まれない。
だが確かに、
今夜もまた――
中立公国を守っていた。




