第四部 第一話 ――中立に、風が立つ
首都ヴァルアスの朝は、いつもより騒がしかった。
通りを行き交う人の足取りが妙に速く、声は低く、視線は自然と周囲を探るように動いている。商人たちは店先に立ちながらも落ち着かず、冒険者たちは酒場ではなく掲示板の前に集まっていた。
――戦争の匂いがする。
それは、剣戟の音や血の臭いではない。
もっと静かで、もっと厄介な、人の意図が絡み合う気配だった。
アルヴァリア公爵家の馬車が王都の通りを進む中、椎名は窓の外を眺めながら、わずかに目を細めた。
「……空気が、重うございますね」
独り言のように零れたその声は、柔らかいが芯を含んでいた。
対面に座るラルト・アルヴァリア公爵は、苦笑に近い表情で頷く。
「隠す気もなくなってきた、というところだろう。
東も北も、こちらを“置いておく存在”とは思っていない」
中立公国。
戦争をしない国。
だがそれは、“戦争に価値がない国”という意味ではない。
むしろ逆だ。
資源、地理、軍練度、統治。
どれを取っても、戦時国家から見れば喉から手が出るほど欲しい。
「最近、国境付近で“偶発的な衝突”が増えております」
椎名は淡々と告げた。
「正規軍ではない。
しかし統率が取れすぎている――そのような者たちが」
「傭兵、盗賊、反乱分子……名目はいくらでも作れるな」
ラルトは深く息を吐いた。
「こちらが反撃すれば、“中立が破られた”と喧伝される」
だからこそ、難しい。
何もしなければ侵食され、
動けば“理由”にされる。
「……椎名」
ラルトは、はっきりと彼の名を呼んだ。
「この国は、戦争を始めるつもりはない」
「承知しております、公爵様」
「だが、利用されるつもりもない」
その言葉に、椎名は静かに頷いた。
「でしたら――」
彼は一拍置き、丁寧に言葉を選ぶ。
「“戦争にならぬ形での排除”が必要かと存じます」
ラルトは目を細め、微かに笑った。
「やはり、そう来るか」
それは剣の話ではない。
軍を動かす話でもない。
誰が、どこで、何を企んでいるのか。
どこまでが“国家の意思”で、どこからが“個人の欲”か。
――それを切り分け、不要な部分だけを削ぐ。
「表では、あくまで中立を守る」
椎名は続けた。
「裏で中立を壊そうとする者だけを、静かに片付ける」
「君にしか言えない提案だな」
馬車が止まり、御者の声が外から届く。
王城の門前だ。
降りる前、ラルトは低い声で付け加えた。
「椎名。
これは戦争ではない。
――だが、覚悟は要る」
「はい」
椎名は一礼し、穏やかに答えた。
「覚悟は、既に」
彼の胸中に浮かんだのは、南方の森で見た魔族との戦いでも、血に染まった戦場でもなかった。
もっと静かで、もっと人間的なもの――
欲望と恐怖と保身が絡み合う、“人の戦”。
中立公国は、まだ剣を抜いていない。
だがその周囲では、
すでに無数の手が、
その鞘に触れ始めていた。




