第三部 第九話――静謐の裏で、世界は軋む
南方の森に、朝霧が立ち込めていた。
昨日まで死地だった場所とは思えぬほど、静かで、穏やかで、鳥の声すら控えめに響いている。
だが、その静謐は決して安らぎではなかった。
騎士団の臨時野営地では、負傷者の最終確認と装備の点検が行われている。
折れた剣、砕けた盾、魔力を使い果たした魔石。
それらは、森で起きた戦いの激しさを雄弁に物語っていた。
「……被害報告、以上です」
ガイウスが低く告げる。
声は落ち着いているが、疲労は隠しきれていない。
「死者なし。重傷者も回復魔法で峠は越えました。ただ――」
彼は一瞬、言葉を選んだ。
「魔族側は、本気で“探り”に来ていました。次は、様子見では済まないでしょう」
ラルト公爵は静かに頷いた。
「やはり、森は前線になるか」
「はい。今後は常時、戦場と見てよいかと」
その場に、重い沈黙が落ちる。
椎名は一歩下がった位置で、会話を聞いていた。
執事として、出過ぎることはない。
だが――この戦いが持つ意味を、誰よりも理解していた。
(撤退が早すぎる)
魔族は、負けを悟ると迷いなく引いた。
無駄な損耗を一切出さず、目的だけを果たして去っていった。
(……これは戦争だ。感情ではなく、計算で動いている)
「椎名」
ラルト公爵が名を呼ぶ。
「今回の戦、どう見られる?」
椎名は一礼し、穏やかに答えた。
「はい。森の戦闘自体は、我々の勝利でございます。ただ――」
一拍置き、言葉を慎重に選ぶ。
「世界に対しては、“中立公国が魔族の攻勢を正面から退けた”という事実が広まります」
「それは、良いことではないのか?」
「必ずしも、とは申せません」
ラルト公爵の眉が、わずかに動く。
「周辺諸国は、安心よりも先に警戒を抱くでしょう。
――強すぎる中立は、もはや中立ではない、と」
沈黙。
「アルスト王国は、軍事的価値を再評価するでしょう。
カンフリークト帝国は、資源として狙う。
ルカ聖王国は……理由をつけて非難するかと」
「魔族国家インテグは?」
「静観。ですが内部の過激派は、必ず動きます」
ラルト公爵は、深く息を吐いた。
「……なるほど。勝ってなお、厄介か」
「はい。戦場での勝利は、政治では常に“新たな火種”となります」
そのとき。
野営地の端で、ファルカが立ち尽くしていた。
戦闘が終わっても、剣を手放せずにいる。
「……ファルカ様」
椎名が声をかけると、少年ははっと顔を上げた。
「椎名さん……あの……」
言葉が続かない。
昨夜見た光景が、まだ脳裏に焼き付いているのだ。
人が吹き飛び、地面が裂け、魔族が――あっさりと斬られる。
「怖かったですか?」
「……はい。でも」
拳を握りしめる。
「それ以上に……何もできなかった自分が、嫌でした」
椎名は、少年の目をまっすぐ見た。
「それは、当然の感情でございます」
「……え?」
「戦場とは、“自分の無力さ”を嫌というほど突きつけられる場所です。
それを感じられたのなら、ファルカ様は、既に一歩踏み出しています」
少年の目に、微かな光が戻る。
「では――」
「ええ」
椎名は微笑んだ。
「生き延びた以上、学ぶ義務があります。
次に備えるために」
その頃。
南方より、黒い使者が走っていた。
魔族国家インベイ。
王城深部。
「報告します」
玉座の前に跪く影。
「南方の森、前哨戦は失敗。爵位持ち一名、喪失」
沈黙。
やがて、低い笑い声が響いた。
「――なるほど。ついに現れたか」
指先が、玉座の肘掛けを叩く。
「魔力を持たぬ異物。
……面白い」
その声は、愉悦に満ちていた。
「次は、“本気”で行こう」
世界は、静かに、確実に、次の段階へ進み始めていた。




