第三部 第五話 ――境界を踏み越える力
南方の森は、もはや“森”ではなかった。
踏み固められた地面はところどころ黒く変色し、草木は魔力に焼かれたように萎れている。空気には、焦げた匂いと湿った土の匂いが混じり、呼吸のたびに喉の奥がひりついた。
「……結界、三層目が薄れています」
魔法師団の一人が、低く報告した。
魔力を編み込み、空間の流れを歪めることで作られた防衛線。それが、じわじわと削られている。壊されてはいない。だが、“押されている”。
「向こうは、力を測るのをやめたようですね」
椎名は、結界の縁に立ち、森の奥を見つめていた。
前回の交戦から、半日。
魔族は退いたが、完全には引いていない。圧力だけを残し、こちらの対応速度、回復力、判断の癖を探っている。
「……来ます」
椎名の声が落ちた瞬間。
結界の外、地面が不自然に盛り上がった。
土が、内側から持ち上げられる。まるで、地中で巨大な何かが身をよじっているかのように。
「地下からです!」
「後列、注意!」
次の瞬間。
地面が裂けた。
土塊と共に飛び出してきたのは、甲殻に覆われた魔物だった。巨大な節足。表面には、魔力が硬化した層が重なっている。
「……硬いぞ!」
前列の騎士が剣を振るう。
刃は当たる。だが、弾かれる。衝撃が腕に返り、痺れが走る。
「一点集中! 関節部を狙え!」
ガイウスの怒号。
魔法師団が動いた。
一人が、掌を前に突き出す。
空気が、急激に冷える。湿度が凝縮され、白い霧が一瞬で形を持つ。
霧は、細かな粒となり、魔物の脚にまとわりついた。
次の瞬間――
霧が、硬化する。
氷ではない。
水分が、極限まで締め上げられ、結晶化する寸前の状態で固定される。動こうとすれば、内部から崩れる。
「今です!」
騎士が踏み込み、関節へ剣を叩き込む。
今度は、通った。
甲殻が割れ、内部から黒い体液が噴き出す。
だが――
「上から来る!」
叫びと同時に、影が落ちる。
樹上から、別の魔物が跳んだ。
風を纏い、空中で体勢を変える。魔力で軽くなった身体が、落下速度を殺し、狙いを定める。
「散開!」
椎名の声。
騎士たちが、半歩ずつずれる。その“半歩”が、生死を分けた。
魔物の爪が、地面を抉る。
だが、そこに人はいない。
「風の流れ、見えておりますね……」
椎名は、魔物の動きを観察していた。
風を纏う魔法は、速さを与える代わりに、軌道が読める。流れがある以上、完全な不規則は存在しない。
「……来ます」
魔物が、再び跳ぶ。
その瞬間。
椎名が、初めて前へ出た。
剣は抜かない。
ただ、地面を踏みしめる。
踏み込みの衝撃が、地を伝う。
微細な振動が、魔物の足元へ走る。
魔物の着地が、わずかにズレた。
――それだけ。
だが、その“わずか”で十分だった。
騎士の剣が、喉元を貫く。
魔物が倒れる。
その時。
森の奥が、暗くなった。
光が消えたわけではない。
光が、吸われている。
「……魔族です」
魔法師団長セリウスが、歯を食いしばる。
「複数……三。いや、四」
魔力の密度が、明らかに違う。
空間そのものが、重くなる。
姿を現したのは、四体の魔族だった。
装備は統一されていない。だが、全員が爵位持ち。魔力の扱いが洗練されている。
一体が、前に出る。
「人族。ここからは、“実験”だ」
腕を振る。
空気が、圧縮される。
見えない塊が、一直線に放たれた。
「防御!」
魔法師団が、即座に対応する。
複数の魔法師が、同時に魔力を流す。
空気の層をずらし、衝撃を“逃がす”。
衝撃は、結界に当たり、拡散する。
だが、完全には防げない。
「……削られています!」
「構わん、持たせろ!」
次の瞬間、別の魔族が地面に手をつく。
地中の魔力が引き上げられ、土が隆起する。
無数の棘が、下から突き出す。
「跳べ!」
椎名の声。
騎士たちが、魔力で身体を強化し、地を蹴る。
全員が跳べたわけではない。だが、致命は避けた。
椎名は、その中心で――
動かなかった。
棘が、足元まで迫る。
だが。
椎名が、剣の柄に手をかける。
――抜かない。
ただ、そこに“在る”。
魔族の魔法が、椎名の足元で止まった。
理由は、誰にも分からない。
だが、空間が“拒んだ”。
「……退きます」
突然、魔族が言った。
「今日は、十分だ」
四体は、同時に後退する。
魔物たちも、それに従い、森へ消えていく。
静寂。
誰も、すぐには声を出せなかった。
セリウスが、椎名を見る。
「……今のは」
「魔力の“使い過ぎ”でございます」
椎名は、静かに言った。
「向こうは、こちらを削るつもりでしたが……自分たちの“手の内”も、見せ過ぎました」
ガイウスが、深く息を吐く。
「つまり……」
「次は、本気です」
その言葉に、誰も否定しなかった。
後方で。
ファルカは、地面に膝をついていた。
怖かった。
だが、それ以上に――
戦場が、“理屈”で動いていることを、初めて知った。
剣を振るだけが、戦いではない。
魔法を放つだけが、力ではない。
それを教える背中が、ここにあった。
南方の森は、完全に目を覚ました。
そして――
本当の戦争は、もう目前だった。




