第三部 第四話 ――牙を持つ者
森は、怒っていた。
そう錯覚するほどに、空気が荒れていた。
木々の葉は揺れていないのに、足元の土が微かに震える。魔力の流れが乱れ、一定の拍動を刻んでいる。
「……来ます」
椎名の声は小さかったが、その一言で騎士団の空気が変わった。
前列の騎士たちが、盾をわずかに前へ。剣は抜かない。だが、いつでも抜ける角度で構えられている。後方では魔法師団が距離を取り、魔力の循環を整え始めていた。
「数は?」
ガイウスが問う。
「魔物が十数。魔族は……一」
「一、だと?」
「はい。ただし、“格”が違います」
森の奥。
霧が、意図を持ったかのように左右へ割れた。
最初に姿を現したのは魔物だった。
獣型。二足歩行に近いもの、四足のまま異様に発達したもの。共通しているのは、動きが統制されている点だ。
――命令を待っている。
その奥。
ゆっくりと、歩いてくる影があった。
人型。
角は一本。装備は簡素だが、身体に刻まれた紋様が淡く光っている。魔力が外に漏れているのではない。内側で、異様な密度を保っている。
「……爵位持ちか」
ガイウスが低く唸る。
「はい。下位ではありますが、魔族の中では“牙役”でございます」
「前に出る役、ということか」
「ええ。こちらの力量を測るための存在です」
魔族は、騎士団から二十歩ほど手前で止まった。
「人族。先日の者はいないか」
低い声。威圧ではない。だが、空気そのものが押される。
椎名は、一歩前へ。
「私でございましたら、ここに」
魔族の視線が、椎名に向く。
「……魔力無しの人間か」
「はい」
「理解できぬ。だが……」
魔族の口元が歪んだ。
「今日は、血を流してもらう」
その瞬間だった。
魔族の足元から、土が爆ぜる。
魔物たちが、一斉に動いた。
「前列、迎撃!」
ガイウスの号令が響く。
騎士たちは、初めて剣を抜いた。
魔力が刃に沿って流れ、重さと鋭さが増す。だが、無駄に放たない。突進してくる魔物の“勢い”を、盾で受け、殺す。
一体、二体と倒れるが、魔物は怯まない。
「魔法師団、後列制圧!」
風が走った。
地面すれすれを、見えぬ刃が薙ぐ。魔物の脚が切断され、動きが止まる。
だが――
魔族は、動かない。
ただ、眺めている。
「……来ます」
椎名の声が、少しだけ低くなった。
魔族が、腕を上げた。
空気が歪む。
圧縮された魔力が、一点に集まる。名称などない。ただ、“殺すための力”が形を持っただけ。
「散開!」
椎名の指示と同時に、魔法が放たれた。
地面が抉れ、衝撃が走る。
だが、直撃はない。騎士たちは、すでに動いていた。
「……ほう」
魔族が、初めて感心したように息を漏らす。
「指示が早いな」
「ありがとうございます」
椎名は、礼を崩さない。
「だが――」
魔族が、地を蹴った。
速い。
魔力による身体強化。人族の騎士では、正面からは受けられない速度。
「下がれ!」
ガイウスが叫ぶ。
だが、椎名は動かなかった。
剣を、抜く。
鞘鳴りはしない。
ただ、抜かれた瞬間に――空気が変わった。
魔族が、一瞬だけ眉を動かす。
「……何だ」
次の瞬間。
魔族の身体が、前のめりに崩れた。
斬撃は、見えなかった。
音も、衝撃もない。ただ、“切られていた”。
「深くは斬っておりません」
椎名は、剣を下ろす。
「これ以上進めば、致命となります」
魔族は、膝をついたまま笑った。
「……なるほど。これが、“規格外”か」
立ち上がり、後退する。
「今日は、退く。だが……」
魔族の目が、鋭く細まる。
「次は、私ではない」
森が、再び静かになる。
魔物たちは、主を守るように霧の中へ消えていった。
戦闘は、終わった。
だが、誰一人として安堵しなかった。
ガイウスが、椎名を見る。
「……あれを、殺さなかった理由は?」
「殺せば、次は“本隊”が動きます」
椎名は静かに答える。
「今はまだ、“準備の時間”を稼ぐべきでございます」
その背後で。
ファルカは、震える指で、自分の胸を押さえていた。
――怖い。
――でも……。
剣を抜く前に、戦いを終わらせる人がいる。
その背中を、少年は必死に目に焼き付けていた。
南方の森で、最初の血が流れた。
それは、戦争の始まりを告げる――
静かな、合図だった。




