第三部 第三話 ――森縁、刃が触れる前
南方の森の縁。
朝霧が、低く地を這うように流れていた。陽光は木々に遮られ、まだ森の中へは届かない。湿った空気が肺に重く、魔力の流れは不自然なほどに澱んでいる。
「……静かすぎるな」
低く呟いたのは、騎士団長ガイウスだった。鎧の上からでも分かるほど、彼の身体は張り詰めている。
「はい。魔物の気配はありますが……こちらを窺っているだけのように感じます」
副官が答える。騎士たちは横一列ではなく、間隔を空け、森に対して斜めに陣取っていた。突撃ではない。迎撃でもない。“境界線”を引く布陣だ。
その少し後方。
椎名は、土の感触を足裏で確かめながら立っていた。
剣は帯びているが、鞘から抜く気配はない。視線は森へ向けられているが、どこか一点を見ているわけでもない。
「……魔物が、従っておりますね」
その声は穏やかだったが、内容は重い。
「従っている、とは?」
ガイウスが眉を寄せる。
「はい。獣の動きではございません。こちらの間合いを測り、命令を待っている……そういう気配です」
「つまり……」
「魔族が、見ております」
その言葉に、騎士たちの背筋がわずかに強張る。
だが、椎名は続けた。
「ただし、まだ“来る気”ではありません」
「何故、そう言える」
「試されているからでございます」
椎名は、森の奥――人の目では見えぬ“流れ”を感じ取っていた。
魔力が、一定の距離を越えないよう制御されている。魔物たちは突発的に動ける状態にありながら、踏み出さない。これは、攻撃ではなく観察だ。
「騎士団長様。陣形は、このままで」
「……動かさぬ、と?」
「はい。恐怖を見せれば、押してまいります。突撃すれば、罠に嵌ります」
椎名は一拍置いて、静かに言った。
「“何もしない”ことが、最も強い返答でございます」
その時だった。
森の中、低い草木の陰が揺れた。
――来る。
椎名が、わずかに前へ出る。
「全員、武器は構えず」
「椎名!?」
「問題ございません」
騎士たちが戸惑う中、最初に姿を現したのは――魔物だった。
狼に似た姿。だが、体躯は倍以上。筋肉の隆起は不自然で、瞳は赤く濁っている。通常なら、即座に飛びかかってくる距離。
だが。
魔物は、止まった。
低く唸りながらも、一定の線を越えない。
「……命令待ち、か」
ガイウスが唾を飲む。
次の瞬間。
森の奥から、風が吹いた。
自然のものではない。空気が押し流され、霧が左右に裂ける。
そこに現れたのは――
人型。
角を持ち、肌は暗色。装備は簡素だが、放つ魔力の密度が違う。
魔族。
「……来ましたか」
椎名は、静かに一歩踏み出した。
魔族は、数歩手前で止まる。互いに、攻撃の間合いではない。
「人族にしては、随分と落ち着いている」
低い声が響く。挑発ではない。純粋な疑問だ。
「貴殿が、こちらを統率されているのですか」
椎名は一礼した。
「この場の判断を任されております、椎名と申します」
名乗りは丁寧。だが、腰は低くない。
魔族の目が、わずかに細められた。
「……魔力が、無い?」
「はい」
「それで、前に出るとは」
「不要な争いを避けるためでございます」
沈黙。
魔族は、椎名の背後――騎士団を一瞥した。
「今日は、ここまでだ」
そう告げ、魔族は踵を返す。
「次は……言葉では済まぬ」
「承知しております」
椎名は、深く頭を下げた。
魔族が森へ消えると同時に、魔物たちも霧の中へ引いていく。
しばらくして。
「……生きた心地がしなかった」
副官が、ようやく息を吐いた。
ガイウスは、椎名を見る。
「お前……いや、椎名。今のは、正解だったのか?」
「はい」
即答だった。
「向こうは、力を誇示したい。しかし、損はしたくない。こちらが冷静である限り、向こうは踏み込みません」
「だが……」
「次は、避けられません」
その言葉に、場が引き締まる。
椎名は、森を見つめたまま続けた。
「前哨戦は、終わりました。ここからは……駒が、変わります」
その頃、後方。
ファルカは、物陰からその一部始終を見ていた。拳を強く握り、歯を食いしばる。
――怖い。
だが、それ以上に。
――立っているだけで、戦いを止める人がいる。
その背中を、少年は決して忘れなかった。
戦争は、まだ始まっていない。
だが――
もう、戻れない場所まで来ていた。




