第三部 第二話 ――魔族の視線、開戦前夜
南方の森、その最深部。
魔力の濃度は、すでに人族の感覚では測れぬ域に達していた。空気は澱み、木々は歪み、地面に根を張る苔すら、異様な脈動を帯びている。
そこに、魔族の陣はあった。
「……動きが、静かすぎるな」
岩を削り出したような卓の前で、紅い瞳の魔族が呟いた。角は短く、しかしその存在感は圧倒的だ。魔族国家インベイにおいて「伯」の位を持つ将である。
名は、ザイ=ルグ。
爵位持ちの中でも、戦闘ではなく“配置”と“観察”を任される、いわば前線の眼。
「人族は、もっと慌てるものだと思っていたが」
ザイ=ルグの前には、膝をつく配下の魔族が数名。その背後には、命令を待つ魔物たちが静かに伏している。吠えもせず、唸りもせず、ただ命令を待つだけの獣。
それ自体が、人族にとっては異様だった。
「森縁に展開した小隊は?」
「確認済みです」
報告役の魔族が、淡々と答える。
「数は少数。主力ではありません。討伐行動も限定的。魔物の進路を遮るのみで、深追いはしていない」
「ふむ……」
ザイ=ルグは、口元をわずかに歪めた。
「賢い。いや――賢すぎる、か」
通常、人族の騎士団はこうした異変に対し、過剰に反応する。森へ踏み込み、魔物を殲滅し、結果として罠に嵌る。
だが、今回は違う。
「こちらの意図を、読まれている可能性があります」
「だろうな」
ザイ=ルグは、卓に刻まれた地図――アルヴァリア公爵領の南部を示す線に、指を滑らせる。
「……この領地、噂以上だ」
「どういう意味でしょうか」
「統治者が優秀で、軍が強い。ここまでは、どの報告にもある」
指が、森の外縁で止まる。
「だが、それだけでは説明がつかない。この“静けさ”は」
魔族は、力を誇る種だ。魔力操作において人族を凌駕し、魔物を従え、恐怖で支配する。それが常だった。
それでも。
「まるで……こちらが試されている」
ザイ=ルグは、低く笑った。
「面白い」
彼の脳裏に浮かぶのは、数日前に感知した“異物”。
魔力を持たぬ存在。
だが、魔力の流れすら歪める、異常な“空白”。
「……魔法を使わぬ、剣の気配」
「将?」
「いや、独り言だ」
ザイ=ルグは立ち上がり、洞窟の奥へと歩き出す。そこには、魔力で拘束された“鏡”のような水面があり、遠方の様子を映し出していた。
映るのは、森の縁。
人族の騎士たちが、慎重に配置を取り、魔物の動きを観察している。そして――
「……あれか」
一人、異様に静かな男。
武具は簡素。魔力の揺らぎは皆無。それなのに、周囲の魔力が、その男を避けて流れている。
「ふ、ふふ……」
ザイ=ルグの喉から、思わず笑いが漏れた。
「聞いてはいたが……本物だな」
魔族の間でも、噂はすでに広がっている。
魔力を持たぬ人族。
魔法を使わず、魔族すら斬る存在。
「魔王様が、興味を持たれるのも無理はない」
その瞬間。
鏡の水面が、わずかに揺れた。
――見られている。
直感が告げる。
あの男は、こちらの視線に気づいた。
「……やはり、厄介だ」
ザイ=ルグは、手を振り、映像を消した。
「本日は、これ以上は動かすな」
「ですが――」
「前哨戦は、十分だ」
配下を制し、将は静かに告げる。
「恐怖を与えるのではない。考えさせるのだ。人族に、“何が来るのか”を」
洞窟の外。
森は、相変わらず静かだった。
だがその静けさは、嵐の前のものだと、魔族も、人族も――理解し始めていた。
「次は……一段、強い駒を出すか」
ザイ=ルグの紅眼が、愉悦に細められる。
その頃、森の縁で。
椎名は、ふと足を止め、振り返った。
「……今のは」
理由はない。ただ、確かな感触。
――見られていた。
だが、彼は剣に手を伸ばすことはしなかった。
「まだ、でございますね」
そう呟き、再び前を向く。
前哨戦は、終わった。
次に動くとき、それはもう――
“戦争”と呼ばれる段階になる。




