第三部 第一話 ――南方の森、静かな異変
南方の森は、今日も変わらず霧を孕んでいた。
アルヴァリア公爵領の南端に広がるその大森林は、昼なお薄暗く、木々の隙間から差し込む光すら、どこか濁って見える。魔力が濃い土地特有の現象だと、人々は説明する。風は重く、空気は湿り、踏みしめる落葉は音を立てず、ただ足裏に沈む感触だけを残した。
――だが。
「……妙ですね」
低く、しかしはっきりとした声が、霧の中に溶けた。
椎名は森の縁に立ち、視線を奥へと向けていた。老執事然とした落ち着いた立ち姿。いつもと変わらぬはずのその背に、わずかな緊張が宿っていることを、傍らに立つ騎士団長ガイウスだけが察していた。
「何がだ」
短く問うガイウスに、椎名はすぐには答えない。代わりに、地面へ視線を落とし、しゃがみ込み、指先で土を掬った。
黒い。
湿り気を含んだ土は、森では珍しくない。しかし、その黒さは異様だった。まるで、焼け焦げた痕跡が、時間をかけて土と同化したかのように。
「魔物の足跡が……整いすぎています」
「整いすぎている?」
「ええ。逃げ惑うでもなく、餌を探すでもない。隊列を組んで歩いた跡です」
ガイウスの眉がわずかに動いた。
魔物は、本来群れこそ作れど、統率された行動など取らない。特に、この森に棲む個体は凶暴で、同族同士で殺し合うことすらある。
「……魔族、か」
「可能性は高いでしょう」
椎名は立ち上がり、森を見渡す。その視線は、霧の向こう、見えぬ何かを測るように静かだった。
アルヴァリア公爵家の屋敷に戻ったのは、その日の夕刻だった。
重厚な扉が閉じられると同時に、執務室の空気が張り詰める。集められたのは、ラルト公爵、セリウス魔法師団長、ガイウス騎士団長、そして椎名。
「南方の森に、異変が起きている」
ラルト公爵は、前置きなく切り出した。だがその声音は、いつものように冷静で、感情に流されることはない。
「魔物の活動が活発化している。だが、問題は数ではない」
「はい」
椎名が静かに頷く。
「統率です。魔物が、命令に従っている」
セリウスが椅子にもたれ、深く息を吐いた。
「魔族が直接関与していると見て間違いないだろう。だが……妙だな」
「妙、とは?」
「斥候にしては動きが大きすぎる。かといって、侵攻には早すぎる」
椎名は、その言葉を聞きながら、内心で頷いていた。
――これは、試しだ。
人族がどこまで気づくか。
どこまで耐えるか。
どこで刃を抜くか。
「前哨戦、でございましょう」
椎名の言葉に、全員の視線が集まる。
「本格的な侵攻の前段階。こちらの反応を見るための動きです。討伐に騎士団を出せば、戦力と対応速度が測られる。出さなければ、恐怖と不安が広がる」
ラルト公爵は、しばし黙考し、やがて頷いた。
「では、どう動くべきだ?」
「最小限で、確実に」
椎名は即答した。
「騎士団の主力は動かしません。代わりに、少数精鋭を森の縁に配置し、魔物の動線を観察。討伐は、必要最低限に抑えます」
「被害が出た場合は?」
「……出させません」
その言葉は静かだったが、確信に満ちていた。
夜。
屋敷の一角、簡素な訓練場で、ファルカは一人、木剣を振っていた。小さな体に不釣り合いなほど、真剣な眼差し。
「……ファルカ」
振り下ろされた剣が止まる。
「椎名様」
すぐに姿勢を正し、頭を下げる。その所作は、年齢に似合わず整っていた。
「今夜は、ここまでにしておきなさい」
「はい……ですが」
言いかけて、ファルカは言葉を飲み込む。その視線は、南の空へと向いていた。
「森のこと、ですね」
図星を突かれ、ファルカは小さく頷く。
「怖いですか」
問いかけに、ファルカは少し考え、首を横に振った。
「……わからない、です。でも、何かが始まる気がして」
椎名は、その頭にそっと手を置いた。
「よく気づきました。それは、剣よりも大切な感覚です」
「僕も……行った方がいいですか」
「いいえ」
即座に、しかし柔らかく否定する。
「今は、見ることを学びなさい。戦場は、剣を振る前に、すでに勝敗が決まっていることが多いのです」
その言葉の意味を、ファルカはまだ完全には理解できない。ただ、胸の奥に、確かに刻まれた。
その夜更け。
南方の森の奥深く、霧が渦を巻くように動いた。
木々の影から現れたのは、人の形をした影――否、人ではない。
「……反応は良好、か」
低く、嗤うような声。
その背後には、静かに跪く魔物たち。獣のはずの瞳に、意思の光が宿っていた。
「さあ、人族よ」
影は、南を見据える。
「どこまで、持つかな」
森は、何も答えなかった。
だが確かに――
戦争の歯車は、静かに、確実に回り始めていた。




