第二部 第十三話 ――刃を研ぐ時間、影が集う場所
朝の空気は、冷えていた。
王都ヴァルアスの朝はいつも騒がしい。
だがこの日、アルヴァリア公爵別邸の裏庭だけは、異様な静けさに包まれていた。
土を踏みしめる音。
風を切る、短い呼吸。
ファルカは木剣を握り、額に汗を浮かべていた。
「……はぁ、はぁ……」
息は荒いが、目は死んでいない。
むしろ、必死に椎名の動きを追っている。
椎名は数歩先に立ち、静かに構えていた。
「肩が上がっています」
低く、穏やかな声。
「力を入れる場所が違います。
剣は、振るものではありません。“落とす”ものです」
ファルカは唇を噛み、言われた通りに構え直す。
細い腕。
まだ筋肉も骨格も、剣に耐えるには未熟だ。
だが――。
(折れていない)
椎名は、内心でそう評価していた。
「来なさい」
短い言葉。
ファルカは一瞬だけ迷い、それでも踏み込んだ。
木剣が振り下ろされる。
速さはない。
重さも足りない。
だが、迷いがない。
椎名は半歩ずれ、指先で木剣の腹を払った。
乾いた音。
ファルカの剣は、あっさりと軌道を失い、地面に落ちた。
「……っ」
悔しそうに歯を食いしばる。
椎名は、すぐには何も言わなかった。
拾わせる時間を、与える。
ファルカは黙って木剣を拾い、もう一度構えた。
「ファルカ」
「はい」
「剣は、勝つために振るものではありません」
少年の目が、揺れる。
「生き残るために、振るものです」
ファルカは、何かを理解しかけた顔で、ゆっくり頷いた。
修行が終わる頃、太陽はかなり高くなっていた。
水を飲むファルカの横に、椎名は腰を下ろす。
「……師匠」
「はい」
「昨日の夜……怖かったです」
正直な言葉。
椎名は、否定しなかった。
「それで、よろしいかと」
「でも……」
ファルカは、拳を握る。
「何もできなかった」
椎名は、静かに首を振った。
「あなたは、生きていました」
その言葉に、ファルカは目を見開く。
「生きて、見て、覚えている。
それは、立派な“力”です」
ファルカは、しばらく黙っていたが、小さく「はい」と答えた。
同じ頃。
王都の中心部から少し離れた屋敷で、非公式の会合が開かれていた。
重厚なカーテン。
外部の音を遮断する魔道具。
集まっているのは、表では穏健派とされる貴族たち。
「……アルヴァリアが、動きすぎだ」
一人が、低い声で言った。
「王都での影響力が、急速に増している」
「問題は公爵ではない」
別の男が、指を組む。
「“あの執事”だ」
沈黙。
誰もが、昨夜の件を思い出していた。
「魔力反応なしで、あの動き……」
「騎士団ですら、対応が遅れたという話だ」
「異物だな」
結論は、早かった。
「排除は?」
誰かが、試すように言う。
すぐに、別の声が被さった。
「愚策だ。
あれはもう、“切れる存在”ではない」
「では、どうする」
しばしの沈黙の後。
「……利用する」
その言葉に、誰も反論しなかった。
夕刻。
別邸に戻った椎名は、公爵からの呼び出しを受けていた。
「椎名」
「はい、公爵様」
「貴族たちが、静かだ」
それが、何を意味するか。
二人とも、理解している。
「嵐の前、でございますね」
「そうだ」
公爵は、椎名をまっすぐ見た。
「そなたを、政治の場に引きずり込むつもりはなかった。
だが……もう、無理だろう」
椎名は、一瞬だけ目を伏せた。
そして、静かに答える。
「必要であれば、役目を果たします」
「後悔は?」
「ございません」
即答だった。
その夜。
ファルカは、寝台の中で目を開けていた。
剣を振る椎名の背中。
静かで、揺るがない声。
(……強くなりたい)
誰かを殴るためじゃない。
生き残るために。
守るために。
同じ頃。
王都のさらに奥で、別の影が動き出していた。
魔族のものとも、人のものともつかぬ思考。
「……面白くなってきた」
まだ、誰も知らない。
だが確実に――
盤面は、次の段階へ進みつつあった。




