第二部 第六話 ――値踏みの微笑
王都ヴァルアスの朝は、辺境とは違う音で始まる。
石畳を叩く馬車の音。
市場で交わされる早口の商談。
どこか急き立てられるような、人の流れ。
アルヴァリア公爵家が滞在する屋敷の一室で、椎名は窓辺に立ち、その街の様子を静かに眺めていた。
(……人が多いですね)
それだけで、情報も思惑も密度が跳ね上がる。
辺境では、誰が何をしているかは自然と見えてくる。
だが王都では、見えるものほど信用できない。
控えめなノックの音。
「椎名様」
リディアの声だった。
「本日ですが、午前中に一件、非公式な面会の申し入れがございます」
「非公式、ですか」
椎名は振り返り、穏やかに頷いた。
「どちらの方でしょうか」
「ルメイル伯爵様です。中央寄りの方で……公の議席では発言は控えめですが、裏での影響力が強いと」
(なるほど)
昨日の評議会を経て、動きが出ないはずがない。
「公爵様は?」
「“椎名の判断に任せる”と」
その言葉に、椎名は一瞬だけ目を伏せた。
(完全に盾にするつもりはない、という意思表示ですね)
同時に――
椎名自身が、どこまで対応できるかを見ている。
「お通ししてください」
応接室は、過度に華美ではないが、上質な調度で整えられていた。
これは相手に安心感を与えるための配置だ。
程なくして現れたルメイル伯爵は、柔和な笑みを浮かべる初老の男だった。
「これはこれは。お忙しいところ、時間を割いていただき感謝いたします」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます、ルメイル伯爵様」
椎名は、丁寧に一礼する。
伯爵は、その所作をじっと観察するように眺めてから、席に着いた。
「噂に違わぬお方だ。所作に一切の無駄がない」
「身に染みついたものでございます」
「地球……でしたかな。異界の文化は、実に興味深い」
――探り。
いきなり核心に触れてくるあたり、この人物は慎重さと大胆さを併せ持っている。
「どのようなご用件でしょうか」
椎名は、余計な前置きを省いた。
「単刀直入に申しましょう」
伯爵は、指を組んだ。
「あなた様を、中央に迎えたい」
空気が、わずかに引き締まる。
「公爵家付きの執事としてではなく――」
「“公国全体の調整役”としてです」
椎名は、即答しなかった。
(……やはり、個人を引き剥がしに来ましたか)
「なぜ、私なのでしょう」
「中立だからです」
伯爵は、即座に答えた。
「貴族ではない。派閥もない」
「だが、アルヴァリア公爵家の信任は厚い」
「しかも、戦力としても、政治的な抑止としても――極めて優秀」
称賛の言葉は並ぶが、要するにこうだ。
使いやすい位置に置きたい。
「中央にいれば、より多くの命を救える」
「辺境だけでなく、公国全体を守れる」
椎名は、伯爵の目を真っ直ぐに見た。
そこにあるのは、善意と打算の混合だ。
「……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「その“守る”対象に、アルヴァリア領は含まれておりますか」
一瞬、伯爵の瞬きが止まった。
「当然ですとも」
「“当然”という言葉は、立場によって意味が変わります」
椎名の声は、あくまで穏やかだった。
「中央の均衡を保つために、辺境が切り捨てられるのであれば」
「それは、私の守りたいものとは異なります」
沈黙。
伯爵は、ゆっくりと息を吐いた。
「……あなた様は、思っていた以上に率直だ」
「誤解を残したまま進むのは、執事の流儀に反しますので」
その言葉に、伯爵は苦笑した。
「すぐに答えを求めるつもりはありません」
「ただ、覚えておいていただきたい」
「中央は、あなた様を敵に回したくはない」
(裏を返せば――)
「必要とあらば、排除も視野に入る、ですか」
伯爵は否定しなかった。
それ自体が、答えだ。
面会は、礼儀正しく終了した。
伯爵が去った後、椎名は一人、深く椅子に腰を下ろした。
(……完全に、盤上に置かれましたね)
個人としては、自由だ。
だが、影響力が生じた瞬間、その自由は「管理対象」になる。
そこへ、静かな足音。
「椎名」
ラルト公爵だった。
「どうだった」
「丁寧で、理知的で……非常に危険な方でした」
正直な評価に、公爵は小さく笑った。
「断ったか」
「はい」
「そうか」
それ以上、何も言わない。
信頼とは、こういう形を取るのだと、椎名は改めて思う。
その夜。
屋敷の屋根を渡る、かすかな気配を、椎名は見逃さなかった。
(……偵察? それとも――)
剣には手を掛けない。
だが、視線だけで追う。
気配は、すぐに消えた。
だが、確信だけが残る。
(中央だけではない)
この王都には、
魔族の影すら、忍び込んでいる。
静かに、確実に。
椎名を中心に、盤面は動き始めていた。




