第二部 第四話 ――囁かれる噂、沈黙という防壁
首都ヴァルアスの朝は、いつもより騒がしかった。
通りに立つ人々の声はどこか落ち着きを欠き、商人たちの会話も、普段なら笑い声が混じるはずのところで、ひそひそとした囁きに変わっている。
噂は、目に見えぬ形で街を満たしていた。
アルヴァリア公爵家の屋敷でも、その異変はすぐに察知された。
「……妙ですね」
椎名は朝の報告を終え、控えめに言葉を添えた。
「市場の者や御者たちの間で、公爵様のお名前が出ているようでございます」
ラルト・アルヴァリア公爵は、手にしていた書類から視線を上げた。
「内容は?」
「“辺境で軍備を密かに増強している”
“中央に対して不満を抱いている”
――そのような、根拠のない話でございます」
ラルトは苦笑する。
「ずいぶんと、分かりやすい」
「はい。昨夜の晩餐の翌日としては、あまりに露骨かと」
噂は、事実を混ぜることで真実味を帯びる。
アルヴァリア領が、森の不穏に備えて兵の訓練を強化しているのは事実だ。
だが、それはあくまで領内防衛の範囲であり、反意を示すものではない。
(……ですが、“真実の断片”ほど厄介なものはございません)
椎名は、内心でそう評価していた。
「対処はどうする?」
ラルトの問いは短いが、信頼が込められていた。
「現時点では、何もなさらないのが最善かと存じます」
「放置、か」
「はい。噂は、燃料がなければ自然と消えます。
こちらが弁明すれば、“何か隠している”と受け取られかねません」
ラルトはしばらく考え込み、やがて頷いた。
「……任せよう」
その一言に、椎名は深く一礼した。
だが、表で沈黙を守る一方、裏で何もしないわけではない。
椎名は、その日の午後から静かに動いていた。
屋敷に出入りする商人。
他貴族の屋敷に勤める使用人。
馬車の御者や、宿屋の主。
彼らは皆、政治の中心にはいない。
だが、噂が“どこから生まれ、どう広がるか”を最もよく知っている。
「最近、公爵様のお話を耳にされましたか」
椎名は、あくまで世間話の延長として問いかける。
「ええ、少し……」
「どのような内容でございましたか」
「それが……はっきりとは。ただ、“中央に逆らうつもりらしい”とか」
椎名は、そこで初めて少しだけ首を傾げる。
「それは、不思議なお話でございますね。
公爵様は、先日の会合でも終始、協調の姿勢を示されておりましたが」
否定はしない。
だが、事実を淡々と置く。
「……そう言われてみれば、確かに」
その小さな違和感が、噂の勢いを削いでいく。
夕刻、椎名は屋敷に戻り、報告をまとめていた。
「噂の出所は、侯爵家に近い商会の者が多いようでございます」
「やはり、裏で糸を引いているか」
「はい。ただし――」
椎名は少し言葉を選ぶ。
「強制や命令ではなく、“そう話せば得をする”という誘導の形でございます」
ラルトは、腕を組んだ。
「巧妙だな」
「ええ。しかし、完全に統制されているわけではございません」
噂は、人の口を渡るたびに形を変える。
そして、制御が甘ければ、思わぬ方向へも流れる。
「ですので、こちらは――“別の噂”を否定せず、並べるだけで十分かと」
「別の噂?」
「公爵様が、中央との関係を非常に重んじておられる、という話でございます」
ラルトは、思わず笑った。
「事実だな」
「はい。事実でございます」
その夜、ラルトは執務室で一人、考え込んでいた。
椎名のやり方は、派手ではない。
だが、確実に相手の手を鈍らせている。
(……もし、彼が敵に回っていたら)
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
同時に、背筋が冷えた。
だが今は、味方だ。
それだけで、これほど心強い存在はいない。
一方、首都の別の屋敷では。
「……噂の広がりが、止まっています」
使用人の報告に、侯爵は不機嫌そうに眉をひそめた。
「何故だ」
「理由は不明ですが……アルヴァリア公爵家は、表向き何の反応も示しておりません」
沈黙は、時に最大の反論となる。
侯爵は、舌打ちを一つした。
「……次の手を用意しろ」
首都ヴァルアスの空は、今日も穏やかだ。
だがその下では、静かに、確実に、次の波が生まれつつあった。
そして椎名は、その気配をはっきりと感じ取っていた。
――噂が通じぬなら、次は“場”を使ってくる。
公の席で、逃げ場のない形で。
(……備えねばなりませんね)
執事は静かに決意し、次の一手を胸中で組み立て始めていた。




