第一部 第十話 ――静かな城と、見えない軋み
アルヴァリア公爵城の朝は、静かだ。
鐘が鳴るわけでも、号令が響くわけでもない。
それでも、城は確実に目覚めていく。
廊下を行き交う足音。
窓を開ける音。
中庭でほうきを動かす、一定のリズム。
椎名は、そのすべてを“音として”ではなく、“流れとして”感じ取っていた。
(……よく統制されている)
軍事的な統制ではない。
生活としての秩序だ。
無理がない。
誰かが無理を強いられている気配が、ない。
それは、城全体が長い時間をかけて積み上げてきたものだった。
「おはようございます、椎名様」
侍女のリディアが、軽やかに声をかけてくる。
「おはようございます」
椎名は、いつも通り丁寧に返した。
だが、彼女の反応が、ほんのわずかに違う。
敬意が増している。
それでいて、距離は遠ざかっていない。
(……立場が、変わった)
公爵の言葉は、城の中では絶対だ。
昨日の会議以降、椎名は「客」ではなくなった。
公爵家の一員――少なくとも、内部の人間として扱われ始めている。
それは、心地よさと同時に、責任を伴う。
◆
午前中、椎名はガイウスとともに騎士団の詰所を訪れていた。
目的は、視察というよりも確認だ。
南方警戒線での動きが、城内にどう伝わっているか。
「……妙な噂は、立っていません」
ガイウスは、低い声で言った。
「むしろ、“椎名がいたから被害が出なかった”と」
「それは、危険ですね」
椎名は、即座に返した。
「英雄視は、歪みを生みます」
ガイウスは、苦笑する。
「分かっている。
だから、こちらでも意図的に功績を分散させている」
この騎士団長は、見た目以上に繊細だ。
そして、現場をよく見ている。
「……それでも」
ガイウスは、視線を落とした。
「敵は、こちらを見ている。
椎名、お前を“軸”としてな」
椎名は、否定しなかった。
「ええ。
ですが、軸は一本だけでは折れます」
「公爵も、同じことを言っていた」
ガイウスは、ふっと息を吐く。
「だからこそ、お前を前に出しすぎない」
それは、信頼だった。
◆
その日の午後。
椎名は、公爵の私室に呼ばれた。
公式の執務室ではない。
家族が使う、落ち着いた空間だ。
「来たか」
公爵は、窓際に立っていた。
「南方の件だが……しばらく、静かになるだろう」
「嵐の前、というやつですね」
「そうだ」
公爵は、振り返る。
「だからこそ、今のうちに整える」
机の上には、領内の地図が広げられていた。
補給路。
村の配置。
森との距離。
「お前には、戦わないための準備を手伝ってもらう」
椎名は、地図を見つめる。
「……承知しました」
それは、剣を振るう以上に難しい役目だ。
だが。
椎名は、心の奥で確信していた。
(だからこそ、ここに来た)
戦うためではない。
守るために。
◆
夜。
椎名は、城の一角で一人、刀の手入れをしていた。
異世界に来てからも、欠かしていない習慣だ。
刃を拭き、
重心を確かめ、
鞘に収める。
その所作は、静かで、無駄がない。
「……やはり、魔力は感じませんね」
声がした。
振り向くと、セリウスが立っていた。
「ええ」
「それでも、あなたの剣は“通る”」
セリウスの目は、魔法士のそれだった。
「理屈では説明できない。
ですが……理解は、できます」
椎名は、少しだけ笑った。
「それで十分です」
互いに、踏み込みすぎない。
それが、この城のやり方だった。




