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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

家に帰ったら、先輩が風呂場で死んでいた

作者: 多々良

「あーあ、私、死んじゃったじゃん、どうすんの?」

いつも通りの、放り投げるような調子の彼女の声が聞こえた。


「先輩、僕のこと嫌いって言ってたじゃないですか」

「うん、だから嫌がらせ」


一人暮らし用の狭いユニットバスの中で、髪の長い女性が脱力するように浴槽にもたれていた。そこに満ちているのが薄く膜の張った赤黒い液体でなければ、いよいよただの入浴にも見えただろう。


先輩の声に合わせて、挑発するかのように、血の気のない腕がだらりと垂れ下がっている。


浴槽の赤黒い水は、青ざめたその肌と対照的だ。

僕はその水に触れないよう気をつけながら、浴槽の栓の鎖をつかみ、引き抜いた。


ごぽごぽ


水面に散っていた長い黒髪が、ぴたりとその体にまとわりついていく。

少しずつ水面から現れる肌に、布の気配はなかった。彼女は裸のまま浴槽に沈んでいたようだった。

「これも、嫌がらせですか?」

僕は水底から、鈍く光る剃刀を慎重に手に取った。

「それは目についただけ。結果的にそうなったみたいだけど」

飄々としたその声からは、心理は読めない。


まずは浴槽全体に付着した薄い血液を、シャワーの熱湯で勢いよく流していく。流水のかかったところから、粘り気を持ったどろりとしたものが剥がれ落ち、排水溝に流れていく。同じように先輩の全身をまんべんなく洗い流していく。

洗い流しながら眺めてみると、まるで陶磁器のように、肌は均一に白かった。

喉元を一周するように、うっすらと紅色が滲んでいる。それは切り傷の類ではないようだ。おそらく、血液の溶け出した湯船に浸かっているうちに水面に浮いたものが付着して、こびりついたのだろう。流水だけでは落ちそうにない。

直接の死因は右腕前腕、縦に綺麗に入った赤い線。いわゆるリストカットというやつだ。

こういうのは大抵横向きだと思っていたから、他の場所を流しながらしげしげと眺めていた。


「っはーぁ、童貞が。じろじろ見ちゃってさ」

「……」

「うわっ!」

思いっきり水圧を上げて顔にかけると、素っ頓狂な声があがる。

「あははは! もう、最ッ低!」

「じゃあ自分でやって下さいよ」

「んー手伝ってあげたいけど、肝心の手が動かないんだよねぇ」

笑う声が濡れた天井に反響する。

ごとり、とシャワーヘッドを戻す。見ると、鎖骨のあたりに小さな湖ができていた。

「っていうか、本当に死んでるんですか?」


「触ってみる?」

その言葉にどきりとした。

水を払うだけ、と自分に言い聞かせるが、目は離せないままでいる。

もしかしたら、実はただの悪質なドッキリかもしれない。だからその確認なんだ。鼻を明かしてやるんだ。そんなふうに自分に言い聞かせて、そっと鎖骨の水を払う。

「……ほんとに死んでるじゃないですか」

「嘘ついてると思ってたの? そんな酷いことしないよ」

一瞬触れただけでも、肩口、鎖骨、首筋、そのどれもが生きた熱を帯びていなかったとわかる。


「そっか。冷たいんだ、私」

先輩はどこか感心したような口調で呟いた。まるで他人事みたいに。

僕は黙ったまま、目を逸らすこともできずに、その肩から視線を下へ滑らせた。腰の隣に横たわった右腕。その白磁のような肌に、手首から肘の手前にかけて、ひときわ濃く赤い一本の線が走っている。

指先でそっとなぞると、凹凸なくそこをすべっていく。それでも、ぬるりとした感触が指に残った。わずかに血管に残った血と、浴槽に張っていた液体の混合物だろうか。

「ねえ、そこ、どう? 上手にできてるでしょ」

お気に入りの写真を見せる時みたいな口調。

「……器用すぎて、怖いです」

そう答えるのが精一杯だった。

ためらった傷も全くなく、死に至るほどの出血量があったのだから、きっと見た目以上にずっと深い。肌に刃を立てる“その瞬間”を想像しようとしたけれど、思考は滑るばかりだ。

それがわかれば、先輩に近づけると思った。鏡の傍らの棚から、同じ替え刃を取り出し、指先をあてがう。

「っつ……!」

力は抜いたつもりだったが、ピリッとした痛みが腕全体に走ったように感じた。ミニチュアの痛みと傷跡が自傷の証として残る。しかし、真似ただけの傷は、何かがまるで届いていない。

「バカだなぁ。私の真似したって、意味なんかないのに」

なぜだか、先輩の声が少しだけ優しくなった気がした。


冷静になるにつれ、痛みとともに次第に我に帰った。

軽く指先を洗って、絆創膏を貼ってから、バスタオルを手に浴室に戻る。

タオルを丸めて、ぽんぽんと当てるようにして、少しずつ肌の水気を吸い取っていく。髪の毛の間から滲む、うっすら赤みの混じった水が出なくなるまで、慎重に、丁寧に、拭い続けた。


「そろそろ乾かしたほうがいいですかね」

「それならあっちの部屋のヨギボーのところがいいな。私あれ好き」

「濡れたケツと髪で座る気ですか」

「じゃあタオル敷けばいいじゃん」

「……」

まだ反論したい気持ちもあったが、黙って従うことにした。

「動かしますよ」


彼女をタオルごと抱き上げて、浴室の外へ運ぶ。思ったより軽い。湿った髪が腕にあたり、少し不快感があった。


クッションを少しへこませ、先輩を座らせる。ドライヤーをかけやすいように首を傾けると、まるで昼寝をしているだけのようにも見えた。

ソファに座らせてからコードを目一杯伸ばし、ドライヤーのスイッチを入れる。

彼女の髪にドライヤーを当てながら手で梳くたびに、なぜか心臓が痛む。


これが罪悪感なら遅すぎる。

「先輩、前よりも髪伸びましたよね」

返事はないが、髪のひと房ひと房に神経が通っているように思えた。

「でも後輩くんは、私のそういうところが、──」


ふわり


と、乾いた髪から“先輩の匂い”がした。

それはかつて、僕が密かに覚え込んだ記憶の中の匂いと同じで、けれどどこか、幽かに遠い。


「先輩……?」

ドライヤーの乾いたモーター音だけが響く。

すり抜けるように、髪がひと房手から零れた。


僕は努めて冷静に、先輩の声の輪郭を頭の中でなぞろうとした。でも、触れたと思ったそばからすり抜けてしまう。先輩の話した言葉はいくらでも出てくるのに、それに命を吹き込む声は、もう僕の中からは零れ落ちてしまっていた。

僕はドライヤーを止めて、先輩の後ろ姿をぼんやりと眺めた。

そのまま、頭の中でたっぷり30秒数える。

28、29、30───。

「ええ、好きでしたよ。先輩のこと」

沈黙。

「ずっと」

浴室の方から微かに鳴る換気扇の音に、小さく笑い声が混じったような気がした。

そっと、ゆっくりと、死体の手に僕の手を被せた。


その肌は、さらりとして、柔らかく、きめ細かく、冷たかった。

先輩は、死んだんだ。


その瞬間、何かが決壊するような感覚がした。自分の中で何かが静かに終わっていくのを、指先が確かに感じ取ってしまった。

「ねえ、ずるくないですか」


「そんな格好じゃ風邪ひきますから、ね」

服も下着も、風呂場の前に脱ぎ散らかされたものを慣れない手つきで着せることになった。

その作業は、まるで意思のない人形に服を通すようだった。そう思ってしまったことに、ひどく罪悪感を覚えた。

ボタンのかけ違いにも、布地のズレにも、その死体は何も言わない。いつもそうだった。

「生きてた時より綺麗なんじゃないですか?」

自分の言葉なのに、どうしても現実味がない。


ひととおり体裁を整えたころには、夜の深さも底を打っていた。

窓の外の暗闇とは対照的に、部屋の冷たい灯りに照らされて、ほのかな先輩の残り香が空気の中に滲んでいる。


「……どこに寝ますか?」


もちろん答えはない。だから僕の問いかけは、どこか礼儀に似たものだった。

この状況を、僕だけで完結させることに対する、せめてもの抵抗のような。


彼女を抱えたまま、僕はふと立ち止まる。


冷蔵庫の上にあった古いポラロイドが目に入った。

それは彼女の撮ってくれた写真だった。川辺の芝生で、ピントも甘く、被写体もない。彼女は、徹底して写真に意味を投影しようとしなかった。


「だから嫌がらせだってば」

写真を撮ったその日も、そう言っていた気がする。


「後輩くん、前かした本読んだ?」

「読んでないです」

「なんで?」

少し迷ったが、素直に答えた。

「面倒くさかったからです」

くるっと振り返った先輩は、太陽に背を向けてにんまりと笑った。

そんな人だった。


後日、その日の写真を現像してもらったのがこれだった。


「じゃあ、これも“嫌がらせ”ですかね」


僕は問いかけるように、写真を彼女の目元にかざしてみた。

けれど、彼女の瞳は閉じられていて、開くことはなかった。


僕のベッドは狭かった。ひとりが横になればもう余白はない。

だから彼女を横たえると、まるで彼女のほうがずっと前からここにいたように感じられる。

もう、僕ができることはなかった。毛布はもはや、静かに全てを覆い、閉じるためのものだった。

僕は、彼女の肩まで柔らかな布をそっと引き上げた。


「……本当に、なんなんですか、先輩は」


そのとき眠るように横たわった彼女の口角だけが、ほんのわずかに上がったように見えた。


不意に、吐息が漏れる。


ひとりでいるときの、誰にも見せない、無音のそれだった。


 


翌朝、僕は警察に通報した。

浴室で彼女が発見されたこと。昨夜、自殺だったように見えたこと。

「どうしてすぐに通報しなかったのか」と、幾度も問われたし、現場保存の観点から強く叱責された。僕は答えられることに粛々と答え、それ以外にはただ首を横に振るだけだった。


彼女がこの部屋にいた痕跡は、洗い流され、乾ききり、整えられていた。

現実が、少しずつ彼女の形を奪っていくのがわかった。


彼女の生きた証はすべて乾ききって、見えなくなった。

指先のぬめりはもう定かではなく、あの声も少しずつ輪郭を失っている。


それでも、ドライヤーの風に乗って香ったあの匂いだけは、なぜか彩度を落とすことなく鼻先に残っていた。


僕は最後の抵抗として、彼女の声の輪郭をなぞり続ける。


死体が乾ききる、その日まで。

原題「あなたの死体が乾くまで」

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