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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

片思いしていた使用人に結婚前夜に誘拐されましたー想い人の正体は隣国のマフェアのアンダーボスでしたー

作者: 鯖缶ひな




 私、サーシャ・フローティスは現在、人生の中で一番のピンチを迎えているかもしれない。

 本来なら明日結婚を控えている伯爵令嬢として、幸せと少々の苦しさを抱えつつ、実家で過ごす最後のティータイムをする筈だった。


 それが今、私は今までずっと信頼していた専属執事のクルトに何故かベッドの上で押し倒されている。組み敷かれている、ともいうかもしれない。


 ……どうしてこうなったのだ!?


「ありがとうございます、お嬢様。あなたのお陰で俺はこの国の仕事を無事に遂行する事が出来ました」

「し、ごと……!?」


 クルトはサファイアのような青い瞳を妖しげに煌めかせ、いつもの優しい彼らしくのない、皮肉げな笑みを浮かべていた。

 いつもは一人称も「私」と言っているのに、「俺」になっている。何故。


 私はこの状況にどう対処していいか分からず、冷や汗が止まらなかった。

 寝る前にいつも飲んでいる、ルイボスティーを私の部屋に運んできてくれたと思ったら、急にこれだ。一言二言、普通に言葉を交わしたと思ったら、目にも止まらぬスピードで私を押し倒してきた。

 何が起こったのか、私には本当に一切理解できていない。


 どうする? 助けを呼べばいい? 試しに大声で部屋の外に向かって叫んでみる?

 いや駄目だ。そんな事をしてしまえば、クルトは捕まってしまう。

 私は彼には出来たら酷い目にあってほしくはなかった。


 ここはどうにかクルトと交渉して、穏便な方向性に落ち着けるよう対処しなければ……!

 頭の隅でちらりと「ちょっと状況を楽観視しすぎてないか?」と思ったが、今の所この気持ちを曲げるつもりはなかった。

 クルトには今までたくさん助けられてきた信頼がある。ちょっと押し倒されたぐらいで、それは揺らがない。


 彼は何が狙いでこんな事をしているのだろう。そこをはっきりさせないと、対話しようとしても思いっきり滑るだけな気はしてる。

 うーん、素直に言ってくれるかは分からないけど、一応聞いてみよう。


「クルト、あなたはどういうつもりでこんな事をしているの?」

「はは、俺はあなたのその澄まし顔を一度ぐらいは崩してやりたいなと思ったんですよ。でも、突然使用人にこんな無体を働かれても、あなたはあまり動じませんね。もっと面白い顔をしてくれれば良かったのに」


 今のクルトは無駄に挑発的だ。いつも私に穏やかに接してくれていた優しい彼と同一人物とは思えない。


「何だか今のクルトは、刺々しい感じがするわ」

「場の雰囲気にあまりにもそぐわない事を言うんですね。お嬢様がここまで平和ボケしているとは俺も想定外でした」


 自分でも自身の事を正直呑気だとは思ってはいたけど、クルトにまでそんな感じの事を言われてしまった。

 流石にちょっと悔しい。私は思わず言い返してしまう。


「確かに平和ボケしてるのは否定しないけど、こんな事をしてる張本人に言われたくないわね」

「お嬢様は意外とすぐにムキになりますね。そういう所も可愛いと思いますよ」


 か、可愛い!?

 あれだけ私にも女性の使用人にも徹底して気を持たせるような事を言わず、どこか一線を引いていたクルトが、私に、可愛いって言った!?


 さらりと爽やかな笑み交じりで言われたその言葉に、私は瞠目した。

 正直、急に押し倒された事より、そちらの方が衝撃は上だ。

 

 私がその事に驚きだけでなく胸の高鳴りも感じている事に、苦々しさをおぼえた。


 こんな危機的な状況でよくときめけるなという自分への呆れもあるが、それ以上に封印した筈の気持ちに目を向けざるを得ない事に、嫌気がさしていた。


 この気持ちは今すぐ消してしまわなくては駄目だ。私は明日、親の決めた相手と結婚して、幸せにならないといけないんだから。


 家の為に結婚しないといけない伯爵令嬢の私が、平民の生まれの使用人に恋するだなんて、決して許されないのだ。




 クルトは自分の発言で動揺した私を見て、本気で不思議そうに首を傾げる。


「今の発言のどこにそんなに驚かれる要素が?」


 クルトには私の気持ちなんて分からないだろう。

 この「可愛い」だって、言葉の文脈や状況的に、ただ単にからかう事が目的で言っただけなのかもしれないのに、私はちょっと過剰反応しすぎている。

 流石にクルトには私が何故こんな風になっているかについては言えないけれど。


 クルトはひとしきり疑問そうな表情を浮かべていたが、「ああ」と納得したような様子で呟く。


「ひょっとして、お嬢様は俺に可愛いと言われて驚いてるんですか? 俺がそういう事を言うタイプではないから、と」


 クルトは一切の遠慮なく、核心の部分を一刺しで突いてくる所は変わらないな。

 ……クルトは本当に妙に鋭い人である。私の恋には一切気づいていない癖に。


「違うわ。クルトの考えすぎよ」


 私は猛烈に否定した。あまりにも勢いよく否定しすぎて、逆に嘘くさくなってしまった。

 クルトは「へぇ」と感情の読めない、何ともいえない表情になる。


「俺に可愛いと言われると、お嬢様はそんな顔をするんですね」

「う、だから別にその事は関係な……」

「お嬢様のそういう所を、この国から去る前に知れて良かったと思いますよ」


 ……クルトがこの国から、去る?

 私は頭が真っ白になる。一拍置いた後に続いて出た声は、自分で驚く程に掠れたものになってしまった。


「……クルトは、この国からいなくなってしまうの?」

「はい、残念ながら、お嬢様とは今生のお別れです。この国での俺の「仕事」が終わるので、母国に帰らないといけなくなりまして。俺は母国ではそこそこ重役についているので、いつまでもここに居れる訳ではないんです。お嬢様と一緒にいられなくなるのは残念ですけどね」

「……っ!」


 クルトは本当にいなくなってしまうつもりなんだ、という胸を切り裂くような感情と、クルトは一体どんな意図で今まで私の専属使用人をしていたのだろうという冷静な思考で頭がいっぱいになる。


「お嬢様には最後に、俺があなたの思うような優しくて善良な男ではないという事を、知っておいてほしかったんです。あなたが見ていた俺はただの虚像です。本当の俺は、あなたが信頼を置く事の出来るような男じゃない。もし今でもあなたが俺を頼れる専属使用人だと思っているのだとしたら、今すぐそういった幻想を抱くのはやめてくださいね」


 クルトは、私に使用人としてお菓子を持ってきてくれた時と同じような軽やかな口調で、何でもない事のようにそう言った。

 

 理解が追いつかない部分はあるが、クルトが言う「仕事」とは私の家で使用人として潜入する事で果たせる「何か」である事、それが恐らく裏で暗躍するような怪しいお仕事だった事は何となく察せてしまった。


 我が家は使用人を雇う時、これまでの経歴をあまり見ずに父様が人柄で選んでしまいがちなので、正直なところ危険なバックボーンを抱えた人間が入ってきてしまったらどうなってしまうんだとは思っていた。

 その不安が的中してしまうとは。でも、それがよりにもよって信頼していたクルト相手にとは、私も予想できなかった。


「クルトが、どういう経緯で私の屋敷へと来たのかは分からないけど、あんまり表では言えない事情でこれまでクルトが動いていた、という理解で良いの?」

「……はは、いつも冷静なお嬢様らしいご反応で。お嬢様のそういう取り乱さず理性的に物事を考えられる所は、結局この期に及んで変わってはくれないんですね」


 そういうクルトは本当に残念そうだった。

 本当にクルトは私が取り乱す所を見たくて、こんな行動に走ったのだろうか。

 私の前からいなくなるのなら、黙っていなくなる方がきっと彼にとっても安全だっただろうに。


「別に私は冷静でも理性的でもないわ。人並みに感情だってあるし」

「俺が言いたいのはそういう事じゃない。俺はお嬢様が強い感情に駆られる所を見てみたかったんですよ。あなたの本音の部分の気持ちに、いつか少しでも触れてみたかった。それが、結局叶いそうにないのが本当に残念ですが」

「クルトも結構いつも自分を律してるイメージがあったのだけど」

「仕事の時まで感情的な自分は持ち込みませんよ。俺は一応、公私混同はしないので」


 ……クルトは、今まで私に本当の本当に感情を隠し、偽りの自分を見せ続けていたというの?


 私はクルトが言う程自分の感情を律せる人間という訳ではない。気づけば、思ったままの事を口に出して言ってしまっていた。


「待ってよ、私の事を感情を見せないだなんて言っておいて、クルトも今まで本当の自分を大して見せてくれていなかったって事じゃない?」

「だから言ったでしょう、今までの俺は全部虚像だと」


 クルトは自嘲するように笑う。それはどこか他人事のように話しているように見えて、そこも正直ちょっといらっとした。

 私が恋したものはそんな嘘だらけのものだったと言うのか? クルトはあまりにも私の彼に向ける気持ちを軽く見すぎている。


 私は息をすうと吸い込み、ほんの少しの勇気を出して一息に告げた。


「言っておくけど、私だって本当のクルトともっと話したり、接してみたかった。私は……クルトの事が好きだから」

 

 私はそう言って、クルトの隙をついて彼の唇に自分の唇を押し当てた。

 クルトがこのまま一生私の前からいなくなるのなら、私はせめて、最後に自分のどこにも行くあてのない恋愛感情の葬式をしたいと思ったのだ。


 ……好きな人とのキスって、こんなに柔らかくて気持ちいいんだな。

 この感触をずっと覚えておけたらいいのに、だなんて一方的に唇を奪っておいて、あまりにも都合のいい事を考えてしまう。


 私は数秒触れるだけ触れた後、すっと唇を離した。

 これを大事な思い出にして、今後はクルトへの恋心は封印して生きていこう。

 家の為に政略結婚をして、伯爵令嬢としての責務をきちんと全うする。それが私の一番の望みではあるんだから。


 でも、本心を言うのなら、こんな形じゃなく、正面からクルトに告白できるような立場の女の子に生まれたかった。


 ……いやしかし、クルトも表だっては言えないような仕事を隣国までしにきてる人間だ。恐らくただ者じゃない。

 私は例え平民に生まれていてもこの気持ちは叶わない気もしてきた。どっちみち詰んでいるのかもしれない。


「……なんて事を、してくれるんですか?」


 クルトは震える声で私を責める。囁くような声量だったけど、その声はしっかり私に届いていた。

 私はキスをした後に俯いてしまいクルトの顔を見れていなかったが、彼は私の事をこれで嫌いになるに違いない。

 突然恋人でもないのにキスしてくるような女、普通に気持ち悪い。


 でも、そうする事で少しでも思い出に残れたらだなんて思ってしまう時点で、私は重症だったし、クルトへの気持ちで頭がおかしくなっていた。


 しかし、その後のクルトの反応は私の予想からはあまりにも逸脱していた。


「こんな事をされたら、このままあなたとお別れする訳にはいかなくなるじゃないですか」

「え?」


 そういうクルトの声音はどこまでも冷たいのに、どこか熱情を感じられた。


「どうしたの、クル……もごっ!?」


 クルトは素早いなおかつ手慣れていそうな動作でさっと取り出した怪しげなハンカチを私の口元に当てた。


「ちょっと、何するの!? やめなさい!」


 何とか抵抗しようとするものの、自分の意志とは反して、強い酩酊感と共に意識がどんどん薄らいでいく。


「あーあ、何やってるんだ、俺……こんなどう考えても悪手にしかならない事をするなんて」

「……クルト?」

「お嬢様、申し訳ございませんが、あなたには俺のものになってもらいます。運が悪かったと思って諦めてください」


 クルトが何だかすごい事を言っていた気がするが、言葉をきちんと理解できないまま、私の意識は暗闇へと落ちていった。

 

 そうしてこの日、私はクルトに、恋していた使用人に、誘拐された。





 ぱかぱかぱかと牧歌的な馬の足音と、グラグラと地面が揺れる感覚。

 私の意識が徐々に覚醒するにつれ、今いる所がイレギュラーな場所なんだろうなという実感がじわじわと湧いてきた。

 ここは、いつも目覚めている自分の部屋ではない。


「目が覚めましたか、お嬢様」


 耳元から低音でどこか色気のある声がぼんやりと聞こえてくる。この独特の心地よい声の持ち主なんて、思い当たる人間は一人しかいない。

 私は頭に強い痛みを感じつつも、おぼろげな頭を必死に覚醒させようと、溺れてるところから水面を目指すような感覚で意識を目覚めさせた。


 私がぱちりと目を開くと、うちの国では珍しくない綺麗な銀色の髪の毛が目に入った。

 ……この髪の毛は、恐らくやはりクルトだろう。


 私はドレスの胸元にさっと手を忍ばせるが、隠し持っていたナイフが見つからず、少し焦ってしまう。

 そんな私を見てか、目の前からふっと嘲笑うような声が聞こえた。


「お嬢様が隠し持っていた武器はこちらで全て回収しておきました。お嬢様に襲われたとしても俺はあなたを抑え込めますが、こんなに狭い空間で暴れられても面倒ですからね」


 声の聞こえた方向を見ると、うっすらと微笑んでいたクルトと目が合う。

 私はどうにか状況を整理しようと、彼に問いかける。


「ここは、ひょっとして馬車なの?」


 周りを見渡す限りでは、それ以外考えられない。

 貴族令嬢として人生で数え切れないぐらい何度も乗ってきた事はあるが、内装は今まで乗ってきたフローティス家専属の馬車とは大分違う。


 私はズキズキとしきりに痛む頭をおさえつつ、とりあえず状況を整理しようと更にきょろきょろと辺りを見渡してみる。


 私はどうやら馬車の椅子の所に横たえられていたようだった。

 クルトは馬車の床でしゃがみこんで、私の顔色を見ていた。こんなに揺れてる中でそんな体勢をしていて、気持ち悪くならないのだろうか。

 

「ご明察です。お嬢様は状況判断が早いですね。さすがフローティス伯爵家の門番と呼ばれていた方だ」


 フローティス伯爵家の門番というのは私の社交界でのあだ名だ。

 お人好しな父様が変な人に騙されて、変な事に巻き込まれないように頑張っていた内に、気づけばついていたものだった。


 本当は私より姉様の方がしっかりしていた筈なのに、姉様はあまり家の事に興味がないので、フローティス家で巻き起こる面倒な事は大体私のところにやってきていたのである。


「……その不相応なおかつ不本意すぎるあだ名を、偽りの姿だったとしても、フローティス家側だった人間に言われるのは複雑なのだけど?」

「ええ、今のは八つ当たりですから。理解が追いつかないであろう状況に、もっと取り乱してくれたら良かったのに、こんな時まであなたは平静なんですね」

「いいえ、結構これでも動揺してるわよ」


 正直、目覚める前にクルトとしていたやり取りも考えると、「これは不味い事になったかも」とは思っていた。


 目覚める前の私が何を血迷ったかクルトにキスまでしてしまっていた事も思い出した今、恥という概念で死にそうになってしまいそうな所ではあるが、問題はそこではない。

 その事は今気にするべき事ではないと無理やり思考の隅に追いやる。

 

 私は恐らく、私は今、クルトに屋敷から誘拐されているんじゃないだろうか?


 だとしたら、狙いは何?

 よくある話だと、身代金目当てとか?


 ……自分で言っておきながら何だが、それはないだろう。

 父様が慈善事業に出費しがちな人間な為、まとまった額のお金を出せる程フローティス家の財政状況は芳しくない事を、クルトが知らない筈ない。


 それに、クルトは隣国の人間で、我が家に潜入して正体不明の「仕事」をしていたらしい。

 そんな彼が身代金だなんて、そんな安直な理由で、私を誘拐する訳がないだろう。


 だとしたら。私はひょっとして、クルトの「仕事」にこれから利用されてしまう可能性がある?

 隣国からの任務という事は、それはうちの国に不利益をもたらす可能性すらある。


 私はとりあえず最悪の場合を想像しておこうと覚悟を決めた。


 黙り込み、思案に耽る私の姿を見て、クルトは苦笑した。


「冷静で頭の良いお嬢様はもしかしたら、俺があなたを誘拐したのは俺の母国からの任務でリングライト修道共和国に潜入した一件によるもので、俺が今からあなたを利用しようとしていると思われいるかもしれませんね」

「……ええまぁ、確かにその線もあるかもしれないとは思っているわ」


 リングライト修道共和国というのは私の住んでいる国の名前だ。

 名の通り、リング修道院と呼ばれる世界規模で信者のいる大きな教団がかなりの権力を握っている国なのだけど、それはおいといて。


 ついクルトからの問いかけに正直に頷いてしまったのは、まだ何も分からない状況の中で、どう返したものかと思ってしまった為だ。

 今の時点でクルトの思惑が読めない以上、駆け引きなんて出来ないし。


「ええ、普通ならそう思うでしょうね」


 クルトは戸惑う私を見て、「俺は馬鹿です、本当に」と苦々しげに言った。

 何者に対して向けたのか分からない「馬鹿」という言葉に私が首を傾げていると、クルトは何故か無表情に私の頭を撫で始めた。


 何を考えているのかこちらからは何も推し量る事ができない表情をしているが、クルトの私の頭を撫でる手つきは非常に優しかった。

 これは一体、どういう状況なんだ。


 クルトはふっと急に表情を緩めた。


「お嬢様も、人間をそんな珍妙な地底人を見るかのような目で誰かを見る事があるんですね」

「それはもちろん、あるに決まってるわよ。今のクルトは私には理解が及ばないもの」


 私は正直にそう答える。

 クルトが何故誘拐なんてことをしでかしたのかが何とも読めない以上、彼の考えている事も全く分からなかった。


「そうですか、それは良かった。俺もあなたを攫った甲斐がありました。こんな行動に出るなんて、俺もやきが回ったなと思っておりましたが、お嬢様にそういう顔をさせる事が出来た事で少しは報われた気持ちです」


 それは、彼の言葉を素直に受け取るのなら。


「私をさらったのはクルトの任務の一環ではなくて、クルトの独断なの?」

「そうです。お嬢様が他の男のものになるのが嫌で、こうしてさらいました」

「……え?」


 クルトの答えは私が全く予想していなかったものだった。


「俺はお嬢様を手放したくないと、あなたには俺の目の届く範囲の内でずっとずっと生きてほしいと、そう思ってしまったんですよ」

「……それは、どういうつもりで言ってるの?」


 一瞬だけ「クルトはもしかして、私に恋してるのではないか」というおめでたい思考が頭をよぎった。それはないだろうと無理やりそんな考えをかき消す。


 クルトはどこか困ったように苦笑した。


「どういうつもりだと、お嬢様は思いますか?」

「私には、そんなの分からないわ」


 私は首をふるふると振った。

 クルトの私へと向ける気持ちだなんて、クルトが使用人として仕えてくれていた頃だって真剣に向き合った事はない。

 私は私の事で、精一杯だったから。


「そうですか、本当に? お嬢様は俺のあなたへの気持ちに全く気づかずに、今まで生きてこられたのですか?」

「そんなの気づける筈なんてないわ。私は私のことで精一杯だったから」


 私はクルトと接する時、いつだって自分の気持ちを持て余していた。

 クルトに私が彼をどう思っているのか、ちゃんと隠さないといけない。そればかり考えていて、クルトが私にどういう感情を向けているかなんて、知るよしもなかった。


 でも、クルトのこの言い方だと彼は私に、任務のために仕えていた伯爵令嬢以上の感情があるのかもしれない。

 それが正の感情なのか負の感情なのか、それすら私には分からなかったけど。


 クルトは私の手のこうを優しく撫でる。

 それは艶やかで、まるで夜の営みに誘うような色気のあるものだった。 


 私がそんな彼の仕草にびくりと体を震わせる所を見て、クルトは余裕があるのかないのか分からない様子で言った。


「俺はあなたにどうやら、とびきり執着しているようなんです。こんな感情、本当なら任務の終了とと共に捨ててしまいたかったんですけどね」

「しゅ、執着?」

「ええ。本来ならあの後あなたの前から一生いなくなるつもりでしたが、お嬢様が変な事をするものですから、かっとなってここまで攫ってしまいました」


 ……執着? クルトが私に?


 それを俗に言う恋とか愛のような、甘ったるい意味で受け取ろうとしてしまう色ボケした自分を、頭の中で端の方へ押しやりつつ、私はクルトに問いかける。


「……つまり、クルトが私をさらったのは、単なる私情って事なの?」

「言ってしまえば、そうです。お嬢様にはこんな俺は嫌われてしまったかもしれませんね」

「……い、いや、別に嫌いでは」


 私は言葉を途中で止め、口元を押さえる。

 フローティス家にとって大事な大事な結婚式の前夜に自分を誘拐した男に対して、嫌いじゃないとかいうのはあまりにもどうなのだ。


 表情はつとめて変えないようにしていたが、私が内心で感情をさざ波立たせているのを気づいたのか、クルトはふっと表情を緩めた。


「そうですよね。お嬢様は俺の事を他の男に嫁ぐ前日にキスをする程に「好きだった」んですもんね」


 そんな風に挑発的に言うクルトに、私は羞恥心で顔が真っ赤になった。


 目覚める前に私がクルトにしてしまった事を思い出す。あれはこれでお別れだから出来た事で、本人にこうして指摘されると死にたくなる。


「あれは違うわ、これでお別れと聞いたから、私の存在をクルトに刻みつけたくなっただけよ」


 大変早口言葉にはなったが、よし、これで完璧に誤魔化せたはずと確信する。

 が、そうは上手くいかなかった。


「それは俺の事が好きだと言っているようなものでは? 俺の事が好きだから、俺に忘れられたくなかっただとか、思い出を作りたいだとか思ったのでしょう? 今まで付き合ってきた人間の中でもそういって俺に爪痕をつけようとしてきた女はいましたし」

「うっ!? ……違う違う絶対に違うわ、私はあなたみたいな誘拐犯なんてとっちめて、早く家に戻って、結婚式に間に合わないといけないんだから」


 私は焦りに焦った。ここまで的確に私からクルトへの気持ちを指摘されるとは。

 普段は一度考えてから言葉にするタイプの人間なはずなのに、今は頭が沸騰したような何も考えられない状態で、言葉だけが馬鹿みたいにすらすら出てくる。


「お嬢様って普段とても冷静な分、一回ペースを乱されるととことんポンコツになるんですね。初めて知りました、とても可愛いです」


 クルトは和やかにそう言った後、「でも、お嬢様は今、とても馬鹿な事をおっしゃいましたね」と剣呑な眼差しになった。

 クルトはグッと顔を近づけ、私の顎を大きな手で優しく掬うように持ち上げると、親指で唇をゆっくり撫でた。

 私は元から熱かった頬が更に燃え上がる。多分端から見たら真っ赤だったと思う。


「あなたは今、あなたに執着していると言った男の前で、他の男と結婚したいとおっしゃっているんですよ。そのことのご意味が、お分かりで?」

「全然、お分かりでは、ないです」


 クルトに至近距離まで接近されて、初めてこんなに触れられて、思考が緊張と胸の高鳴りで、停止してしまう。

 今、ちゃんと頭が動いていたら、クルトの言った言葉の意味がしっかり理解できたのだろうか。


「そうですか。なら、教えてあげます。これから、何も知らないお嬢様が男を知るのは、全て俺からのものになるんですよ」


 クルトはそう私に言い聞かせるように言った後、私の耳元に唇を移動させた。

 何だかくすぐったくて、どこか緊張感もあって、私は思わず体を少し震わせた。


「お嬢様、あなたに執着している男の前で他の男のものになるなんていう発言は、ただただ人を煽る結果にしかなりませんよ。狙ってもいないのにそんなことを言うお嬢様は、本当に俺にとって毒になり得る女だとしか言いようがないですね」

「ちょっと待って、耳がくすぐったくて、ゾワゾワして、話のないようが頭に入ってこないわ」


 耳元で囁かれ、私は色々な意味でのドキドキで硬直する中、クルトに訴える。

 しかし、クルトは涼しい顔で私のそんな言葉を受け流す。


「っふ、すみません、お嬢様。お詫びにもっとくすぐったくて、ゾワゾワする事をして差し上げますね」

「え?」


 クルトは私の首元に唇を移動させる。

 嫌な予感がして、「いや、ちょっと待って」と必死にクルトを止めようとする。


 しかしクルトは当然のような顔でそんな私の声を無視して、私の首元にリップ音を立てて唇を押し当てた。


 ビリリと少しの痛みと、それとはまた違った痺れが体に走った。


 私は頭が真っ白になる。こ、これ、もしかして、キ、キスマー……。


「何するの、この痴漢!」

「はは、申し訳ございません。先ほどから反応が本当に面白いですね」


 クルトは私から体を離し、向かいの席に座ると、唇をちろりと舌で舐めた。

 その仕草が何だか色っぽくて、ドキリとする。


 私は釈然としない気持ちになりつつ、首元に意識を取られないようにと深く考える事をやめた。

 こうして積極的に思考をそらそうとしている時点で意識しまくっているも同然だが、そういった事は敢えて考えないようにする。

 ああ、心臓に悪すぎる、本当に。なんて事をするのだ、クルトは。


「でも、これで、例えフローティス家に戻れたとしても、明日の結婚式には出れませんね」

「え?」


 クルトの言っている事の意味が分からず、私は首を傾げた。


「ウェンディングドレスで隠せない位置に、他の男の残したキスマークがある女なんて、花嫁失格ですから」


 た、確かに言われてみればそうである。

 新聞に「伯爵令嬢は不貞の花嫁!?」とかいう見出し記事としてのれそうなレベルだ。


「クルトには、そういう意図もあったの?」

「俺は俺のやりたいようにやっただけですよ」


 クルトはさらりと言った。

 私はいまやクルトに考えている事を見透かされ続けている気がするのに、私はクルトが考えている事が全然分からない。不公平だ。


「……今は俺の事を好きだと言っていても、俺の事をこれから色々と知っていけば嫌われてしまう可能性は大きいのですから、決して逃げられないように出来る手段は講じておかないと」


 クルトは私に聞こえない声でぼそりと呟いた後、おもむろに懐に手を伸ばした。


 何かを探しているような動きに首を傾げていると、いきなり馬車の車窓を開けて、懐に入れていた手を突き出した。

 ……私の見間違いでなければ、手には「銃」が握られていたような?

 目にも止まらぬ速さで行われたそれに、私は驚愕する。


 流石に生で銃をこんな近くで見るのは初めてだったので、少し背筋が凍った。


「ちょっと~……やめてくださいよ、せっかく迎えにきた「組織」の仲間に向かって銃口向けるアンダーボスがどこにいるんですか?」


 車窓の外から、パカパカと馬の走る音と共に若い男らしき人間の声がする。

 私は何者なのか分からない存在に警戒し、浮ついていた気持ちをすっと切り替えた。


「例え味方のように思える人間だったとしても、警戒は怠るなという事を実地で教えてあげてるだけだよ。「組織」で生き残りたかったら、ね」


 クルトは私に向けていた態度とは全然違う、ある意味では気安さも感じる様子で車窓の外の男に問いかけていた。

 話の様子を見るに、クルトにとっては「仲間」なのだろうか?


「任務先から連れ帰ってきたかわい子ちゃんにいい所を見せたかっただけではなく?」

「銃口を突き出してる所を見せて、いい男アピールをするなんていう発想を本気で信じ込んでるんだとしたら、それは裏社会に脳みそを染められすぎじゃないのか?」


 話している内容は物騒だが、軽妙な会話だというのは伝わってくる。

 銃口をつきつけてはいるものの、仲は良いのかもしれない。それってどういう関係性なのか、理解がおいつかないけれど。


「えぇ~…? もしかして、表社会の人間を連れ帰ってきたんですか? あの無駄な面倒を好まない俺らのアンダーボスが? あんた、本物のクルセイド様ですか?」

「はは、それだけ俺はこの子に惚れ込んでいるんだよ。この子を害したら、そいつ本人とその周辺の人間と一族郎党の死体が山ほど積み上がるかもな」

「はぁ~、おっかね。あんた、間違いなくクルセイド様だわ」


 と、馬車の動きがゆっくりと止まる。

 突然だったが、クルトの知り合いが来た事で、何か状況に変化があったのだろうかと察した。


「お嬢様、降りましょう。足がつかないように移動手段を切り替えます。ここからは馬に乗っての移動です」

「このタイミングで私が逃げないとでも思うの?」

「俺が逃がすと思いますか?」

「……私は、あなたからいつかは逃げてみせるけど」

「俺の事を好きなのに、俺がいない所で幸せになるつもりなんですか?」


 そういってせせら笑いながら、クルトは銃を持ち直し、私に向けようとする。

 一瞬動揺するが、私に銃口を突きつけて脅さないと逃げられると思ってるのかもしれないと頭の片隅で思う。

 なるべく冷静に対処しようと思っていると、クルトは私にとっては予想外の行動に出た。

 

「なーんてね。俺があなたに銃口を向けると思いますか?」

「……え?」


 クルトは私へ向けていた銃口をあっさりさげる。

 次の瞬間のクルトの動きに私は目を見開いた。


「…………っ!?」

「ちょ、痛い痛い痛い!」


 クルトは馬車の扉を開き、外にいた青年の頭を掴んで彼の額に銃口を突きつけていたのだ。


「この男は「組織」の中でもただの小間使いです。いてもいなくても変わらない男ですし、馬を届けるという役目は今、果たしてくれました。あなたが逃げるのなら、この男を今ここで、殺しますよ」

「何でそんな事をするの!?」


 慌てて立ち上がって青年を解放しようと出来る事はないかを考えるが、下手な事をしても、恐らく青年が酷い目にあうだけだと考え直す。


「何でもなにも、あなたに対して一番有効になる手がこれだからですよ。あなたはフローティス家当主に負けず劣らず、お人好しな人間ですから」

「……あなたは、それだけの理由で人一人の命を簡単に弄べるの?」

「この人はそういう人っすよ、ご令嬢。クルセイド様は笑顔で人間の一人や二人、海に沈められる人です」


 それまで黙り込んでいた青年がおもむろに口を開いた。

 青年はどこか諦めたような顔で苦笑いしていた。自分の命がかかった状況でこんな顔が出来るのもすごいなと驚く。


「ご令嬢、あんたはどうやら合意なくここへ連れられてきたようですが、この男はあんたのような育ちの良さそうなお嬢様が相手に出来るような男ではありません。俺は自分の事は自分で何とか出来ます。あんたは自分の事だけ考えて、とっとと逃げてください」


 ……この状況でこういう事を言えるなんて、頭が下がる思いだった。例え裏社会の人間だったとしても。


 とはいえ、絶対に見捨てる訳にはいかない。

 私は必死に頭を動かし、色々とこの状況を覆す方法を考えていたが、「詰んでいる」を察すると、体から力がふっと抜けた。


「……分かった、私は「今」は逃げないわ。でも、その代わり……もうこんな手段で私を脅さないで。次にやったら、私は自分で自分を殺すから」


 私はクルトを睨みつける。


「あなたが私に執着していて、こういう事をしているのなら、私に死なれたら困るでしょう。こんなベタな手、一回しか騙されてあげないわ」


 私は内心の震えを感じ取られないよう、出来るだけ毅然と言い放つ。

 クルトは「あなたらしいですね」といって苦笑いし、青年を解放した。


「普通のご令嬢だったら、こんな安っぽい手段でも、永遠に俺に縛り続けられてくれていたんでしょうけどね。そういう所も好ましいと思いますよ、お嬢様」

「まぁ、今の回答はマフェアのアンダーボスの女としては優しすぎて不合格ですけどね! 俺みたいな下っ端ぐらい、俺たちの姐さんになるなら見捨てられるぐらいじゃないと駄目ですよ」


 青年はクルトともう捕まらないようにか、しっかり距離を取った後、大きめなため息をついた。

 この人にこんな事を言われるのは、ちょっと釈然としないような気もするが、銃口を向けられていた時も落ち着いていたし、ある意味すごく冷静な人なのかもしれない。


 ……ん? この人の言うマフェアのアンダーボスの女って、一体?


「ひとまず、今回はアルテミス帝国内の東の拠点へと戻ります。本部へ戻るのは、そこでリングライトで得られた情報や成果を整理してからです」

「この子もいますしね。流石にこんなお嬢様っぽい子を、すぐにあの魔窟へ連れてくのは可哀想かも」

「……はは、この方のいたリングライト修道共和国の貴族社会はある意味、あの魔窟に負けず劣らずな所はありますけどね」

「は? あんた、貴族のお嬢様を連れ帰ってきたのかよ、馬鹿ですね!?」

「流石に否定はできませんね」


 彼らの会話を聞きながら、私はある仮説を立てた。

 仲間内で銃口をつけつけても、平気で日常会話で戻れる異常さ。言葉の端々で出てくる用語たちも総合して考えるに。

 本当に、心の底から信じたくはないけど、まさか。


「もしかして、クルトって私たちのリングライト修道共和国の隣国、アルテミス帝国のマフェアなの?」


 青年は「あ~そこから説明しなきゃか」と困ったように言い、クルトは薄く笑う。


「ええ、俺はアルテミス帝国のマフェア……通称、「組織」と呼ばれているところでアンダーボスをやっております」




 アルテミス帝国というのは、近年存在感を増し続けている、私の住んでいたリングライト修道共和国の東側に位置する隣国である。

 リングライトとアルテミス帝国の仲は険悪という程ではなかったが、独特の緊張感は孕んだ関係性ではあった。


 隣り合った関係にある、勢力を増してる新興国と歴史ある宗教国家、だなんて客観的に字面だけ見てもそこまで仲良しには聞こえないだろう。

 外交担当の方々の努力によって目立ったいざこざが起こる事もなかったものの、国民同士はお互いの国に、距離感と若干の拒否感は感じていた。


 本当に微妙な関係の両国同士な訳なので、確かにスパイの一人や二人ぐらいお互いの国で行き来していそうだとは姉様と話していた事はある。

 だがしかし、まさか私の家にアルテミス帝国の人間が潜入しているだなんて、流石に想像が及ばなかった。


 フローティス家に戻ったらまず最初にする事は、父様によるガバガバ使用人採用試験の是正である。


 とはいえ、クルトに関しては私の専属使用人だった訳で、私がしっかりしていれば正体に気づける機会はたくさんあった筈なのに、完全に信用してしまっていた。


 何がフローティス家の門番だ。フローティス家だけどころか、リングライト修道共和国も巻き込むような事案に事前に気づけなかっただなんて、あまりにも不甲斐ない。


 やはり、私ではフローティス家を守り切れない。私より何倍もしっかりしている姉様に頑張ってもらわないと。

 フローティス家に戻ってやるべき事は山ほどあるなと、焦燥感は募るばかりだ。



 しかし、今の私の状況はそんな心中とは真反対の状況だった。

 私自身は一刻も早くリングライト修道共和国の実家に戻りたいのに、何故かリングライトとアルテミス帝国の国境に向かう草原にて、クルトによって馬に乗せられ、アルテミス帝国へと連行されそうになっていたのだ。


 あれから移動の最中に、夜が開けていく中で、森の中で3時間ほど休憩を取り仮眠もしたが、普段とは違う環境で寝たせいもあってか、あまり調子は良くはない。


 これからの事を考えて鬱々としてしまうのもあり、正直、若干吐きそうだ。



「えー、じゃあ、サーシャ嬢はマフェアの事なんて何も分からないし、アンダーボスってそもそも何? 単なるボスとどう違うの? って感じなんですか? クルセイド様、よくこんな何も知らないズブの素人を連れてきましたね」

「ノーコメント……と言いたい所ですが、お嬢様のご性質上、決して今後についての勝算がない訳ではありません」


 そう言いつつ、クルトはとても悪い顔で微笑む。


「でも、最悪の事態になった場合は責任を取りますよ。俺の力があれば最悪、徹底的に囲ってしまえば、一生守りきるぐらいなら出来ますからね」

「うわぁ、それってサーシャ嬢にとってはさよなら自由こんにちは監禁みたいな感じですよね? 可哀想に。人権とか色々なものを無視してますよ」


 クルトはどこに向けているのか分からない嘲笑をした。


「別に、俺を貴族令嬢を攫うような馬鹿な酔狂をさせるまでに成り下がらせたお嬢様に、責任を取って頂こうと思っているだけですよ」

「……いやぁ、俺もまさか貴族のお嬢様にあなたが夢中になるだなんて想像してませんでしたけどね」



 クルトと、あの後オズと名乗ってくれた青年が馬に乗りながら、どうやら私について会話している。

 私はクルトと一緒に馬に乗っているので、背中越しに声が聞こえるが、何だか内容はとても物騒に聞こえた。


 しかし、私は一切口を挟む気になれないまま、今の状況や今後について考えては鬱々とした気持ちになっていた。


 このままアルテミス帝国に連れていかれてしまっては、恐らくリングライト修道共和国に戻るのはかなり難しくなる。

 かといって、私は昨夜、クルトと約束してしまった。オズさんの命を担保に、今回ばかりはクルトから逃げ出さないと。

 そんな約束を律儀に守る必要もないのかもしれないが、この約束を破って逃げて、それが失敗した場合、かなり酷い目に遭わされそうな予感しかしなかった。


 そして、(いつも遊び歩いているとはいえ)聡明な姉様もいたフローティス家の中にて、私達の目を欺き続けてきたクルトを、今この状況で出し抜ける気がしなかった。


 自分の気持ちとしてはクルトから今すぐ逃げ出したいところだが、今は冷静に状況を見極めて、情報もなるべく引き出して、十全に機会を見計らってからの方が良いのかもしれない。

 ……味方も一人もおらず、マフェアだという男たちに囲まれているこの状況に臆病になっているのもある。私は元来、そこまで気が強くはない。


「クルセイド様、お嬢様に「組織」についてとか、ご自身の立場について、ある程度説明しておいた方がいいんじゃないですか?」

「そうですね、拠点につく前に説明しておいた方が色々と都合がいいでしょう。心構えはしていてもらうに越した事はないですからね」

「……分かった、聞かせて」


 私は「今後マフェアの拠点で過ごす為に必要な知識」など、自分の気持ち的には聞きたくなどなかったが、現実問題それがないと今後の自分が困る事は分かっていた。


 状況を受け入れたくはないが、受け入れざるを得ない。それが今の私である。


 クルトは「お嬢様は賢明ですね」とくすりと笑い、馬の手綱を改めて握りしめた後、口を開いた。


「俺たちの所属している「組織」はアルテミス帝国の裏社会に存在しつつも、国家から公然の秘密として認められている、国の中で一番大きいマフェアです」

「国からの依頼を受ける事も結構ありますし、アルテミス帝国国家はマフェアを撲滅するよりは上手く利用するという考えなんですよね」


 それは何というか、良くも悪くも。


「リングライトと比べると大分考え方が柔軟な国なのね」

「そこでそう捉えるのは、サーシャ嬢はリングライトの貴族のお嬢様としては結構変わってるんじゃないですか?」

 

 オズさんは呆れと関心が混ざった様子で言った。


「当たり前でしょう。俺が気に入って攫ってくるぐらいですからね」

「それは確かに」


 クルトが訳知り顔で言うと、オズさんは納得したように頷く。

 なんとなく釈然としないものを感じ、私は少しむっとした。


「変わっているといわれても、これからお世話になる隣国の事だから、きちんと私自身の判断基準を大事に捉えていきたいわ。というか、リングライトの貴族令嬢にどんなイメージを持っているの? 皆、私と同じような子たちよ」


 しかしクルトは私の言い分を、はっと鼻で笑うと、オズさんに解説をいれるかのように言った。


「オズ、これはお嬢様の前では皆いい人のような顔をするからなんですよ。お嬢様のようなタイプの善人の前では皆、善人の皮を被りたくなるようです」

「は~、世の中にはそういうタイプの人間もいますよね。この人の前では良き自分でいたいみたいに思える人。クルセイド様はそんなサーシャ嬢の前で悪人的行為を昨夜からしまくってますけど」

「俺はむしろお嬢様のそんな善人面の裏にあるものを見たい派の人間なので」

「やっぱ趣味悪~」


 二人の仲の良いのか悪いのかいまいち分からないやり取りを聞き流しながら、ふと疑問に思った事を聞く。


「ずっとオズさんはクルトの事をクルセイド様って呼んでるけど、ひょっとして本名がそれなの?」


 大分今更感のある問いだが、聞くタイミングがなかったというのはある。

 隠す事でもなかったのか、クルトはさらりと答えてくれた。


「俺の本名は別にクルトでもクルセイドでもありませんが、リングライト修道共和国ではクルトと名乗り、『組織』の中ではクルセイドと名乗らせてもらっています。お嬢様は俺の事をどちらで呼ばれても構いませんよ」

「あぁ、そういう感じなのね。何だか裏社会の人間っぽい話……」


 ふと「クルト」という名前は本名ではなかったのかと思うと、寂しさのような感情が湧いてきた。

 クルトは昨日の夜、これまで私の前で見せてきた自分の姿は全て虚像だったと言っていたけど、名前もそれの一つだったのだろうかと思うと、少し気落ちしてしまいそうになる。


 ……本当はクルトの事を敵視して憎むべき事態だと思うのに、どうしてこんな事を考えてしまうのをやめられないんだろう。


 クルトが平気で人の命を弄ぶ人だというのは昨夜の事で分かった。アンダーボスという言葉はピンと来ないけど、マフェアの中での恐らく重役だというのはよく分かる。


 オズさんもクルトに軽口は叩いてるけど、クルトの残酷さについては本物だと認識した上で普通に接せるような人だというだけで、私には彼のそういう所を受け止められるとも思えない。


 ……私は、マフェアとして生きてきた彼らとは、あまりにも違いすぎるだろうから。

 

 この事について考えていると泥沼な思考になってしまいそうだったので、私は小さく頭を振って今は考えない事にした。

 ……もしかしたら、いつか、向き合いたくなくても向き合わなくてはいけない時が来るのかもしれないけど。でもそれは、今でなくてもいい筈だ。


「私はこれからもクルトと呼ぶ事にするわ。私の中ではそちらの方が呼びやすいから」


 私は思考を切り替え、背中越しのクルトを少し振り返って見つつ、言った。


「あなたの中で俺はまだ隣国のマフェアの「クルセイド」ではなく、あなたの専属使用人の「クルト」のままなんですか?」


 ……すごい返答しにくい事を聞いてくるな。


「そういう変な勘繰りはしないで。昨日までクルトと呼んでいたのにクルセイドとか急に呼ぶのはやりにくいだけだから」

「サーシャ嬢の言う事も最もですね。クルセイドよりもクルトの方が断然呼びやすいですし。クルセイド様は本当に一々下衆の勘繰りをするのがお好きで困りますわぁ」

「そうよそうよ」


 私はオズさんの言い分に乗っかって援護射撃をする。

 オズさんは必ずしも私の味方になってくれる訳ではなさそうだが、こうしてたまに助け船を出してくれる。

 クルトに下っ端と言われつつも重役であろうクルトに対して強気に出ても咎められないし、ちょっと不思議な人だ。


 本当はどういう立場の人なんだろう。


「この付近の町で仲間と合流する約束もしておりますから、そろそろ休めますよ、お嬢様。少々お疲れのようですから、ゆっくりベッドのある所でお休みになられた方がいいでしょう」


 クルトはどう思ったのかは分からないが、どうにか話を切り替えてくれた。

 良かった、話題が流れたと私は安心していたのだが、オズさんは胡乱な眼差しでクルトを見て言った。


「……露骨に話題をそらしてきますねぇ」


 ……せっかくこの話が上手い具合に流れそうになっているのだから、そういう余計な事は言わないでいいのに……。

 さっきはオズさんが救世主に見えたが、今はほんの少し憎らしく思えてしまう。

 クルトは涼し気な顔で言った。


「ただ単に、こういう類の話は変に茶化してくるオズのいる前ではしない方が良いなと思っただけですよ。お嬢様と密に話したい時は、やはり二人きりの時の方が良い」

「……なるべく、私はクルトと二人にならないようにするわ」


 今の私にはそうとしか言いようがなかった。

 クルトの言う事は深くは考えないようにしよう。



 そういえばいつの間にか話が流れていて、話したいと言っていたクルトの組織内での立場とやらについて全然聞けていないのだけど、良いのだろうか。

 もしかしたら、拠点とやらにつくまでに聞けていればいい話なのかもしれない。


 ……自ら進んで問いただしたい話でもないので、そこについて私は敢えて聞く事はしなかった。




 今のクルトは私にとって得体の知れない存在になりつつあるのだが、そもそも今思えば元々クルトはフローティス家で私の専属使用人をしていた頃から、自分の事をそこまで語るような人物ではなかったように思う。


 出身についても聞いた事はなかったし、どこで育って、これまでどういう人間関係を築いてきて、どういう思い出を抱えて生きていたかという話もあまり聞いた事がない。


 誰に対しても深くは踏み込まず、誰に対しても深くは踏み込ませない。それがクルトという人間だった。


 クルトがそんな存在でも浮かなかったのは、重ね重ね言うように、フローティス家当主である私の父様がどこにも行き場所のない訳アリな人を優先して雇うような底抜けのお人よしだった為である。


 純粋に働きたい意志はあるけど他に行ける場所がない人たちに、フローティス家で仕事の場を提供するのは悪い事ではないとは思う。

 今思えば本当に怪しい人は姉様が上手い具合に弾いてくれていたし。やっぱり真のフローティス家の門番は私ではなくて姉様なんじゃないかと思えてきた。


 しかし、その姉様の目もかいくぐるような人間がフローティス家に入ってきてしまったら、打つ手はもうないというのを完全に失念していたのが、今の状態という訳である。


 これまでがすごすぎる姉様の力で上手く行き過ぎていたのが、逆に警戒心を緩くさせてしまっていたのか。私達が呑気すぎたのか。多分両方かもしれない。


 クルトは我が家に3年も仕えていてくれていた中で、私達から見ると全く不審な動きはなかった。

 疑うどころか、正直言って心から信頼してしまっていた。もっと気をつけて彼を見れていれば何か違ったんだろうか。


 クルトは本人の言い方を聞いている限りでは、我が家を狙うというよりはリングライト修道共和国の内部に潜入する事を目的で我が家に狙いを定めたようだった。


 フローティス家は一応伯爵家なので、他の有力貴族や商人たち、場合によってはリングライト修道院の方とも交流があるし、確かに内部に潜入出来たら色々と暗躍が出来るのは間違いない。


 クルトは特に私の専属使用人だったから、私が行く社交の場に同席する事もあり、他の使用人よりも格段に幅広く悪い事がしやすかっただろうというのはあった。


 クルトが何をしたかったかというのは分からないけど、本当ならそれを探り出して、場合によってはリングライト修道共和国の最高会議で報告する必要はあるんだろうと思う。

 本当に場合によっては、国家の危機になる可能性もあるのだから。(ちなみにリングライトは共和国なので政治を貴族全体で行っており、王族などといったものは存在しない。その代わりにうちの国を本拠地にしているリングライト修道院がかなりの発言権を握ってはいるのだけど)


 しかし、私はリングライト修道共和国の全体の事よりも、自分の家であるフローティス家の進退の方を大切にしてしまうような浅ましい女なので、クルトの思惑を探るなんていう時間のかかりそうな事は優先するつもりはなかった。

 とりあえず真っ先に自宅に帰還して、政略結婚を無事に完遂させる事を頑張りたい。


 ……私の人生は、フローティス家とそれに仕える者たちの繁栄の為にあるのだから。


 これは私だけが特別なのではない。他の国以外の国の事は分からないけど、少なくともリングライト修道共和国の貴族の子息子女達は家の為に生きている。お姉様のように自由に生きる事の出来るタイプの人もいるけれど、あの人は特別だ。


 だから私は早く家に戻らないといけないのだが。本当にそうなのだが。


 ……何故か今、私はクルトとオズと一緒に、ずっと行きたいと思っていたレストランにて、ずっと食べたいと思っていたとある料理を目の前にしていた。


「お嬢様はこれがずっと欲しかったんですよね?」

「…………」

「サーシャ嬢に一々やたらと意味深な事を言わないと死ぬ病気にかかってるんですか? サーシャ嬢が困ってるじゃないですかー」

 

 いや、私が困っているのは、もしかしたら一生行けないかもしれないと思っていた、念願のレストランに行けた事が正直嬉しいのに、今の状況的に素直に喜べない事なのだが。

 本日は、本当なら結婚式だった日から、もう既に一日も経ってしまっている訳だから、本当ならこんな所で呑気に時間を浪費している場合ではない。


 今現在、私はフローティス家と関係の悪い、とある伯爵の保有領・レゾナンスにある町・セミフィリアにて朝ごはんを食べている所だった。

 クルトが寄ると言っていた町はそこだったのだ。私はセミフィリア自体、ずっと行ってみたいと思っていたし、このレストランでのみ食べれるとある料理に確かに憧れがあった。


 しかし、当然ながらフローティス家と仲がよろしくない貴族の土地になんて行ける筈がない為、行ける訳がないと諦めていたのだ。

 だから、クルトから仲間との合流に使う町がここだという話を聞いた時は「まさか」と本当に驚いた。

 この町に足を踏み入れた時、私は内心色んな意味でドキドキだった。


 昨日私達はセミフィリアにつき一晩宿でゆっくりした後(クルトとはまさかの同室だった。色々大変だった)、本日、こうしてこのレストランにて朝ごはんの為に集まった訳だが、まさかこんな展開になるとは。


 本来なら昨日行われる筈だった結婚式は今頃どうなっているのだろうか、と大変心配な気持ちはあるけれど、それはそれとして目の前の料理に目が奪われてしまう。


「お嬢様、俺が勝手に注文してしまいましたが、前に話してくださったお嬢様が食べたいと言われていた料理はそちらで間違いありませんよ。お口に合うと良いのですが」

「……うう」


 ……クルトはどこまで、意図しているのだろうか。

 セミフィリアに憧れがあり、そこにあるレストランに行ってみたい、そしてこの料理を食べてみたいとは、確かに昔、言った事が一度だけあったけれど。


 あんな些細すぎるやり取りを覚えていてくれたなんて、私は思っていなかったのだ。




 私がクルトに対してセミフィリアへの憧れを話したのは1年ぐらい前の事だったと思う。

 自分からノリノリで語ったというよりは、どちらかというと話の流れで喋ってしまったという感じだった。

 

『お嬢様は寝る前にルイボスティーをよく飲まれますが、こちらは最近庶民の間で流行りだしたものですよね。まだ貴族の間ではそこまで浸透しておりません。お嬢様はどこでお知りになられたのですか?』


 それを聞かれたのはちょうど寝る前、クルトにそのルイボスティーを運んできてもらっていた時だった。

 確かにルイボスティーはリングライト修道共和国の貴族社会の間ではまだあまり浸透していないので、この事はいつか誰かには聞かれるかもしれないと思っていた。

 私は寝る前にいつもクルトにお茶を運んできてもらっており、その際によく雑談をする。

 クルトは色々と話を振ってくれたりもするのだが、話題として無難かと思って選んでくれたのかもしれない。

 実際はフローティス家の中で話すのには結構難ありな話だったのだけど。


 しかし、その時の私はクルトを心から信頼していた為、躊躇いなく話す事に決めてしまったのである。


『ううん、まぁクルトになら言ってもいいかしら。厳格に内緒にする程の事でもないのかもしれないけど、念のため他の人には話さないでね』

『……分かりました、誰にも話しません。私を信用してくださってありがとうございます』

『クルトは口が堅そうだもの。すごく信頼できるわ』


 私はクルトの淹れてくれたルイボスティーを一口飲んだ後、少し言葉を選びながら話し始めた。


『私がルイボスティーを知ったのはセミフィリアに行くのが好きだといっていたレゾナンス領の一部を運営している男爵令嬢の子から、なの』

『レゾナンス領という事は……ひょっとして、我が家の旦那様が散々痛い目に遭わされては、サーシャ様のお姉様に返り討ちにされてるあの伯爵家絡みの方なんですか?』


 クルトは流石に怪訝そうな顔になる。

 レゾナンス領というのはそれだけ我が家では言ってはいけない言葉だった。


『ええ、その通りよ。どうやらその子はうっすら血のつながりがあるみたい。あの伯爵家とはそこまで密な関わりはないみたいだけど、だからといって深入りして付き合っていい相手でもないから、交友がある事はフローティス家の中ではあまり話さないようにしているわ』

『賢明なご判断です。我が家でレゾナンス領の話は禁句ですからね。まぁ旦那様だけに関して言えば、あまり気にされないでしょうが』

『あんなに痛い目に遭わされてるのに、父様は懲りないのよね。お人好しも過ぎると本当に厄介だわ』


 私は思わず虚ろな目になってしまう。

 父様は何度騙されても、レゾナンス領の伯爵家に対していまいち警戒心は薄かった。

 父様に対して何度も思った事だが、本当に呑気すぎではなかろうか。

 

 クルトは「こちらは軽くつまめるお茶うけです」と言って、私の前にクッキーの皿をそっと差し出しつつ、話題を元に戻す。

 

『セミフィリアとは、レゾナンス領の中にある町ですよね? あの、貿易を中心とした商売で栄えている事で有名な』

『そうよ。私はね、実はあの町の事が実は嫌いじゃないの。行った事はないけれどね』

『それはまた、どうしてですか?』

『経営の仕方に無駄がないからよ』


 私はクルトのくれたクッキーを『ありがとう』と言って食べつつ、何と伝えたものかと、口に出す言葉を探り探り考えてく。

 このクッキーは甘さ控えめで、夜に食べても太る心配もなさそうな食べごたえで良い。やはりクルトのお菓子選びには信頼が持てる。


『あの町はどんな国で生まれたものだとしても、良い商品であれば、余計な先入観もなく受け入れられるの。このリングライトではそれは珍しい事でしょう?』

『……お嬢様、それは』


 クルトは困ったように口ごもるが、私の発言を否定する雰囲気ではなかったので、そのまま喋り続ける。


『セミフィリアからやってきて、国全体に発展した文化も多くてね。その男爵令嬢が言うにはルイボスティーもその一つらしいわ。あの町がなければ、このリングライト修道共和国はもっと閉鎖的な文化の国になっていたに違いないわ』

『……お嬢様、それは』


 クルトが困った顔をしているのに、ついつい熱っぽく語ってしまうのを止められない。


『私は良い文化が適切に広まらないのは、罪悪だと思っているわ。私がルイボスティーを飲み続けているのも、そうする事で少しでも庶民の間だけでなく、貴族社会にもこのお茶が広まる事を祈っての事なの』

『お嬢様、私の前だからいいものの、他の人間の前で明け透けにそういった事を語るのはやめた方がいいでしょう。お気をつけくださいね』

『私は人を選んでいるわ。クルトならこの話をしても受け入れてくれる気がしたの』


 私はクルトを見つめてにっこり笑う。今となっては突っ込み待ちかもしれないが、その時は私は姉様ほどではないけど、多少は人を見る目はあるつもりで彼にこの話をしていた。

 クルトは押し黙ったまま、視線を反らした。恐らく、クルトにも何か思う所があったんだと思う。


 しかし、確かにいつまでもこういう話を続けるのも危険ではあるので、私は話を変える事にした。


『まぁでも、そういう私の思想みたいなのは抜きにして、一回セミフィリアには行ってみたいわ。その男爵令嬢の子が言っていたのだけど、「オムライス」っていう美味しい卵料理を出す、素敵なレストランがあるんですって。是非とも訪れてみたいわ』

『……お嬢様はあの料理を食べたいのですか?』


 クルトは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていた。

 その反応を不可解には思いつつ、私はオムライスについて更に語る。


『……? ええ。その「オムライス」って料理はとても美味だそうよ。女性に人気があるそうだけど、卵をふんだんに使うから、中々この国全土に広めるのは難しいみたい。セミフィリア内でもオムライスを扱うレストランは一軒しかないそうよ』

 

 クルトの言い方に違和感を覚えつつ、私はオムライスの説明をした。

 元々この国は上層部にいるリングライト修道院の戒律の影響で、菜食主義だ。卵や肉などの動物性食品を食べるのは最低限で、必要以上にたくさん摂取するのは好まれない。


 だが、オムライスは卵をたくさん使う事でふわふわのオムレツを作り出すお料理なのらしい。正直、今まで少量の卵で作られた薄焼きのオムレツしか食べた事のない身としては一度食べてみたい料理ではあった。


『確かにそういった料理がこの国に広まる事は難しいでしょうね。いつか奇跡が起きて、お嬢様がセミフィリアでオムライスを食べれる日が来ることを祈っています』

『……別にいいのよ、私は。フローティス家の平穏を乱してまで、行こうとは思わないから。別に生涯オムライスが食べれなくてもそれはそれで仕方がないわ』

『お嬢様は、本当に貴族としてあまりにも正しい方ですね。ご自身の生き方として、それが染み付いてしまっている程に』


 クルトの言葉に込められた意味はその時の私には分からなかったが、恐らく肯定なニュアンスで言った訳ではないのかもしれないな、とは流石に感じ取っていた。




 そして今、まさにクルトの言った奇跡が起きている訳だが、正直困惑が止まらない。

 というか、私は一応フローティス家の人間な訳で、ここにいる事がもしレゾナンス領側の人間にバレたらものすごく大変なおかつ面倒な事になるのではないだろか。大丈夫なのかこれ。


 私は目の前にある、ふわふわの卵がたっぷり使われたオムレツのかけられた混ぜご飯を、スプーン片手に見つめていた。

 オムレツの上には若干黒みがかった茶色いソースがかかっているが、クルトが言うにはデミグラスソースというらしい。こちらもあまり見た事がないが、何だか美味しそうだ。


 横にはすでに淹れられているストレートの紅茶にミルクを入れる「ティーウィズミルク」で作られたミルクティーではなく、ミルクにそのまま茶葉を入れて紅茶として淹れる方法で作られた「ロイヤルミルクティー」がある。このロイヤルミルクティーというものは初めて知ったが、オムライスと一緒でセミフィリアにはあるがリングライト修道共和国ではそこまで広まっていない、異国の料理だ。


 自分がセミフィリアにいていいのかとか、行われる筈だった結婚式にも出席できなかったのに呑気に美味しそうな朝ごはんを食べていて良いのかという気持ちはどうしても拭えなかったが、ずっと食べたかった未知の料理を前にして、胸のドキドキが抑えきれなかった。


 ……でも、ここで美味しく食べてしまったら、何かに負ける事になるような。

 私はスプーンを片手に持ちながらも、料理を食べないまま、プルプルと体を震わせていた。


 そんな私を見かねてか、クルトが口を開く。


「……お嬢様、俺は実は、あの時お嬢様に話を聞く前から、オムライスを既に知っていました」

「そうだったの」


 ……何を言い出すかと思ったら。


 確かにクルトはリングライト修道共和国の人間ではなく、異国の人間だった訳だから、異国の料理であるオムライスを知っていてもおかしくはないかもしれない。

 しかし、クルトの話は私の考えとはまた違う方向性のものだった。


「オムライスは、俺の故郷にもある、俺の母親が唯一作れる料理だったんです」

「………クルトの、お母様が?」


 それは私が初めて聞く、クルトの身の上話だった。


「ええ。俺の母親は非常に不器用でしたが、そんな母親でも美味しく作れるような、料理初心者でも取っつきやすい料理なんです、これは。俺の家はそこまで裕福ではありませんでしたが、庶民の間では特別な日に食べる料理で、俺は誕生日の度にオムライスを食べていました」

「クルトにとって、ひょっとしてオムライスは特別な料理なの?」

「そうかもしれませんね。だから、お嬢様があの日、オムライスを食べたいと言ってくださって、正直嬉しかったですよ。それと同時に、寂しさも覚えましたが」

「え、何で?」


 私は思わず気になって聞いてしまう。


「お嬢様はオムライスを生涯食べれなくてもいいと仰っておりましたから。俺の思い出の料理をお嬢様が食べられないとお話しされている事は、俺にとっては複雑でした」


 ……それはまるで、私に自分にとっての思い出の料理を食べてほしかったとストレートに言われているようで、私は驚いてしまう。

 いや、まるでも何も、クルトの言い分を素直に受け取るなら、そうとしか聞こえない言葉なんだけど。


 クルトが私に対してそんな事を思ってくれていたなんて、ちょっと……いや、正直に言えば、かなり嬉しい、かもしれない。私は本当ならそんな事を思ってはいけないのに。


「クルトがあの時そんな事を思っていたなんて、全然知らなかったわ」

「あの時のお嬢様に俺がそんな事を言う訳にはいきませんでしたから」


 それはその通りだろう。クルトは自分の身の上を隠していた訳だから。

 あの時点でのクルトがオムライスなんていうリングライト修道共和国ではまだ全然広まっていない料理を知っていたら、流石の私も違和感を覚えていた所だろう。


「確かにクルトはアルテミス帝国から来たみたいな話も、隠していたものね」

「えぇ。本当はあの時、お嬢様に言いたかったんですよ。オムライスを、いつか俺の手で食べさせて差し上げたいと」


 これは、そんなにクルトにとって特別な料理だったんだ。

 ただ単に美味しそうだと興味を持っていただけのオムライスに、それとは別の、特別な思い入れが湧いてくる。


 そして私は、クルトの話を聞いている内に気づけば自然と、ふわふわした黄金のオムレツの部分にスプーンを差し入れ、オムライスを口に運んでいた。


「…………っ!!」


 私は一口食べた瞬間、あまりの美味しさと感動に打ち震え、思わず身悶えていた。

 

 ……世の中にはこんな美味しい食べ物があるんだ!


 卵は見たままの印象の通り、とてもふわふわで、口の中で自然と溶けていく。

 かかっている茶色のソースと合わせて、優しい口当たりなのに、頭にがつんと来るような美味しさだった。

 クルトやこれを教えてくれた男爵令嬢の子には聞けていなかったけれど、どうやらオムライスの中に入っている混ぜご飯は赤みがかったオレンジ色のケチャップライスなようだ。

 こちらもいつも食べている料理たちより濃い味付けだけど、とても美味しい。

 

 私は二口、三口とスプーンを動かす。食べるまではあんなに躊躇っていたのに、一口食べてしまえば、私はオムライスに夢中になっていた。

 私の今までいた所では決して食べれないような味の料理に、普段は食いしん坊とかでは全然ない筈なのにスプーンが止まらない。


「良かったですね、クルセイド様。わざわざオムライスの味つけがサーシャ嬢好みになるようにこのレストランの厨房に要望を入れにいってましたもんね。普通に味つけしたら、普段のサーシャ嬢の食事より圧倒的にしょっぱいだろうからって」

「……お嬢様がせっかくアルテミス帝国の料理を好きになってくれそうな時に、余計な雑音になる情報を話すのはやめろ」


「え? 別にこのぐらい良くないですか? ……さっきの話の流れでスプーンを取った姿とかを見るに、サーシャ嬢って攫われてきた割に、案外クルセイド様の事を悪くは思ってはいなさそうじゃないですか」

「俺は純粋にお嬢様にオムライスを味わってほしいんだよ。お嬢様がずっと食べたいと言っていた料理なんだからな」


「はぁ、そすか……あーあ、マフィアの純愛とか絶対流行んねぇ」

「安心しろ。俺はお嬢様に優しいだけの男ではないさ」

「それはそうでしょうね。そうじゃなかったらこんな所まで誘拐なんてしてくる訳ありませんもんね」


「…………」


 クルトとオズさんの会話は全部まるっと聞こえていた訳だが、わざと無視してロイヤルミルクティーとやらを一口飲んだ。

 こちらも濃厚なミルクの味わいと普段飲んでいるものとはまた違った茶葉の風味が非常に美味しい。こういうミルクティーの淹れ方もあるのかと、大変勉強になった。


 ……クルトが、私の食の好みまで考えてくれて、色々手配してくれていたようなのは純粋に嬉しい。

 それに、さっきのようなクルトの過去の話を聞けたのは初めてだが、クルトの言う所の「虚像」ではない部分のクルトの事を知れたみたいで、正直嬉しくなった。


 でも、そういう感情を正直に表に出すのはあまりにも自分にとって不都合なので、私は二人の会話を聞き流す振りをしていたという訳である。


 このままクルトと一緒にいたら、クルトの事をたくさん知れたりするんだろうかと一瞬思ってしまうが、そんな自分の思考を必死に振り払う。

 ……私は何を考えてるんだ。自分自身のあまりにもおかしすぎる思考に吐き気がする。

 私はリングライト修道共和国のフローティス家のサーシャだ。

 本来なら今は家の為の結婚をしていなくちゃいけない時なのに、こうして呑気にオムライスを突っついているのも罪悪なぐらいである。


 ……それでも、今だけは。

 クルトが私を想って用意してくれた、この朝ごはんを味わっていたい、かもしれない。


 食事に対して感謝せず味わって食べない事はリングライト修道院の教義にも反するし、などと、日頃そこまで熱心に信仰心がある方な訳でもない癖に言い訳のように考える。


「あ、そうだ。クルセイド様、サーシャ嬢にご自身の立場とか、今後サーシャ嬢がアンダーボスの女として遭遇するであろう事への注意事項とか、今日合流するリンナの事とか、色々説明した方がいいのでは?」

「もちろん、お嬢様が食べ終わった後にちゃんと話すよ」

「……クルセイド様、どんだけサーシャ嬢にオムライスを味わって食べてほしいんすか。リンナの事は特にちゃんと説明しないと絶対、後々面倒な事になるっすよ」


 二人の会話を尻目に、私がまたスプーンを握り、オムライスに向き合っていた時だった。


 この場に、恐らくクルトもオズさんも予想していなかった人物が現れた。


「あ~~っ! クルセイド様じゃん! こんなに速攻で会えるだなんて、あたしってばついてるな~!」


 店内に女の子らしき甲高い声が響く。

 お店の入り口から聞こえたその声に、一瞬店内の視線が女の子に集まる。私も思わずその子を見てしまう。


 その子は、店内中の視線を浴びても堂々と振舞っている、派手な外見をした少女だった。

 リングライト修道共和国では珍しいピンク色の髪をツインテールにしており、やや濃いめのメイクもばっちりときまっている。


 顔立ちは綺麗さもあり可愛らしさもありで、二重の瞳がチャームポイントになっていた。


 なんとなく、自分の魅せ方を良く分かっている子だな、という印象を受ける。伯爵令嬢の中でもとても地味な方な私とは、正反対だ。


「見て見て! 今日はあたし、クルセイド様とのデートの日だから、普段より可愛い格好が出来るように頑張ったんだ。いつもは地味な服ばっかりだから、たまにはお洒落したいじゃん? クルセイド様、今日こそ褒めてくれるよね?」


 マシンガントークと言わざるを得ない勢いで言葉をまくし立てつつ、女の子は私たちのテーブルへとずんずんやってくる。

 もう既に店内の視線の大体が女の子から離れたが、今でもまだその子から目線が外せないようなお客さんもいた。

 それぐらい、女の子は魅力的な外見と振舞い方をしていた。


 しかし、私はクルトの名前をその子が呼び続けている事に驚きと反射的に警戒心を持っていた。


 この子は一体、クルトの何なんだろう?


 クルトは女の子を見て、面倒そうにため息をつく。その様子をちらりと見て、オズさんは女の子の所へと走っていった。


「リンナ、いい子だから、今はクルセイド様の邪魔をするな。俺が向かいの店でお前の好きなパスタでもおごってやるから」

「え~? 何か怪しい。てか、その地味な女、誰? そんなリングライトのお貴族様臭い女とクルセイド様が何で一緒にいるの?」


 私はその言葉を聞き、思わず驚いてしまう。

 私は昨日は確かに家から連れ出された時の服から着の身着のままで行動していたので、見るからにお嬢様だったとは思う。

 でも、今はクルトから貰った平民の服を着ており、オズさんからも「どこからどう見ても庶民ですね!」と言われたし、ここまでの移動でも誰からも何も疑われなかった。


 自分の印象を聞いて回った訳ではないので分からないけど、恐らく私は庶民に完全に擬態出来ていた。それはそれとして複雑な気もするけど。


 しかし、この子はどうやら私の正体を一瞬である意味言い当てた。

 ……もしかして、この子は相当な観察眼があるのでは?


 クルトは女の子を見て、何かを思案していたようだったが、ふっと悪巧みするかのような怪しげな笑顔になる。

 そのままクルトは私の手を強引に掴むと、自分の膝の上に座らせた。

 一秒前には予想もしていなかったクルトとの必要以上の密着に、頬は思わず赤くなってしまうし、体はこわばってしまう。 

 ……え? いやいや、これ、どういう状況なの?


「リンナ、紹介しよう。この子の名前はサーシャ。俺が拐ってきた、俺の女だよ。アンダーボスの女になった以上、この子はどんな身の上であろうと、それ以上でもそれ以下でもない。俺が傅く唯一の人間だから、俺の部下である君もこの子を丁重に扱うように」


 何かすごい事を言われているし、されている。

 リンナさんと呼ばれた女の子は私たちを見て、今すぐ叫びだしそうなぐらいの、悪魔のような形相をしていた。


 私はこの後自分の身に待ち受けているであろう状況に、嫌な予感が止まらなかった。




 リンナさんは「組織」に所属する情報屋で、クルト、いや「クルセイド」の直下の部下だという。

 見た目はやや幼く見えるが、「組織」の一員として、かなりの経験を積んできた手練れとの事だ。

 

 クルトは私を膝にのせたままにしつつ(普通に恥ずかしい)、私とクルトのこれまでの経緯をリンナさんに軽く説明した。

 オズさんにもその辺の事情に関してはさらりとしか説明できていなかったので、彼もリンナさんと同じくらいクルトの説明を真剣に聞いていた。


「で? この女はサーシャちゃんとかいう伯爵令嬢で? クルセイド様が任務のために潜入して仕えていた某家のお嬢様で? クルセイド様は任務に成功してそのまま無事リングライト修道共和国に帰ってこようとしたのに、この女がそんなクルセイド様を誘惑して、クルセイド様はうっかりここまでこの女狐を連れてきちゃったってわけ?」

「まぁ異論はあるが、大体そんな感じだ」

「……意味わかんない……」


 こちらからすれば、「クルセイド様を誘惑して」や「女狐」の辺りの大変主観の入った解釈も大分意味がわからないのだが、それを伝えるとこのリンナさんという女の子とバチバチにやり合わなくてはいけない展開になりそうなので、それは馬鹿正直に伝えない方がいいだろう。

 こういうタイプの子と馬鹿正直に真っ向からやり合うのは面倒そうだ。

 この子の言った通り、私は地味なその辺にいる平凡な貴族令嬢だからな。大人しくしていよう。


「リンナ、この子が本当に女狐に見えるのか? こんな真面目そうな子が? 確かに何でクルセイド様がこんな箱入り娘そうな貴族令嬢を、と言いたくなる気持ちは分かるけどさ」


 オズさんがフォローしてくれたが、微妙にフォローしきれてない気がする。


 まぁ立場的に言えば、この人は完全な味方という訳ではないししょうがない。

 むしろ、よく私に気を遣い続けてくれているなと思う。それだけで十分にありがたい。


「まぁ、お嬢様の魅力は俺だけが分かっていればいいさ。お前達が知る必要はない」 

 クルトに惚気のような事を言われて動揺するが、オズさんは渋い顔をしていた。

 

「クルセイド様はそういいますけど、実際の所、ボスやその他周辺の人間にサーシャ嬢について納得してもらうとなったら、少なくともこの子がアンダーボスの女になるに相応しいと分かってもらう必要はあるのでは?」

「そうだ、そうだ~!」


 オズさんがクルトを胡乱げに見つめながら言い、リンナさんはそれに野次をとばす。


「「組織」はただのマフェアじゃあない、国家秘密にも通じている秘密結社なのですからね」

「そもそも、お嬢様ってずっと呼び続けてる事自体、ビミョーじゃん? 自分の女なら、「サーシャ」って普通に名前で呼んであげたら? 距離取ってるみたーい」


 オズさんはやれやれと言いたげな顔で、リンナさんはくふ、とせせら笑うように言った。

 それぞれ込められた感情は全然違うだろうが、正直私から聞いても、二人の言い分は正論にしか聞こえないなと思った。


 そもそも、話を聞いていても、アンダーボスって何? などといった気持ちはあり、全てを理解できている訳ではないのだが。

 ……私は未だにクルトの立場について詳しい事を知らないのだが、今聞いてしまうか。


 そろそろクルトの膝の上からどきたいなと思いつつ、おずおずとオズさんの方を見て口を開いた。この人が一番分かりやすく答えてくれそうだ。


「オズさん、昨日からクルトはアンダーボス? って言われていたりするけど、それって一体どういう立場なの?」

「は!? そこから!?」


 リンナさんは素で驚いていそうだった。


「まぁまぁ、リンナ、言いたい事も分かるが……サーシャ嬢、アンダーボスというのは」

「アンダーボスというのは一般的な意味ではマフェアにおける二番手、若頭にあたる人間を指します。俺たち、「組織」においても大体同じです」


 オズさんが説明をしようとしてくれた所を、クルトが先んじて話してしまった。


「基本的に「組織」はボスが絶対の組織ではあるのですが、危険性は高くあれど重要な任務を任される際に全ての指揮権を任されたり、非常時にボスの代わりを任されたりなど、色々と小回りの良い立場としてのナンバー2の責任を負っています」


 つらつらとクルトは説明をしてくれる。

 オズさんはぎょっとした顔で、クルトを見た。


「ちょ、今の俺が聞かれた事じゃないですか」

「これは俺についての事ですよ? 俺が自分で説明した方がいいでしょう」

「本当にそれだけですか? 他の男にサーシャ嬢が頼ったのが嫌だったとかでは?」

「別に」


 クルトはふいっと面倒そうに舌打ちする。

 オズさんはクルトは図星をつかれたと判断したのか、やれやれと肩を竦めた。


「もうほんと嫌だ、こんな恋愛脳のアンダーボス」

 

 オズさんがぼそりとそんな事を呟き、リンナさんがうんうんと頷く。


 私としては分かりやすく色々説明してくれるなら、相手は誰でも良かった気持ちはあるので、二人の言い合いに口は挟まないでおいた。

 まぁ本当はそういう問題ではないのだろうが、私が首を突っ込んだらより話がややこしくはなりそうだし。

 

 そんな事より。話を聞く限り、アンダーボスというのは大分危険な立場に聞こえる。

 思えば、私達の国に潜入する任務も、間違いなく危険なものだったのだろう。もし私達リングライト修道共和国の人間に正体がバレていたら、恐らく死に直結するような。


 そういう意味ではクルトが潜入したのが我が家のような呑気なところで良かったのかもしれない。

 他の家だったらあっという間に正体がバレて、クルトの命はもうなかった可能性すらある。


 きっとリングライト修道共和国への潜入任務だけじゃない。

 クルトは今までもたくさん危険な事に手を染めていたんだろう。


 ……良かった。クルトが生きていてくれて。

 私はクルトがいかに「組織」の中で重要な立場か実感するよりも先に、そう思わざるを得なかった。


「リンナの質問には答えてなーい! ちゃんとあたしの事も構ってよ!」


 リンナさんがハイハイと手を挙げた。

 そうする仕草はどこかあどけないが、無邪気というのにはあまりにもクルトへの媚びを感じられた。

 やっぱりこの子のクルトへの態度は、気になる。

 

「お嬢様の呼び方については場に合わせて変えるかもしれません。が、言ったでしょう、俺が唯一傅く女だと。俺にとって彼女はそう呼ぶに値する女です」

「え~? でも、サーシャちゃんだって、クルセイド様にサーシャって呼んでもらいたいよね? あなた、「クルト」とやらの事が好きなんでしょう?」

「…………ぐふぉ、ぐふぉっ!?」


 私は思わずむせてしまう。何も口に入れてない状態で良かった。


「こら、リンナ! サーシャ嬢が女の子にあるまじき声を出しちゃっただろ! ちょっとは自重しろ!」

「気にしないで、むしろ追い打ちをかけないで」


 私は手のひらをひらひらと振って、大丈夫である事をアピールした。

 話を積極的にそらそうと、今までずっと気になっていた事を聞いてみる事にした。


「ところで、セミフィリアからはいつ出発するの? リンナさんとはこうして合流できた訳だけど」


 クルトは私の話をそらしたい意図に気づいているのだろうが、その事は突っ込まず、普通に答えてくれた。


「明後日の朝になります。俺とリンナは色々とこの町でやる事があるので、ここに滞在している間はお嬢様はオズと一緒にいてもらいます」


 ……え、クルトの事が明らかに好きそうなリンナさんとクルトが二人きり?

 いやいや、違う。それよりこれは逃げるチャンスかもしれないじゃない! 前向きに考えなきゃ。


「オズさんはそのやる事に参加しなくてもいいの?」

「俺はほんとにただの使いっぱしりの下っ端なんで、クルセイド様やリンナがするような難しい任務は任されないですよー。それより、サーシャ嬢が逃げないように見張ってる方がうちのアンダーボス的には重要っす」

「本当ならお嬢様とオズを同じ空間に置いておく事すら嫌なんですけどね。他にお嬢様を見ておく人間がいないのなら、仕方ない」


 さすがに一人きりでいさせてはくれなそうだったが、それは仕方ないだろう。

 でも、オズさん一人なら、恐らくどこかに隙は生まれる筈。それをつけば、絶対に機会は出てくるだろう。


 私はクルト達にはバレないように内心で気合を入れた。




 ……そして。現実は時として、思いよらない方向へ進むものである。


 私達はレストランで朝食を終えた後、クルトとリンナさん、私とオズさんの二手に分かれ、セミフィリアに滞在する事になった。

 クルトは自分でこうすると決めた癖に、別れ際に若干渋る様子を見せてはいた。私に「何かオズに変な事をされたら報告してくださいね」と言い残していたけど、一番変な事をするのはクルト自身だという事に自覚はないのだろうか。


 そして私とオズさんは二人きりになった後、オズさんに案内されてカフェに行って時間を潰す事になった。断る理由もなかったので、私は黙ってついていった。

 あまり面識のない裏社会の男と二人きりになり、今さらながらに緊張感に襲われたが、オズさんはきさくに私にどうでもいい話を振ってくれたりなど気を遣ってくれ、多少気もほぐれた。

 オズさんは味方とはいえないが、私に対して優しい。不思議な程だ。


 カフェにつき、私は初めて名前を聞くお茶を、オズさんは紅茶と何かのタルトを頼んでいた。

 そして、オズさんは開口一番こう言った。


「サーシャ嬢はクルセイド様から、逃げたいんすか? もしあんたが望むなら、逃がしてあげてもいいっすけど」

「…………ぇえ!?」

「わはは、いい反応っすね。俺はあんたがどこに行こうと全然構わないんっすよ。別に俺はクルセイド様の味方って訳じゃねぇから。あんたの味方でもねぇけどな」


 まさかまさかの展開に、私は開いた口が塞がらなかった。

 オズさんを出し抜けばあわよくば逃げられるかなとは思っていたけど、まさかその本人からこんな提案をされるとは。

 でも、そんな事をして、クルトに酷い目に遇わされたりしないのだろうか?


「クルトは平気? オズさんがそんな事をしたら、酷い目にあわされちゃうんじゃないの?」

「そりゃそうでしょうねぇ。でも大丈夫っすよ。俺は例えクルセイド様に殺されても死ねないっすから」


 ……いや普通、殺されたら死ぬだろう。

 でも、オズさんの言葉はどこか信じられる重みを感じさせた。


 自信と受けとるのにはあまりにも驕りはないが、謎の確信には満ちている言葉に、私は思わず首をかしげる。


「それは、どういう事なの?」

「言葉通りの意味なんですけど、あんたに説明する義理はないですね。とにかく、あんたみたいお嬢には「組織」には肌にあわないでしょ。俺だってあんたみたいな、たかだか初対面の人間を見捨てられない善人を利用なんてしたくないです」


 初対面の人間? ひょっとして、何日か前の馬車の中での事?

 あの時はクルトがオズさんの命を盾に私を急に脅してきて、対応も後手後手に回ってしまったが、オズさんを確かに庇いはした。

 でも、それをオズさんは「俺の事なんて庇うな」ぐらいに言っていたから、てっきり気にしていないものだと思ってた。


「ええっと……もしかして、私がクルトに脅された時、あなたを見捨てなかった事を忘れないでいてくれたの?」

「そんな意外そうな顔しなくたっていいじゃないっすか。俺は裏社会に頭まで浸かりきった人間ですけど、最低限の自分自身で決めた義理だけは守りたい人間なんです。自分の命を救おうとしてくれた人ぐらい、軽く扱いたくはないなと思いますよ」


 そういうオズさんはからっとした様子だった。

 私はオズさんの発言を意外には感じつつも、納得もしていた。

 オズさんは必ずしも私の味方という感じではなかったけど、ちょくちょく私に気を遣ってくれていた。それは正直、不思議にも感じられる程には。

 それが私があの時彼を庇った事を忘れないでくれたからというのは、やっぱり驚きではあるものの、理屈には合う。


 しかし、やはりどこか引っ掛かりはする。

 ……この人は本当にそんな義理だけで、こんな風に逃がしてくれようとまでしたりする人なのだろうか?


「本心では言えばその話に乗りたい所だけど……やめておくわ」

「どうしてです? 悪い話ではないでしょう?」

「あなたには裏がある。そんな気がするわ」

「へぇ、あなたはそう思うんすね」

「ええ。あなたとクルトなら、まだクルトの方が信じられるわ。あなたのその提案に乗るのには、あまりにもあなたに対する理解が足りないもの」


 オズさんは確かに私に優しくしてくれる人なのかもしれないが、絶対にそれだけの人じゃない。そんな予感もした。


「思慮深いお嬢様ですね。でも、あんたは今、大きなチャンスを逃しましたよ。俺には確かに裏がありますけど、今の提案には裏はなかったのに」

「そうだとしても、あなたが完全に信頼出来る人間じゃないとその話に乗る事は出来ないわ……ここはセミフィリアだから」


 そう、セミフィリアは私達、フローティス家の人間にとっては敵地にも近い所なのだった。

 よくよく考えたら、正体がバレたら絶対にろくな事にはならない。


 無事クルトから逃げられたとしても、セミフィリアやレゾナンス領側の人間に見つかるような事があれば、このままクルトに拐われた方がマシという線まであり得る……セミフィリアを治めているレゾナンス領の領主は私達フローティス家を虎視眈々と利用しようと狙っているから。


 そして、ここはもう既にレゾナンス領の中で、普通に移動していたら、そうなってしまう可能性は恐らく高いのだ。

 クルトやオズさんはその辺を上手く切り抜けたようだけど、関所や鉄道などで身元の証明書を出したりなどする必要はあるので、恐らくどこかでバレる。

 

 よくよく考えたら、そんなこの町で確実に逃げようと思ったら、それなりの作戦と準備は必要だ。

 もしかして、クルトがセミフィリアを滞在先に選んだのは、私が安易に動きづらい町だったからといった事情もある?


 普通にあり得そうだ。なんて狡猾な。


 オズさんはフローティス家の事情は知らないのだろう、私の言葉に首を傾げていた。


 ここで説明しづらい話ではあるので、私も話さないでおいた。


「ま、あんたがそういうなら、それでいいや。一応、俺は提案はしたからな。これからマフェアのアンダーボスの女として、酷い目にあっても知りませんからね」

「ありがとう、気持ちは受け取っておくわ。でも、私だって別にこのままクルトについていくつもりはないわよ。私だってセミフィリアとレゾナンス領を抜ければもっと動きやすくなるし……」

「お待たせいたしたしました、紅茶とジャスミンティーとシャインマスカットのタルトです」


 私達のお喋りに割り込む形で注文していたものを店員さんが運んできてくれた。

 ちなみにこれらの費用は全部オズさん持ちだ。

 「組織」ってこういったものの経費とかは落ちるんだろうか? 普通に奢ってもらってるとしたらちょっと申し訳ない。


「いやぁ、シャインマスカットはやっぱ美味しそうっすね!」

「しゃいんますかっと? ってなに?」


 私は黄金色に輝くジャスミンティーというらしいお茶を興味津々に眺めつつ、疑問をそのまま口にした。


「あー、リングライト修道共和国だとあんまり広まってないんすかね? 美味しい果物ですよ。葡萄みたいな感じっす。ほら、これ」


 それは確かに葡萄に形が似ている、緑色の果実だった。

 これもリングライト修道共和国全体では滅多に見かけない果物なあたり、やはりセミフィリアは新しいものが入ってきやすい町なのだなと実感した。


「うん、確かに瑞々しくて美味しそうね」

「……はぁ、やっぱり、サーシャ嬢ってリングライトの貴族にしては変わってるっすね」

「え? 何で?」

「普通、リングライト修道共和国のお貴族様達は余所の国からの文化は本能的に嫌います。でも、サーシャ嬢はオムライスといい、むしろ積極的に受け入れている。この国で育っておいて、何でそんな風にいられるんですか?」

「う、ううん、そんな事言われても」

 

 別に私は特別な育ちをしてきた訳でもなく、自分自身を特殊だとも思わない。

 私は内心困りつつも、手元のジャスミンティーを一口飲んだ。

 これも初めての味だが、華やかな香りと頭がすっきりする感じの後味が特徴的で、とても美味しい。

 ルイボスティーとはまた全然雰囲気が違う所に外国の文化の多様さを感じた。


 私はお茶をゆっくり飲みつつも、思った事を口にした。


「そうね。強いていうなら私は、よく素直とは言われるわね」

「はぁ」

「素直に人も物事も良いと思ったら褒めるられる所が私の美点であり、貴族令嬢として隙になる所……というのは私の姉からの私の評価よ。あまり自分ではそう思った事がないんだけど」

「なるほどねー。まぁ自己評価より身内の評価の方が信用できるものですし、サーシャ嬢は本当にそういう人なんでしょうね」


 オズさんは椅子にギイッと寄りかかり、頭の後ろで手を組みながら、何とも言えない表情で言った。


「あーあ、ほんと何でこういうタイプの子をうちのアンダーボスは好きになっちゃったかな」

「すっ……好きなのかしら、クルトは、私のこと」


 私が若干どもりながら聞くと、オズさんは呆れた目で私を見ていた。


「え? どっからどうみても好きっしょ。あんたひょっとして鈍感キャラなん?」

「そういう訳じゃないんだけど、何だか未だに微妙に実感が湧かなくて」


 クルトは使用人時代、一切そんな素振りを見せなかったし、本性を現して私に対する好意(?)を見せるようになってからは色々と怒涛の日々だった。

 全てに対して、理解も感情も追いつかないのが本音だった。


「そんなもんすかね。まぁそういう話については、クルセイド様とお二人で仲良くされてくださいや。俺が介入するような話じゃないっす」


 オズさんはシャインマスカットのタルトを切り分け、私に向かってフォークを向けると、「一口食べます?」と聞いてくる。

 私は流石に遠慮しておいた。婚約者でもない男性にあーんしてもらう訳にはいかない。味は確かに気になるけど。

 オズさんは「ほんと真面目っすね」とくくっと笑うと、自分の口の中にタルトを放り込んだ。


「俺ばっかりお菓子食べてるのも罪悪感湧いてきたんで、サーシャ嬢も何か頼みません? 俺が払うんで」

「い、いいわよ。悪いし」


 ちなみに結局この後の私は好奇心に負けて、これまた未知の果実であるマンゴーのタルトを食べてしまったのだった。美味しかった。

 



 それから私とオズさんは一日を二人でずっと過ごしていたのだが、最初の内は警戒していた私も、段々オズさんに慣れてきた。

 オズさん自身はずっと距離感も変わらず、同じような態度を貫いていたのだが。


 ずっと行ってみたかった町であるセミフィリアをたくさん案内してもらい、むしろ私は何だか楽しくなってきてしまっていた。自分で自分に呆れる程に。

 正直に言うとクルトと回れたらもっと楽しかったんじゃないかだとか、とち狂った事も考えてしまっていた。私の頭は未知の町の刺激を前にどうかしてしまったのかもしれない。


 しかし、本当に楽しみすぎてしまったのがいけないのかもしれない。

 クルトに「随分オズと良い事をしていたのですね?」とこれまた冷たい笑顔で言われ、何とその次の日は、オズさんと出歩く事を禁止された。

 そんな事ってある? と思っていたが、あれよあれよという間に私は寝泊まりしている部屋へと閉じ込められ、ここで一日を過ごせと言われてしまった。


 そして今、私は宿屋でクルトがセミフィリアで急遽買ってきた雑誌を読んでいる。ちなみにオズさんは私を見張る為にこの部屋のドアの前で待機している。

 

 クルトが買ってきてくれた雑誌はファッション誌と飲食店の情報をまとめられた雑誌、文芸誌だったが、これはこれで面白い。

 しかし、実質軟禁状態なのは、かなり息苦しかった。それに、外にいる時よりも気が紛れない分、フローティス家の今の状況について色々と考えてしまい、気が重くはなった。


 ……それにしても、昨日クルトとリンナさんと合流し、クルトが最初に私を見た時の彼の表情がとてもではないが、忘れられない。

 私はよっぽどクルトの勘に触る程にセミフィリアを楽しんでしまった感じの表情をしていたのだろう。


 でも、私がずっと行きたかった町に連れてきておいて、それをしっかり楽しんだ事がそんなに気に食わないだなんて、心が狭すぎるのではないだろうか。

 オズさんが言うには「サーシャ嬢が俺と楽しく一緒に過ごした事によっぽど嫉妬したんでしょ」との事だが、そうだとしてもやっぱりクルトの器が小さい気はする。


 そんな事で嫉妬してるようだったら、使用人時代は私を見ていて内心どう思っていたのだという話だ。私は散々婚約者と出かけたりなどしていたというのに。 


 しかし、クルトの差し入れてくれた雑誌は見た事がないようなものばかりの新鮮な内容ではあり、何だかんだ私はページをめくってしまってはいたのであった。



 そして、散々文句を言ってはいたものの、オズさんが差し入れてくれた昼ごはんとおやつを食べたり、クルトのくれた雑誌を読んでる内に気づけば夕方になってしまっていた。


 ……本当に私は何をしているのだ、と思う。

 昨日といい今日といい、本来自分が背負うべきだった責務を放り出して、遊び呆けてしまっている。貴族令嬢失格かもしれない。


 このままでは私は、フローティス家に帰れないのかもしれないのに。

 私はあれこれ悩みはしていても、何一つフローティス家に帰る為の行動を何も出来ていない。 


 私はオズさんがくれたメレンゲというお菓子(こちらはリングライト修道共和国でもたまに食べられる。サクサクしていて白くて甘くて美味しい)を片手でいじりつつ、机に頬杖をつきながらうじうじと自虐めいた事を考えていた。


 このままではいけないといいつつ、結果的には状況に流されてばかりの自分自身に嫌気は差していた。

 

 と、私の部屋の扉が開く音がした。ここはクルトの部屋でもあるし、彼が帰ってきたのかもしれないと振り向くと、そこには予想通りの人物がいた。


「クルト、おかえり」

「ただいま帰りました、お嬢様。お嬢様に「おかえり」と言われるのは新鮮ですね。いつもは俺がお嬢様を出迎える側ですから。これはこれで気分がいい」

「あっそう」


 私が意識して素っ気なく答えていると、クルトの後ろからにょきっと人間の影が現れた。


「リンナもいるよーっ! サーシャちゃん、クルセイド様だけじゃなくてがっかりした?」

「がっかりというより驚いたけど、リンナさんはクルトとお仕事してたんだものね。一緒に帰ってきて当然だわ」

「お仕事、ね。サーシャちゃんが言うとあたし達がしてる事が何だか立派そうに聞こえるから不思議! 実際はろくでもない事しかしてないのにね!」


 リンナさんはそう言って、からからと笑った。

 発言の内容は物騒だが、喋り方は非常にサバサバとしていた。恐らくリンナさんは口ではこういいつつ、その「ろくでもない事」に対する抵抗感は薄いのだろう。


「リンナは自分の部屋に戻れ。俺はこれからお嬢様と出かけるから」

「え? そうなの? うそ、サーシャちゃん、また抜け駆け!?」

「普通に私も初耳よ、クルトと出かけるなんて」

「お嬢様を一日軟禁してしまいましたからね。まぁ、少し外の空気を吸わせてあげてもいいかなと思いまして」

「うわ、普通に軟禁って認めるのね」

「さっすが、クルセイド様! 潔くて素敵!」


 リンナさんから見たらどんなクルトでも素敵に見えるのではと思いつつ、外に出れるのは普通に嬉しかった。

 一日中部屋から出れないのは、少々きつかったのである。


 とはいえ、クルトによって軟禁されていたのに、そのクルトの外出の提案を喜んで受け入れてしまうのは、何となく抵抗感はあった。あまりにもクルトの手のひらの上で転がされすぎてはいないか。


 私は内心悶々としつつも、クルトに言われるがままに、なるべく無表情を装いつつ外出の準備を始めた。




「ここです」


 クルトは動かしていた足を止め、私の方を振り返った。

 クルトは「ついてからのお楽しみですよ」と言って目的地を教えてくれないまま、そこそこの距離を歩いたが、ようやくついたらしい。


 今いる場所は町が見渡せる高い丘の上だった。

 ここまで歩くのは普段移動は馬車頼りの伯爵令嬢には堪え、丘を昇る時はクルトに手を貸してもらってしまった。

 しかし、昇ってきた甲斐はあると思えるぐらいに、セミフィリアを一望できるこの景色はとても綺麗だった。


 セミフィリアの町はもうそろそろ夜だが、あちこちに松明がついており、まだまだ明るい。

 夜になってもどうやら、町の営みは続いているらしい。

 眠らない町、という言葉が頭を掠める。それはセミフィリアの異名ではあったが、こうして生で見てみると何だか納得してしまう。

 リングライト修道共和国では珍しいこういった風景に、私は目を奪われてしまっていた。


「こんな綺麗な景色をわざわざ見せてくれて、ありがとう。やり口がキザだけど」


 私は感謝をしつつもついつい憎まれ口を叩いてしまう。

 普段私はこういう皮肉は人に対して言わないんだけど、ここで素直なお礼だけを言うのには、今までの経緯に問題が多すぎた。

 

「思い入れのある女とのデートに夜景を見せるのは、アルテミス帝国ではお約束なんです。別にいいでしょう? 少しぐらいキザな事をさせてくれても」


 クルトは私の気持ちばかりの反撃なども全く意に返す様子はなかった。

 うう、この涼しげな顔が憎らしいわ。


「お嬢様は、セミフィリアに興味をもってらっしゃいましたが、実際に来てみて、お好きにはなれましたか?」

「正直、想像していたよりいい町だったとまで言えるかもしれないわ」

「こういう時、嘘がつけないのがお嬢様ですね。そういう所が貴族令嬢としては本当に不器用ですね」

「いいでしょ、別に。いいものはいいのだから」


 私はちょっといじけ顔になる。

 確かにここでこんな感想を言うのはちょっと馬鹿正直すぎたかもしれないが、いいものはいいと言って何が悪い。


 クルトは気づけば私の事を眩しいものを見るような目でみていた。


「俺は、お嬢様のそういう所が本心から好きと言えます。フローティス家に仕えるクルトという男は「虚像」でしかありませんが、あなたへの想いだけは本物でした。まぁその気持ちすら、クルトとして振る舞っている時は隠していたのですがね」

「……クルト」


 思えば、はっきりとクルトから「好きだ」と告げられたのはこれが初めてかもしれない。

 私はここまでストレートに好意を伝えられた事により、言葉を失ってしまっていた。


 私はここで、どう反応するのが正解なのだろう。

 あなたの気持ちなんて知らないと、拒絶する? そんな事より早く家に帰してと訴える?


 ……それとも、私もあなたの事が好きだと、伝えてしまう?

 あの結婚前夜の日のように。


 でも、私はそれのどれもが出来ないまま、ただただ閉口していた。


 私は結局、どっちつかずだった。フローティス家の貴族令嬢の自分を捨てる事もできないが、クルトを好きで居続ける事をやめる事もできない。


「お嬢様、あなたをこんなにも想っている俺と一緒に生きるのも、悪くはないのではありませんか? お嬢様も、本心では見てみたいのでしょう? リングライト修道共和国の外を」

「それは、」

「アルテミス帝国にはセミフィリア以上に面白いもので溢れています。リングライト修道共和国とは違って、たくさんの国や民族の文化で国全体が溢れているのが、アルテミス帝国です。きっとお嬢様は気に入ります」

「でも私は、フローティス家に帰らなくちゃいけなくて、」

「あなたはそればかりだ。あの家がお嬢様の足枷になっているのなら、滅ぼしてしまいたいぐらいです」

「クルト、なんて事を言うの!? フローティス家は私の人生で一番優先しないといけない事なのに……!」


 クルトはそういう私を見て、冷笑する。

 その鋭い瞳は私の全てを暴くようで、私の体は思わず凍りついてしまう。


「では、フローティス家以外に、あなたが俺と共にいられない理由はないんですか?」

「え?」

「俺の事が嫌いだとか、マフェアの女になりたくないだとか、いくらでもあるでしょう。何かあるなら、言ってみなさい。全部聞いてあげますよ」

「そ、れは……」


 そこまで言われて、私は自分でも今の今まで気づかなかった事に気づいてしまった。


 ……私は、クルトに拐われてから、フローティス家に帰りたいという事以外の理由で、彼の元から離れたいと思った事がなかった事に。


 こんな風にいきなりさらわれて、いくらでもクルトを拒否する理由なんて見つかる筈なのに。

 私は自分がフローティス家の貴族令嬢で、帰って責務を果たさないといけないという事以外に、それを見つける事は出来なかった。


 私は、フローティス家の貴族令嬢としてやらなくてはいけない事が果たせない事が嫌だっただけで、クルトそのものを一度も拒否できた事はなかったのだ。


「私、は……そんな……」


 気づいてしまった、気づきたくはなかった事に、私は戸惑いを覚えていた。

 クルトはそんな私を見て、うっすらと微笑んでいた。私は思わず目が奪われる。


 クルトは固まり続ける私の頬にそっと手を当てる。


「教えてくれませんか、お嬢様の本当の気持ちを、あなたの口で。それが俺にとっては何より甘美な褒美となります」

「わ、たしは……」


 私は唇を噛む。

 私は決して自分の本心をクルトに言う訳にはいかなかった。どんなに彼に心を揺さぶられようとも。


「私、もう帰るわ。案内して」


 私はすっと無表情を取り繕い、クルトに背を向けた。

 これ以上、この話を続ける訳にはいかない。そうなってしまっては、私の方がきっと言いたくない気持ちを話さなくてはいけなくなる。


「お嬢様、待ってください。俺はまだあなたの話を聞けていない」


 クルトは珍しく弱気な声で私に追いすがる。


「あなたは私の気持ちなんてお見通しなんでしょう、ならわざわざ私の口から言わせる必要なんてないじゃない」

「いえ、俺があなたの事を理解できたと思った事はありません。世の中をまっすぐな目で見つめるあなたは、俺の世界の中ではいつだって未知数の存在でした。裏社会で生きてきた俺は優しいあなたの事が理解できないし分からない、だから好きになったんです」


 クルトの言葉に、私の心が熱くなる。

 私は思わず聞き返してしまっていた。 


「……クルトは、私の事をそう思っていたの?」

「えぇ。しかし今ここで、俺はあなたへの想いの全てを語るつもりはありません。俺ばかりがあなたを知りたいと思うのは不公平だ。サーシャにも思っていてほしいんです、俺の心を暴いてみたいと」


 え? 今、私の事、サーシャって呼んだ?

 初めてクルトに、私の名前を呼んでもらえた。その事に動揺し、自分の心臓がドキリと跳ねる音がした気がした。

 それが驚きによるものというだけではないのは、気のせいという事にしておきたい所である。


「私は別にクルトの事を深く知りたいと思った事なんて…………ないとはいえないわね」

「こんな時まで素直なんですね、お嬢様は。でもそう言ってもらえて嬉しいですよ。サーシャにだって、俺の事をどんな形であれ、想っていてほしい。いつか俺の全てを知った時、あなたに幻滅されてしまう日が来たとしても」


 クルトは切なげな表情になるが、それは一瞬で切り替わり、やがてどことなく不敵な微笑みになる。


「ところで、お嬢様、よろしければ、俺とキスしませんか?」

「え、急になに」

「こんなにも綺麗な夜景が見える丘に来た記念に」

「いや、しないわよ」

「まぁまぁそう言わずに。あの日の夜、あなたはしてくれたのですから、もう一度するぐらいいいでしょう? 減るものでもないですし」

「減るわよ、私の精神が」


 私はそういいつつ、内心助かったと思っていた。不味い方向に話が転がっていってしまいはしたが、最終的には追求されたくない事を言わずに済んだから。

 ……クルトに言える筈がない、私のこんな気持ちなんて。

 もしかしたら、クルトも私には言いたくなかった気持ちを言ってしまいそうになったから、話を切り上げたのかもしれないなと思った。


 結局、私とクルトのキスに関する攻防はあまりにも帰ってこない私達に痺れを切らして迎えにきたリンナさんが来るまで続いた。


 今の私は、クルトへの自分自身の気持ちと、まだ向き合えそうにない。


 しかし、現実は私の気持ちなんて置き去りにして、刻一刻と過ぎていくのである。

 それは時として、私が予想もつかなかった方向へと。


 私がその事を知ったのは、次の日の朝の事だった。




 そして、次の日の朝になった。

 今日は遂にセミフィリアを出発する日だ。

 この日以降は後はアルテミス帝国にある「組織」の拠点へと移動するだけだと言う。


 私は昨晩はクルトの事で悶々と悩みすぎて全く寝れなかったのだが、今日からまた馬にのるなら、ちゃんと寝るべきだったと後悔しつつ、朝ごはんを食べていた。

 今日の朝ごはんはサラダライスだ。

 お米の上にレタスやトマトなどの野菜がのっている料理で、リングライト修道共和国でもあるものだが、ドレッシングが珍しい味つけだった。


 今日は皆で同じものを食べているのだが、オズさんは「草ばっかかよ、テンション下がるわ~」などと言っている。

 クルトは何も文句を言わずに美味しそうに食べていた。思えばクルトは好き嫌いせず、何でも食べる方だった。


 あれ、そういえばリンナさんがいない。どうしたんだろう。


「サーシャちゃーん、あなたにちょっとニュースかも?」


 私がキョロキョロとリンナさんを探していると、タイミングよく本人がこちらへ駆けてきた。

 手には地方紙らしき新聞紙がある。


「いや~、有名人だね、サーシャちゃん! 滅茶苦茶話題になってるよ、結婚前夜に使用人と駆け落ちした令嬢って!」

「…………え?」


 私は思わずスプーンを落としてしまう。床にがしゃん、と食器がぶつかる音が空しく響く。


「ホラ、この記事、みてみれば? 自分の事っしょ」


 リンナさんが放り投げた新聞紙を慌てて受け止めつつ、私は一面になっている記事を見て、目を瞪った。


『婚約者と結婚前夜にフローティス家の令嬢が駆け落ち! 姉が妹の尻拭いをし、侯爵家の次男を入婿にフローティス家の後を継ぐ事に!』


「え? え? はぁぁぁぁああああ~~~!?」


 私の絶叫が店内に響いた。

 店中の視線が刺さるが、そんな事を気にしている場合ではない。


「クルセイド様、ひょっとしてサーシャ嬢を装った書き置きでも、フローティス家の屋敷に用意してから彼女を拐いました? あたかもフローティス家の人間には、サーシャ嬢が「クルト」と自分の意志で駆け落ちしたかのように見せるように」

「ご想像にお任せしましょう」


 私は見たくないと思いつつも、記事を更に読み進める。

 どうでもいい憶測じみた話に混じって、そこには姉様の私に向けた言葉らしいものが載っていた。


『フローティス家の事は私がどうにかするから、もう戻ってくんなバカ! せいぜい駆け落ち相手のあなたの専属使用人と平凡な幸せでも掴んでこい!』


 ……いや、お姉様。

 その駆け落ち相手は平凡な幸せなんて、とてもじゃないけど掴める相手じゃないんですよ?


 何せ、私が恋した相手は、恐ろしくて、でも微妙に人間臭い所もある気がする、一般人とは言いがたいマフェアのアンダーボスだったのだから。


 ……あああ、それにしても、この先の私は一体どうなってしまうのだ。

 フローティス家の為に生きてきたのに、そのフローティス家に私自身が「戻ってこなくていい」などと言われてしまうだなんて、自分自身の存在意義が揺らぎそうになる。


 私の人生、こんな筈じゃなかったのに。


 それでも、認める訳にはいかないけど、心のどこかで重石になっていたものが取れる音が自分自身の奥底で聞こえる気がした。

 そんな私を見て、クルトは憎たらしい程に嬉しそうな顔で笑っていた。 


 余談だが、リングライト修道共和国の間で、私とクルトの話が、伯爵令嬢と使用人の大恋愛として語り継がれる事は、その時の私は知るよしもなかった。



 



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