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第五十三話 朝の散歩をしてみたら

前回までの、七兜山無免ローヤー!

 戦い歌って腕相撲した無免ローヤー。ちなみに「無免ローヤーの歌」は、()兜にちなんで全て()音で構成されています(ぜつぼうのそこ やみにしずめば……)。どうでもいい? そうですか! 無免ローヤーは今日も戦う! 変身! 法に代わって、救済する!

 夜明け前、まだ暗闇が町を包む。そんな時間を、前原女生徒は一人、走っていた。鞄に大量の新聞紙を詰め込んで、各家庭の郵便受けを周っていく。新聞配達のバイト。夏でも朝の空気は冷えていて、七兜山は、風が木々を揺らすほかは、どこまでもひっそりと、静まりかえっていた。


 ちょうど大学周辺に差し掛かって、古びた金属の箱に新聞を突っ込み、息を吐いた時、彼女の聴覚は足音を捉えた。普通の靴ではない、もっと硬質な何かが、コンクリートを踏みしめる音だった。


 彼女は振り返る。山の夜闇……その中に浮かぶ二つの光。足音と共に揺れて、こちらに近づく。威光、光明、ヒーローの色が……


 鈍く輝いているのは、法律戦士の、複眼。


 前原女生徒は、きゅっと、拳を握りしめた。


「やっと来たのね。一応聞くけど、律くんじゃないんでしょう?」


「ふん、怪人登記女、か……いかにも彼らしい不明瞭な呼称だねえ……!」


「っ――」


 向けられた言葉に、彼女が顔をしかめる。しかし、視線は逸らさない。非弁ローヤーが目の前で立ち止まった。それでも、相手の複眼を正面から見据え続ける。


「あなたのやっていること、少しは聞いてるけれど、名前くらい名乗ったらどう?」


「非弁ローヤー……悪しき罪に、正しき罰を与える者……」


「そう。律くんと同じ名前じゃなくてよかった」


「随分、余裕があるんだなあ……自分のしたことを、理解していないのかなあ……二重譲渡をさせることは、横領や背任の共犯や間接正犯になる可能性だってあるのになあ……!」


「知ってるわよ。知ってて私は生きてんのよ」


「……ふざけるなっ!」


 怒気と共に振るわれた非弁ローヤーの拳が、前原の左頬を襲う。


 骨を打つ嫌な音がした。けれど、装甲で包まれた手はそこで止まった。彼女は、まるで鋼鉄の骨格を有しているかのごとく、法律戦士の殴打を頬で受け止めて、真っ直ぐに正面を見続けている。


「ふーん……私の罪はその程度なの?」


「っ⁉ 本当に、ふざけてるのかなあっ!」


 非弁ローヤーの二撃目が襲った。また重い音が響く。一切ノーガードで、拳が当たった。今度は体が衝撃で動く。しかし、それでも少し足が浮いて、数歩下がっただけだった。わずかに腰を屈めて視線が下がり、乱れた黑髪の揺れる隙間で、口元から血が滲み出ている。


 前原女生徒は折れずに、前を見続けた。


「罰したいなら罰すればいい。私は自分の罪の重さを知ってるし、それが必要なことも分かってる。どこにも逃げたりしないわ。どんな罰でも、逃げたりなんかしない。全部受ける。でも、あなたの拳……ちょっと軽いんじゃないの?」


「犯罪者がっ、つくづく、ふざけているなあっ……!」


 非弁ローヤーの暴行が、また次々と前原女生徒に及んだ。彼女は、一切の防御も抵抗もしなかった。強さはしばしば、過酷な結果を引き寄せる。法律戦士の膂力をもってしても、その強さは簡単には砕けなかった。


 人を殴り、蹴るという行為を続けるにはあまりに長い時間が過ぎて、やっと、前原女生徒の目から光が消えた。


「はっ、はぁ、はぁ……っ、罪を断っていない者が、悟ったような顔をするな……っ!」


 倒れた彼女に向かって非弁ローヤーが吐き捨てた時には、もう日も昇り始めていた。路上では、朝日が彼女に差し込んで、全身に与えられた罰の痕跡を、くっきりと映し出していた。


 〇


……第九十二条、一項、為替手形ノ引受ヲ手形金額ノ一部ニ制限シ得ルヤ否ヤ及所持人ニ一部支払ヲ受諾スル義務アリヤ否ヤハ支払地ノ属スル国ノ法ニ依リ之ヲ定ム。二項、前項ノ規定ハ約束手形ノ支払ニ之ヲ準用ス。第九十三条、拒絶証書ノ方式及作成期間其ノ他為替手形上及約束手形上ノ権利ノ行使又ハ保存ニ必要ナル行為ノ方式ハ拒絶証書ヲ作ルベキ地又ハ其ノ行為ヲ為スベキ地ノ属スル国ノ法ニ依リ之ヲ定ム。第九十四条、為替手形又ハ約束手形ノ喪失又ハ盗難ノ場合ニ為スベキ手続ハ支払地ノ属スル国ノ法ニ依リ之ヲ定ム……


 ……


 水去律は目を覚ました。


 転がっている「夢淫魔の空手形」を真っ先に拾い上げ、腕を伸ばして、近くの椅子の上に置く。カーテンの隙間から、昇る朝日が差し込んでいた。まだ朝は早い。神崎邸はひっそりとしている。家主の神崎はまだ眠っているし、守亜女生徒は昨夜から予定があるとかで、帰ってきていなかった。


 水去はベッドから身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。寝間着から着替えて部屋の戸を開けた。


 その日、彼が散歩に出たのは何故だったのだろうか。


 いろんな要因はある。いつもより早く目が覚めて、朝の綺麗な空気が吸いたくなったこと。あるいは、難舵町夏祭りから数日経って、その間ひたすらダラダラしていたために、なんとなく運動の必要性を感じていたことも。異世界でレベルアップして以来、ほんの少しだけ体の調子がよくなったという事情もあった。何が決め手かは分からない。しかし結局は、本当に、ただの偶然だったのかもしれない。


 神崎邸の庭の門を開けて、なんとなく大学に向けて歩きだした。


 山ゆえに、夜明け前くらいから、山鳥がしきりに鳴き始める。カラスのような都市の鳥類は少なく、もっともっと高くて丸くて柔らかな鳴き声で、水去には何という名前の鳥かは分からないけれど、中々悪くないのであった。七兜山の上の方に住む、数少ない魅力の一つである(ただし、徹夜で予習をやっている時などは、鳥たちの目覚めはデッドライン到来の警告。朝が来るのが怖くて、冷や汗が溢れる)。とにかく、ときたま行う朝の散歩は心地よいものだ。


 坂を下り、途中でマンション横の石階段を上って、道を変える。向日葵の咲く花壇とゴミ捨て場の横を抜けると、大学へと続くゆるやかなカーブが見えた。遠くに霞む街を見下ろしながら歩いて、バス停を越え、道を曲がった。


 東西に伸びる少し狭めの、あまり人目の及ばない道。歩道の左隣りは石壁になっていて、その上はちょうど大学の敷地だった。管理が行き届かず伸び放題に垂れた木の枝と草が、しきりに頭上を邪魔している。車道を挟んで右隣は崖で、ガードレールの下を見下ろせば住宅の屋根があった。急斜面に作られた町特有の構造である。


 ぼんやり歩いていると、風に飛ばされた大きな紙が、「うわっ」っと彼の寝ぼけ眼を襲った。首を振り、張り付いた紙を剥がすと、それは新聞の一面。大きな見出しが黒白に踊っている。


「へえー、『相次ぐ官僚の不審死』、ねえ……」


 飛んできたニュースを眺めながら、水去は歩いてゆく。道は僅かに下り坂になってきていた。右手には、小さなアパートの自転車置き場が、道と同じ高さにあった。


 ふと、くしゃっ、と足元で音がした。


 踏んでいたのは、やはり新聞紙。


 紙面から目を離せば、ばらばらになった新聞が飛ばされて来たのか、あちこち吹かれ、置かれた自転車なんかに引っかかっている。


「?」


 水去は深く考えずに前へ進んだ。


 ……風に舞う紙片を追いかけたその先に、人影を見るまでは。


 新聞の散る路上に、誰かが倒れている。


「あのー……大丈夫ですかー……?」


 返事は無い。おずおずと近づく。しかしある程度近づいた時、彼は異常に気付いた。


 血。


 新聞紙が赤黒く変色している。状況の推測が立つと同時に、散歩は早足になり、ついには、足が紙を蹴って走った。


「大丈夫かっ⁉」


 陰に駆け寄り、見下ろす。その時やっと、彼は気づいた。


 前原天祢女生徒。


 顔……多数の裂挫創と腫れ、変色、特に額から鼻梁まで大きな裂傷。胸……服ごと引き裂き、圧し潰すような切創、全体としてあまりに出血が酷く、また既に凝固が始まっており、状態を把握できない。腕……広範囲に擦過傷、創面に多数のアスファルト片。手……叩き潰されている。肢……切創多数、複数個所で別個に骨が露出。


「あっ……ああっ……」


 脳が理解を拒む惨状に、水去律は声を失った。よく知っているその人が、血を流し、全身に大怪我を負っている光景。だが最も酷いのは首だった。無理矢理切断しようと試みたかのような傷が深く開き、人間の生命維持に必要な管の部分が、断ち切られかけている……


 水去は、しゃがみ込み、手を伸ばし、触れた。熱。彼女の体温が、彼の呼吸と言葉を取り戻す。「あああ、どうしようどうしようどうしよう、できるか、できるか……?」七兜山に気味の悪い風が吹く。一瞬、雲が朝日を覆い隠して、暗闇が周囲を覆った。


「ッ……はあっ、はあっ、前原さん! しっかり! しっかりして!」


 水去の声に、前原の喉がわずかに動いた。


「ん……あれ? りつくんがいる。えへへ、りつくん、りーつくん、りーつくん……」


「っ! 意識が戻った! でも混濁してる? ああっ、前原さん、そのまま名前呼んでてっ! 死なないで、頼むから、無事でいてくれ、無事でいてくれ」


 水去は慌てて携帯電話を取り出す。血に塗れた震える手で、ダイヤルボタンを押した。呼び出し音、祈るようにスマホを握る。三十秒ほどして、通話が始まった。


「はい、難舵病院……」


「七兜大学法科大学院無免ローヤーの水去律です! 怪我人一人今から連れて行きますっ! 若い女性! 全身ズタズタに斬られたような傷! 出血も多い。処置をお願いしますっ!」


 携帯相手に怒鳴りつけ、即座に通話を切る水去。そのまま変身六法を取り出し無免ローヤーに変身。すぐさま頁をめくって、消防法、に触れた。光が溢れて大学の方へ飛ぶ。その間に、無免ローヤーは前原を抱き上げ、背負った。


 サイレン音が聴こえた。木々をへし折り、左側の壁を越え飛び込んできたのは、光を帯びた原動機付自転車:無免号。無免ローヤーの目の前にバウンドして着地し、停まる。まるで生きているかのようにライトをチカチカさせた。救急業務について定めた消防法の力が、救急車として無免号を呼び寄せたのだ。車体に作用していた光は、今度は布状に変化して前原の肉体を包み、彼の背に固定する。


 無免ローヤーは前原女生徒を背負ったまま、無免号に跨る。すぐさまエンジンが唸り、車体は朝焼けの中を、走り出した。


 〇


 難舵病院。入院用の一般病床も備えた、文字通り難舵町の病院である。以前にも、前原女生徒が過労で倒れた時お世話になった場所だ。七兜大学医学部および同附属病院は水去らのいるキャンパスとは別の、もっと交通が良い場所にあるので、この辺りの大きめな病院と言えばここになる。


 前原を背負った水去は、自動ドアを越え、中に飛び込んだ。


 早朝、待合室には誰の姿も見えない。


「やー、君が今年の無免ローヤーかなあー? 朝早くからお疲れえ~。まあ、こっちはもっともおっと疲れてるんだけどねええ~、ハハハハハ」


 声と共に、ソファーの背もたれの影から細長い脚が伸びて、黒い靴が傍のストレッチャーを蹴った。カラカラと音を立てて車輪が回り、水去の体にぶつかって止まる。


「そ~こに載せといてくれるー?」


 投げやりな言葉と乱暴に対応に、水去は顔をこわばらせつつも、彼女の身体を慎重に下ろして、ストレッチャー上に寝かせる。そうして焦りがキッっと声の元を探ると、待合のソファーで男が起き上がっていた。太い黒縁の眼鏡に、うねり捻じ曲がった髪の毛、長身痩躯の細長い身体に、シワだらけの白衣を纏う、年齢不詳の、どう考えても不審な医者。


 立ち上がり、こっちにやって来ながら、ダウナーに欠伸している……!


「はあーあ、ねむいねー……君んトコの案件は仕事しづらいんだ」


「っ!」


 水去の焦りが、八つ当たりの苛立ちに変わりかけた時、だるそうな表情でストレッチャーを覗き込んでいたこの医師が、「おやあ~っ」と奇声を上げた。水去が見れば、眼鏡の奥で目の色が変わっている。「こりゃ前原天祢ちゃんじゃないの~っ!」声のトーンが一段高くなり、喜色満面、てきぱきと動き始める。


「まったく! 先に言ってくれたらいいのにねー! ぼくはこの子の体だ~いすきなんだもん! やる気湧いてきた、ハハハハハハハ!」


 男が唐突にハサミを取り出し、前原の胸元を切り裂いた!


「ああ⁉ あんた何をやってっ!」


 水去が激しく食って掛かる。しかし医師は心底楽しそうに笑っていた。


「何って、創傷を確認しないと! 処置するのに服があったら邪魔でしょお~?」


「こんなっ、こんな所で! 早く手術室に連れていけよお前っ――……いや、ごめんなさい……無理を言っているのはこっちですね……すみません……失礼しました」


「謝れるのは偉い!」


 水去は男から離れた。ストレッチャーが僅かに動いて音を立てる。顕わになった彼女の上半身は、あまりにも深く傷ついて、もう二度と戻らないんじゃないかと、水去にまた絶望感が押し寄せる。医療の知識も技能もない彼には、頭を下げるしかできなかった。


「どうか、その、前原さんを、よろしくお願いします……!」


「ハハハ、そう言われたら頑張るよ~、まあ多分大丈夫でしょ、こんな面白い体ないから! 無事を期待してボーっと待ってることだね。あ、それと……」


 水去に向かって、マッドドクターが言う。「その酷く汚れた手、どうにかしてくれない? 血塗れじゃない。危ないし、せめて見た目だけでも綺麗にしてもらわないと~、ハハハハハハ!」笑いながらストレッチャーを引いていく姿を、水去はじっと見つめているのみだった。


 〇


 どれだけ待っただろうか。だが、処置は終わった。


 前原女生徒の眠るベッドの傍で、水去は一人、立ち尽くしていた。


 止血と縫合を受け、傷を包帯やガーゼで、骨折を固定具で覆われた痛ましい姿ではあったが、喉の奥で揺れる小さな呼吸が、彼女の生命を担保しているように見えた。実際、医師……独富(どくとみ)と名乗った彼によれば、まず死にはしないらしい。


 けれども、人間は死ななければそれでよいわけでもない。特に素人から見れば、顔や頭を、白い布地ようなものでビッシリと覆われた姿は、あまりにも悲痛に感じられた。


 どうしてこうなったのか。こんなことになったのか。突如訪れた災禍は、欠けたパズルのように、全容が見えない。


「天祢っ!」


 手術の終わりを待っている間、水去が真っ先に連絡したのは佐藤女生徒だった。彼の知っている中で最も前原女生徒と親しいのが彼女だったから。そして、一番最初に病院へやって来たのも佐藤だった。


 部屋に入って来た佐藤女生徒は、前原の状態を見て、「ひどい……」と呟く。しかし水去の予想に反して、それ以上は狼狽えなかった。彼の説明を黙って聞いた後に、「あなたが病院に運んでくれたんでしょう? ありがとう」と、礼まで言うのだ。


 水去は驚かされた。彼女の余裕に気圧されるほどだった。


「随分……その、落ち着いてるんだな。思った以上に、その……」


「落ち着いてなんかないわよ。でも、天祢が時々なにかと闘ってたのは知ってるもの。ここまで怪我したのは、見たことないけど――」


「怪我。これが怪我」


 佐藤の言葉に、水去は皮肉っぽく被せた。彼自身、それが八つ当たりであることには気づいていた。けれど、それを止めるだけの自制心が保てなかった。「ただの怪我ではない、もっと悪意のあるものだろ、これは……! そんな、一言で……!」「あなたが怒っても仕方がないでしょ……」佐藤女生徒はあくまで冷静に、じっと前原を見つめている。


 病室は静まりかえっていた。前原女生徒のかすかな呼吸を除けば、バイタルモニターの機械音だけが、さっきから耳に突き刺さるように響いている。


 隣で黙り込んでいる男に対し、佐藤が目線は変えないまま、諭すように口を開く。


「私だって、すごく悔しい。天祢は簡単に負けたりしないから、こんな大怪我は、絶対におかしいのよ。でも天祢は天祢の考えで動いてる。きっと何か理由があったはず。それが分からないまま私たちが喚いても、天祢のためにはならない」


「は? 前原さんが傷つかなきゃいけない理由なんてないだろ……!」


「落ち着きなさい、頭を冷やして……! 私はあなたより、よっぽど天祢のことを知ってる。頼ってもらえない悔しさだって、よっぽど知ってるわよ……! でも、だから今は、耐えて、ここにいるしかないでしょ……! 何が天祢にとって一番いいか、考えろっての……!」


 その時、また病室のドアが開いた。振り返った先にいたのは、駒沢青年だった。


「駒沢」


 水去が彼の名を呟いても、駒沢泰治は、ただそこに立って居た。前原女生徒に心を奪われているはずの彼が、天祢さん! とも声をかけず、近くに寄ろうともしない。何もかもが不自然でおかしいのである。


 そして、最もおかしな点は、駒沢青年もまた、顔に絆創膏があり、腕や足に何かを巻いて治療中の様子だったということだ。


 分かりやすく言うならば、彼もまた、異常な怪我をしている。


「お、おい……駒沢……なんだよそれ……包帯って……なんでお前まで怪我してるんだよ……! なあ……っ!」


 震える声で水去が尋ねるが、答えは返ってこない。


「転んだとかじゃ、ないだろ、その傷……教えてくれよ、誰かにやられたのかっ? お前も前原さんもっ! 誰だっ⁉ いや、あんなに強い前原さんをやれるのは普通じゃない……怪人かっ⁉ 怪人にやられたんだなっ?」


 水去が詰め寄る。しかし視線は合わない。


「怪人なんだろ! よし、それなら安心しろ、俺が倒して遡及的無効に――」


 駒沢は何も答えない。


 しかし、その眸は揺れていた。


「……怪人じゃ、ないのか……?」 


 水去の推論が少しずつ、前へと進んでしまう。「でも怪人以外が前原さんを怪我させられるなんてこと……」パズルは急速に絵を描き出していく。


 それでも、駒沢は何も答えない。


「おい……まさか、非弁ローヤー、俺と同じ、法の鎧を着た奴じゃ、ないだろうな……おい! ちゃんと言えよ!」


 駒沢が、決定的に目を逸らした。言葉はなくとも、それは、肯定を意味していた。


「網言正刀ッ……!」


 水去の中で全てのピースが埋まってしまった。


 〇


 ほんの一瞬、沈黙が病室を支配していた。永遠とも思える一瞬だった。


「網言正刀……ローの? そいつのせいなの? 天祢や、駒沢君の怪我は……そう……」


 佐藤がぽつりと呟く。


 病室は真っ白で、朝の光に照らされていた。水去は考え込んだように俯いていた。拳には、抑えきれない負荷がかかっていたが、それは、何かを押しとどめようとする力でもあった。


 駒沢がゆっくりと動いて、ベッドに近づいた。前原女生徒を見つめる。


 その時、水去は、また別のことに気が付いた。


「……待て駒沢。お前の傷、いくらか治りかけているだろ。その怪我は、一体いつのだ……?」


 駒沢の眸が揺れる。また返答は返ってこない。


「おい……数週は経ってるだろ! なあ! 答えろ!」


 水去が怒鳴ると、彼はやっと、口を開いた。


「俺がやられたのは、期末の試験が終わって、すぐだ……」


「何故その時に言わなかったっ!」


「……」


「知っていれば、俺が皆を守れた! お前が言ってれば、前原さんがこんなに怪我することはなかった! なんで、なんで言わねえんだよっ!」


「言えるわけ、ねえだろ……!」


「ああ⁉」


 水去が乱暴に相手の服を掴み上げる。


 駒沢青年が、初めて水去の方を見た。


「これは、矜持だっ……! 黙って罰を受ける。知間から話を聞いて、ひとまず分かってる範囲で、俺と天祢さんと、あと三島の、怪人だった三人で決めた……それが、俺たちの総意だった……!」


 力強く言い切る。しかしその力強さが、水去に挫折感を与えた。


「じゃあ、前原さんは、いずれ襲われるのを知ってて……知ってて、今まで過ごしてたってのかよ!」


「そうだ……! 彼女も知っていた……ある意味で俺たちはっ、自業自得なんだ……それだけのことを、しでかしちまったんだよ……っ」


 水去は駒沢から手を離した。


 しかし形相は、一層歪んでいる。


「そうやって、お前らの弱みに付け込んだんだな、アイツは!」


 今度は水去の方から目線を変える。動き出そうとする彼の腕を、駒沢が掴んだ。構図がさっきと逆さになった。


「違う! 水去! 話を聞け! 俺たち全員で話し合って決めたことだ!」


「違わないっ……! こんなのが許されていいはずがないっ……! お前も……っ」


 駒沢の手を振り払った。傷を負った身体がバランスを崩し、数歩下がった。


「ちょっと、やめなさいよ!」


 佐藤女生徒が声を張り上げる。


「なんで君が止める……? 前原さんの友達じゃないのか! 大事な友人が傷つけられて、それでいいのか、それでっ!」


「こんな所で怒鳴り合ったって、なんにも天祢のためにならない! 少しは考えなさいよ! 他にできることがあるでしょ!」


「……っ! ……っ……そうだよな、君の方がよほど前原さんのことを分かってるもんな。任せるよ、後はよろしく頼む」


 そう言って、部屋を出て行こうとする水去。


「はあ⁉ 今この状況でどこに行くつもり⁉ あなたがいるべき場所はここでしょ⁉」


「俺にできることなんかない。俺がこの部屋にいても役に立たない。俺なんかいない方がいい。それに……俺には前原さんのために、何をする資格もないんだ……」


 呆気に取られている佐藤女生徒に背を向けたまま、一人で勝手に結論を出すと、彼は戸を開け、部屋を出て行ってしまった。


 手の離れた病院の引き戸は、なめらかに滑って自然に閉じた。「あの男、本物のバカかっ⁉ ふざけんなよっ!」と、残された佐藤の吐き捨てた言葉は、清潔な白い戸に阻まれて、彼に届いたのかどうかも分からなかった。

次回予告

感情! 被害者! 激突! 第五十四話「救済と断罪、無免ローヤーVS非弁ローヤー」 お楽しみに!

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