第四十一話 心臓ばっくばくになる
前回までの、七兜山無免ローヤー!
山で熊と遭遇した無免ローヤー。中島敦は昭和十七年没、著作権は消滅している。とはいえ、こーいうあからさまなのはいかがなものか。大変な割に所詮パロディ扱いになっちゃうし……残念! 無免ローヤーは今日も戦う! 変身! 法に代わって、救済する!
「ああー置いてかれましたわー置いてかれましたわー、わたくし、ハブられちゃいました……ムッキー! ですわー……」
水去と前原が熊と山月記している間、守亜女生徒は崖の上に一人取り残されていた。彼女はしばらくの間、寂しそうにしゃがみ込んで崖下に目を向け、ぽやっとしていたが、ふと立ち上がると、ぶつぶつ言いながら周囲の蔓植物を集め始めた。山鳥が悲鳴を上げて飛び立つ。
ある程度の量が集まると、彼女は特殊な編み方で蔦をまとめて、長く頑丈に縒り合わせる。そうして完成した即席のロープを、太い木にしっかりと結び付け、反対側は崖下に垂らした。ぶっ飛ばされた熊を追いかけ、ずっと遠くに行ってしまった二人が戻って来れるよう、守亜女生徒なりの親切なのかもしれない。どこでそんな技術を身につけたのかは不明だが、作業を完璧にこなし、することのなくなった彼女は、また崖際にしゃがみ込んで頬に掌を当て、さっきと同じように、ぽやっ、とした。
しばらくして、二人が戻って来る。「あーっ、水去さまっ、前原さまっ、お帰りなさいましーっ!」守亜女生徒が立ち上がって上から手を振る。水去が軽く手を上げた。そうして口を開きかけた彼に、ぐいと大きな力が働いて、身体が九十度転回する。ロープの揺れるすぐそばで、前原女生徒が、隣に立つ水去の脚を掬うようにして抱き上げたのだ。突然の接触、ふ、再びお姫様抱っこ。そのまま彼女は地面を蹴り高く飛び跳ね、着実に着地。水去を連れ崖の上に戻ってきた。
もう一度言おう、数メートルの崖を、跳んできた。
つまり守亜の作ったロープなんか、別に不要だったのだ……存在を否定された彼女の貌が、愕然として強張る。彼女の目の前で、笑顔の前原女生徒が、「はいっ! 律くん!」と水去を地面に下ろした。
「あうっ、た、助かりました、けど、あの、前原さん、担ぎ上げる時は事前に言ってくれると……俺、ドキドキしちゃいますので……」
水去が額の汗を拭いながら言う。ピンと張ったtensionが解けて、一時に疲労が襲ってきたような様子だった。まあ、人に身を任せるって緊張するし、そこから数メートル跳躍するとなると、もはや絶叫マシーンである……かなり、怖いよね……心臓ばっくばく……
そんな頼りない水去の胸板に、守亜女生徒が右手の人差し指を突き立てた。
「これは! なん! なん! です! のっ!」
指が服越しに肌に突き刺さり、言葉を発するリズムに合わせて、水去の肋骨の隙間を抉る。疲弊した神経がビリビリと震えて、彼の表情がまた歪んだ。しかし守亜女生徒は批難の攻撃を止めない。
「待ちぼうけ、ロープも不要、じゃあわたくしは何のためにいるのですか! レディを一人で置き去りにするなんて酷いんじゃありませんのっ? 花の時間は短いですのに……お一言くらい、あってもいーんじゃありませんか? どーなんですのっ!」
今度は指が、皮膚を服ごと抓った。痛い。
「いっ……も、申し訳ない。実はさっきの熊がですね、なんと法科大学院生で、何故か熊になっちゃいまして、いやーびっくり――」
なお水去がズレた発言を続けるので、守亜の大きな眼と瞳孔が、カッと開く。
「そんなの、どーでもいいですわよっ! どーでもっ! もうっ。お昼ごはんにしますわっ! 向こうの方に広場と、みんなで座れそうな石を見つけましたの。ほら、弁当出してくださいましっ!」
「えーと、ごめん、実はあげちゃった……」
水去が朗らかな表情で答える。守亜女生徒、驚倒。
「あげた⁉ まさか、あの熊にあげたんですのーっ⁉」
「う、うん」
「早起きして、わたくしと水去さま、二人で一生懸命作った、大事な愛の結晶ですのよ! 愛の結晶! それを、他人どころか畜生に与えたとおっしゃるのですかーっ⁉」
「あーいや、に、人間に戻ったんですよ、熊が! で、しばらく人の作ったご飯なんか食べてないだろうなー思ったので……説明が難しいな……ごめんなさい……」
「水去さま、お聞かせください。わたくしと熊、どっちが大事なんですのよおおおおーっ!」
守亜が水去の服を掴んで揺さぶった。
愛は利他の精神であるが、愛は偏ったものである。それが人間の限界だ。不偏の愛はその本質として矛盾しており、それを成し得るのは神だけ、神の愛なのだ。こうして世界には悲劇が生まれる。それでも、愛を愛する心は、人間に残された最後の希望として、輝き続けるのであるが。
神でない水去は曖昧に笑って、守亜に謝罪するのであった。
さて、弁当を与えられた熊……だった立長氏はどうなったのか。楽しいピクニックに部外者は不要! お邪魔虫め! と断ぜられて、水去・前原により秘密裡に処理されたのか。いや、さすがにそうではない。
浅ましき獣の姿から、人に戻ることのできた彼は、それはそれで狼狽した。
「己は、あの人間社会に戻るのは嫌だあっ! 山で動物たちと暮らしているほうがいいいいいいっ!」
「「えええっ⁉」」
もはや臆病な自尊心も尊大な羞恥心も遥か彼方に流れ去ったか、立長氏は地面に寝そべりイヤイヤ期の子どものように駄々をこねた。水去たちが何度言っても下山を拒否する。仕方が無いので弁当と、水去が一応リュックに放り込んでいた替えの服やタオルを与えることにして、そのままになったのである。
「ホントに大丈夫っすか? 熊じゃなくて人間に戻ったんだし、山は危ないんじゃ」
「その、私も殴っちゃったから、一応病院とか行った方がいいと思います……」
「己を誰だと思っているのか。この辺りは誰よりも詳しい。何も問題は無い。まあ己も、心の準備ができたら、いずれ街に戻るさ。いろいろとありがとう。では、さらば!」
そう言うと、彼は忽ち叢に躍り入って、草の茂みの中に消えたのである。水去たちがいくら目を凝らしても、再びその姿を見なかった。
これにて、人熊伝は終わりである。ハッピーエンドー!
しかし守亜女生徒はぷんすこ歩いて行ってしまうのであった。
「そのお話、わたくしいないも同然じゃありませんの! 存在を否定されちゃいましたわっ! もうっ!」
〇
「おーんせんっ! おーんせんっ!」
守亜女生徒の機嫌も戻るくらい時間が経った頃、木漏れ日の粒が大きくなり始め、道が広くなり始め、コンクリが地面を舗装し始め、電線と、石垣や植え込みに囲まれた旅館らしき建物がいくつも姿を現した。やっと三人は山路を抜け、在熊町に辿り着いたようだ。人の騒ぎが遠くに聞こえる。駅のある方を街の正面とすれば、ここは裏側。夏の日差しの中で、旅館たちが静かにたたずむ場所。
三人は、街の中心に向かっていく。
少し歩くと、浅く流れる川があって、そこに架かった小さな橋や、両岸の幟立つ小路を、観光客が楽しそうに行き交っている。置かれたベンチには赤い布と唐傘がかかり、連なる路次の街並みは影の中に、細く長く曲がりくねりながら伸びていた。活気の中に湯気のように広がる、どこか気怠い空気。とはいえ、飲み物や小料理や土産物を売る店がにぎにぎしくて、やっぱり心弾む場所。
そこは温泉街。在熊温泉の街。
昼飯がないので軒先を覗けば、例えば牛乳ソフトクリームが七百円で、三人は黙ったまま目を逸らした。観光地価格は貧乏人には苦しい、だけど、それを口に出すのも無粋。情けない気持ちが、視線の中に漂う。
カップルや子連れの家族や、外国人、老夫婦などとすれ違いながら、三人は歩いた。そうして、有名な浴場の前を通りかかる。
「まーっ、四十分待ちですって⁉ 温泉って待ち時間があるんですの⁉」
宿泊の予定はないので、利用できるのは外湯だけ。となると、観光地たる在熊温泉でも、利用できる場所はかなり限られるものだ。今三人がいるのは、外湯としては一番有名な施設だった。値段は大人八百円、日帰りで利用するのには手ごろな場所なのだが……
「そっか……かなり混雑してるもんね……どうしよう、律くん」
まるでテーマパークのアトラクションみたく、入り口に立札があり、男湯女湯、それぞれの待ち時間が書かれていた。男湯二十分、女湯四十分。その横に目を向ければ、誰でも無料で入れる屋外の足湯があるものの、外国人観光客の大家族がギュウギュウになって座っている。とても利用できそうになかった。
予想外のトラブルだ。しかし水去は慌てる様子もない。
「えっとね、言い忘れてたんだけど、向こうに知り合いのいる温泉旅館があって、そこに連絡してあるんです。ちょっと歩くし、古い場所だけど、まあ、ここよりはのんびり入れるんじゃないかなーと思う。んじゃ、行きましょー」
そう言うと、彼は喧騒に背を向けて、路次に入り込んでいく。不思議と迷わない足取りに、二人の女生徒は目を丸くするのであった。両女生徒とも、水去にエスコート力を期待してなかったから……
十五分後。
三人は路次を抜け、草地の道をしばらく登って、もう木々の生い茂る山肌が、眼前の景色を大方隠してしまう程に、人熱れから逃れた場所まで来ていた。目の前にあるのは、緑の光る畑と、一軒だけぽつんと立つ、古い古い木造の建物。つやつや光る焦げ茶色の柱が、寂寞と哀愁を漂わせている。お世辞にも、綺麗とは言えない、そんな場所。
やはり水去のエスコート力には問題があったのか⁉
前原と守亜が無言のまま建物を見上げていると、真横にある畑から、人が顔を出した。
「いらっしゃいお嬢様方、僭越ながら、ご紹介は……やあ! 水去じゃないか!」
声をかけてきた相手に、水去が言葉を返す。
「こんにちは、久しぶり星北。どーも悪いな、直前に無理言っちゃって」
「いや、構わない。構わないよ。馨はずっと、水去を待っているんだ。さあ、中へどうぞ」
水去たちの前で恭しく会釈したその人は、くすんだ色の和服で身を包み、首に白の手ぬぐい、手には農作業用の道具を持っていた。見るからに野暮ったいはずの恰好、だというのに、分けられた長い髪が黝染めの絹のように真っ直ぐ伸びている。ただそれだけで、高貴さが溢れていた。背丈は水去より僅かに低いくらいで、細く薄い体つき。顔立ちは中性的で特徴が少ないが、目元だけは、少し動くだけで柳眉にも秋波にもなる、妖しく異様な凄みを与えていた。おおよそ、こんな山奥のボロ旅館で土いじりなどしていそうもない、公家貴族を思わせる楚々とした姿。
星北馨と名乗った。
前原と守亜が絶句している。というか、よく知ってるらしき水去も、いくらか居心地が悪そうである。一瞬身震いして、「あー、パッと見ヤバそうに見えるけど、ここの湯がめっちゃ効くのは保証するので、安心してくれたら……」と女生徒たちに声をかけた。
〇
外観は随分古びていたが、建物の中に入ると、そこは気品ある旅館の趣を保っていた。綺麗で、静謐で、空気が重い。
「水去、待って。足元が、汚れている」
入り口で靴を脱いだ水去に、星北が上がり框の先から声をかけた。見れば、山を歩き、時には崖から落ちたりもしたせいか、確かにズボンの裾に細かい泥や植物が付着している。
「す、すまん……だけどさあ、お前も農作業してたんだろ……って、あっ、あれっ、汚れてない、そんな長い着物なのに、な、何故だ⁉」
「歩き方一つで、全ては変わるものだよ、水去。さあ、馨が拭ってあげよう」
そう言うと、星北が床に膝をついて、上体を傾け、歪みのない指で汚れを落とそうとする。「いいいっ!」と水去が身を引いた。「いいよっ! 自分でやるから、あのっ、あっちの前原さんたちに説明をだな、してあげてくれっ!」そのまま慌てて汚れを落とし、逃げるように先へ進もうとする。
そんな彼を見て、星北が目を細めて笑った。
「あっはっはっは、さっそく風呂か、随分強引なお客様だな、水去? ま、準備はできているよ。ゆっくり、蕩けるまで、楽しんで」
「ありがとうっ! 助かる! お前は前原さんと守亜さんを案内してやってくれ。あー、お二人ともっ、金とか時間とか気にせず、好きなだけ自由に過ごしてくれていいから! 女湯の案内を俺がするわけにはいかんし、同性同士水入らずの方が気楽だろうから、またあとで……く、詳しいことはコイツに聞いてね。じゃ、じゃあっ!」
挙動不審の水去の姿は、どたどた廊下を進み、そこで右に折れて、見えなくなってしまった。取り残された前原と守亜が、困ったように見つめ合う。そんな彼女たちに、星北が「さあ、荷物を、お持ちいたします、お客様」と声をかける。渡したい荷物など無いのだが、仕方が無いので守亜女生徒が鞄を渡すと、受け渡しの最中、涼しい目元が彼女を見つめて「長い間、外を歩いてきたのかな。汗をかいている。淡い皮脂の匂いもする」と言った。守亜女生徒も水去と全く同じような動きで、慌てて身を引いた。
「な、なんなんですのーこの人! やっべえですわ、やばすぎますわーっ!」
ソプラノの声を響かせて、守亜が乱暴に靴を脱ぎ捨てる。その態度はまさしく令嬢牴牾。古い日本家屋に全く似合わないガサツさ。星北が噴き出すように笑う。
「あっはっはっ、失礼しましたお客様。水去と、少し雰囲気が似ているから。さ、お手をどうぞ」
たおやかな手が守亜の腕を引いて、玄関框の上に導く。それからもう一人の客、前原に対しても、丁重に歩み寄って星北が応対する。前原女生徒は、この空間にあまり慣れないのか、内部構造を把握しようと頻りに周囲を観察していた。目の前にいる、水去の知り合いらしい謎の存在に対しても、警戒の視線を向ける。彼女は星北と距離をとり無言のまま、静かに玄関を上がった。
「では、当館をご案内、といっても、温泉を目的として来ただろうから、露天風呂に案内しよう。さあ、馨についてきて」
暗い廊下を進む星北の後を、女生徒たちが並んで歩く。口を半開きにしてきょろきょろしている守亜。鋭い目つきで前を見つめる前原。施設の紹介と洒落た雑談が彼女らをもてなしているが、二人とも全然聞いてない。
「律くんと、どういう関係なんですか」
話を遮るように前原が聞いた。先を歩くしなやかな後姿が、首だけ捻って、流し目が彼女の方を向く。黒い眸がぶつかった。
「逆に聞くけど、君こそ、水去と、どういう関係なのかな?」
「わっ、私はっ……律くんに、その……救済! そう、救われた、から!」
星北が不意に立ち止まり、よそ見していた守亜がぶつかる。「きゃっ、もう、なんですのよ!」いつの間にか、遠山の眉が前原を見下ろしていた。切れ長の眼差しが、彼女に突き刺さる。守亜女生徒も含め、三人の視線がぶつかり合う。
星北がふっと笑った。
「救済……そうか、やっぱり、無免ローヤーか……馨もだよ。かつて、水去と戦った。そういう関係だ。水去と馨は」
「あなたも、戦った……⁉ 律くんと⁉」
「星北さまも、七兜の法科大学院生なんですのーっ⁉」
二人の問いかけに対し、舞台劇のように大袈裟に、「もう辞めたけどね」と肩を竦めてから、優雅に腰を折って頭を下げる。
「さあ、こちらが当館の浴場及び露天風呂でございます、お客様。女湯の入り口は奥ですので、ご注意ください。どうぞ夢のひと時を、ごゆるりと」
ふわりと優雅な所作で顔を上げた星北は、いつの間にかそこにあった暖簾を指し示す。青い暖簾に男の文字が、赤い暖簾に女の文字が、大きく存在感を放っていた。奥の入り口へと促された二人の女生徒。仕方なく進むものの、釈然としないような、後ろ髪を引かれるような気持ちで振り返った前原女生徒の目に、青い暖簾に手をかける星北の姿が映った。
「えっ……ちょっと……な、何をしてるの⁉」
「ふえ? まあっ、こらっ! その通りですわよっ! 何してるんですのっ?」
両女生徒の申立てに、男湯の前にて星北が笑顔を浮かべる。
「いや、水去が入ってるだろうから、馨が、水去の背中を、流してあげようと、ね」
「で、でも、そっちは男湯で……」
「とと、とんでもねーですわよ!」
……? と、星北が、着物から伸びた細い首を傾げる。それから何かに気付いたように手を打って、また、整った微笑みを見せると、「大丈夫! 馨は馨さ! それに馨は従業員だから、当然のことなんだよ!」と答えた。そのまま有無を言われる前に暖簾をくぐって、中へ姿を消す。
前原たちが一歩踏み出して手を伸ばした。
しかし、届かない。先へも、進めない。当り前だ。
青い暖簾が揺れている。
二人はまた困ったように顔を見合わせた。
「ぷぴーっ! あ、あの人、男性でしたの? いや、男性ですわよねっ? ね?」
「……そう、だと、思う。そうじゃなきゃおかしいもん! そう、そうだよね⁉」
「そうですわっ、そうに違いありませんわっ。おとこですわおとこ! びっくりしましたわよーっ。心臓ばっくばくですわーっ!」
彼か、彼女か、水去の不思議な交友関係、星北馨。かつて法科大学院生であり、水去と戦ったという。では何故こんなところにいるのか、戦いはいつ行われどのようなものだったのか、どうしてロースクールを辞めてしまったのか、結局性別はどっちなのか、謎は深まるばかりである。
単なるお出かけだったはずなのに、なんか訳分かんなくなってきた。まだ温泉に浸かる前なのに、顔を赤くしている前原と守亜。そして、青い暖簾の先にいるであろう水去。この温泉レジャー、無事に終わるのか!
ホント、一体、どうなっちゃうんだ⁉
次回予告
蝉! 突撃! 丸くなる! 第四十二話「ゆげにもとけないもの」 お楽しみに!




