第四十話 裏七兜温泉道中人熊伝
前回までの、七兜山無免ローヤー!
徒歩で山越えて温泉に行くことになった無免ローヤー。しかし山は危険なものだし、よりにもよって怪奇溢れる裏七兜。大丈夫なのか? ちなみに水去が穿いてたパンツは紺色! この情報誰得⁉ 無免ローヤーは今日も戦う! 変身! 法に代わって、救済する!
ロー生の立長は博学才穎、というのはちょっと言い過ぎなものの、学卒で名を某有名企業の内定者名簿に連ね、ついで幹部候補コースに任ぜられたが、しかし性だけは狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、一会社員に甘んずるを潔しとしなかった。こっそり法科大学院入学試験を受け、合格を知ってすぐさま内定辞退した後は、故山、七兜山に帰臥し、健全な人と交わりを絶って、ひたすら法学にふけった。会社員となって長く膝を俗悪な上司・経営者・株主どもの前に屈するよりは、法曹になって少しはプライドを守ろうとしたのである。しかし、成績は容易に上がらず、生活は日を追うて苦しくなる。立長はようやく焦燥に駆られてきた。この頃から容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみいたずらに炯々として、かつて大企業の内々定者座談会に出席した頃の豊頬の美少年の面影は、どこに求めようもない。3L時、貧窮に堪えず、将来の不安のためついに節を屈して、再びエントリーシートを書き、オンライン面接を受けることになった。一方、これは、司法試験合格に半ば絶望したためでもある。かつての同輩は既に社会人となり、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中が結婚したりしていることが、往年の儁才(大袈裟?)立長の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として楽しまず、狂悖の性はいよいよ抑え難くなった。幾度か企業の採用面接を受け、何度も何度も「どうして弁護士にならず弊社を志望するのですか?」と聞かれた時、ついに発狂した。ある日、急に顔色を変えて自己アピールをやめると、何か訳の分からぬことを叫びつつそのままウェブ会議アプリの通話を退出して、闇の中へ駆け出した。彼は二度と戻ってこなかった。採用担当者がメールや電話をしても、なんの手がかりもない。その後立長がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
〇
水去、前原、守亜の三人は、らんららんらんららんらん♪ とばかりに浮かれて、七兜山上駅より更に先、山頂付近の山道に足を踏み入れていた。風が涼しく、木々の生い茂る道は、ところどころ舗装されているし、そうでない場所も踏み固められている。山肌をぶった切って伸びる道路に出くわしたり、ゴルフ場に迷い込んだり、奇妙な銅像に出くわしたり、晴れた明るい太陽の下で、適度な山歩きは楽しかった。
「こうして一緒に出かけるの、初めてだねっ!」と前原女生徒が微笑んだ。
「みんなでピクニック、イエーイ、ですわー!」と守亜女生徒も明るく言う。
「うんうん! いやーしかし、いい天気ですなー」
空模様のことなんか話して、やっぱりつまらない男、水去である。山鳥が彼をバカにするように鳴き声を上げた。
とはいえ、ここは七兜山、時には翳を感じることもあったりする。しばらく歩いた頃、ふいと道の左側に目を向けると、看板あるいは標識が木の実のごとく貼り付けられた、一本の枯樹があったのだ。そこには
『干渉は絶対に禁止』『空腹の子には与えよ』『適度な距離感を保』『みだりにころさないで』『加害者は即座に捕獲し処分を』『先着順で譲り合い』『終わったら手を洗う事』『見つからないようご配慮願います』『弱い者をいじめるな』『美味しく残さず感謝』『減らしすぎても増やしすぎない』『皆に可愛がられるよう』『芋食猪子』
などの文字が黒々と存在している。特に意味のない、単なる悪戯モニュメントだと推測されるが、あんまりセンスはよくないし、妙に不気味であった。芋食猪子はちょっと笑えるが。
「こ、この辺り、猪とかよく出るんかな……? そういや、入学説明会で気を付けろって注意喚起してたか……」と水去。
「猪さま、けっこう住んでますわよ! 夜はよくごめんあそばせしたものですわーっ」と守亜。
「いろいろ注文してるけど、そんな簡単じゃないのに。野生動物との戦いって独特の難しさがあるから」と前原。
こういうのに意味もなく出くわすのが七兜クオリティである。別に伏線とかではない。
まあ、気味の悪いオブジェも、ステキに甘いお喋りの前では、笑顔で忘れ去られる景色に過ぎないものだ。三人は他愛ないことを話しながら坂を登り石段を登って、しばらく歩くと山頂に辿り着いた。
テッペンですわーっ、と守亜が綺麗な声で叫ぶ。
七兜山の頂は、そこだけ草木が刈られ円形の広場のようになっていた。奥には「七兜山最高峰」と書かれた丸太が地面に突き刺さっている。以前、野生の犯罪者に象さんを狙われ、待ちぼうけを喰らわされたのもこの場所だった。
相変わらず誰もおらず、静かである。周囲を見回しても、南側、木々の向こう僅かに霞んだ町が見えるだけで、他三方は連なる山々が並び聳えている。クソ山扱いされる七兜山だが、どこまでも雄大な景色だった。
長い髪とワンピースの裾をなびかせ、円周に弾かれるピンボールのようにうろうろする守亜女生徒。一方で水去は、黙り込んだまま周囲を見下ろし、広場の外周部をなぞるように歩いている。
挙動不審な二人に、前原が声をかけた。「そこから何か見えるの?」
水去が振り返った。「いや、見えるわけじゃないんだけど……」と歯切れが悪い。
で、守亜は話の流れをぶった切る。
「なんか、いい匂いのする場所ですわね! 二つ、漂うのは、あっちの方!」
守亜が広場の端で遠くを指差した。水去が彼女の示す方向を覗き込む。
「あっち? ……あ、植物が一切生えてない、焦げ跡……あそこか、結構遠いな……」
「何かあるの?」と、前原が彼の隣に来て尋ねる。
前原女生徒の問いかけにもかかわらず、彼は黙り込んでいた。睨むように目を細め、眸から光が消えている。ほどなく、不安そうに覗き込む彼女の視線に気づいた水去は、小さく微笑んで答えた。
「法律戦士が変身したり、テンションがffになった時とか、七兜山の頂で火薬が爆発すると言われてる。それが起きてるのが多分あそこ。ただ聞くところによると、爆発は、法律戦士から漏れ出た法の力の一部を使って、闇を浄化する中で起きる副産物らしい」
「闇は人のものではありませんの?」いつの間にか傍らにいた守亜が尋ねる。
「これも聞いた話で、全く確証はない……荒唐無稽な話だけど、七兜山の頂には、原初の怪人の亡骸が封印されてる、らしい。あまりに強力で、祓いきれなかったその闇を、歴代の法律戦士の力で、少しずつ無効にしていっているとか……」
水去はいつの間にか、静かに拳を握りしめていた。しかし、顔だけは急に笑顔を作った。「いやー、まっ、昔の話だから、どーでもいいんですがね! 山頂まで来たんだし、ちょっと耳にした噂を確かめたかっただけで! あっ、そうだ、せっかくなので写真でも撮りますか! 最高峰って書いてる前がいいかな? 山歩きを回避した惰弱な神崎君に送りつけてやろう! うむ!」そう言って、珍しく自分から両女生徒にアプローチするのであった。
パシャリ、思い出。
〇
記念撮影を終えて、三人はいよいよ頂の先、七兜山の北面、裏七兜に入る。ここからは、木々が鬱蒼と茂って太陽光を隠し、一応道はあるものの、時に杣道どころか獣道のごとく心もとなく、下る斜面はうねうねと曲がりながらも傾斜が激しい。すぐ横は崖になったりする中、転がる石や積もった落ち葉が、あるいは、飛び出した木の根や繁茂する苔が、足元を不安定にする。
というか、思った以上に、滅茶苦茶険しかった。裏七兜の山中に足を踏み入れるのは初めてで、明らかにリサーチ不足である。嘗めていた。急斜面は一歩踏み出すのにも多大な神経を使い、衝撃が足裏に蓄積されていく。夏の澱んだ空気はじっとりと身体に絡みついて体力を奪う。何度もオオスズメバチが目の前を横切ったりする。前日に雨が降ったのか、道の一部はぬかるんでいて不快だ。
選んだルートは、あまり人の行き来するものではなかったらしい。
しかし前原も守亜もひょいひょいと器用に危なげなく歩を進めるので、問題は専ら水去なのであった。前原女生徒は頑強、守亜女生徒は山慣れしている一方、こいつは体力も知恵もない。
家を出てから四時間ほど、太陽は中天を僅かに超えていた。
「ぜえ……ぜえ……げほっ……」息を荒くする水去。額に汗が浮かんでいる。
「律くん、大丈夫? 少し、休も?」「お昼ご飯にいたしましょう!」
両女生徒に気を使われ休憩を促されて、情けないが頷いた水去。彼はふらふらと道端にあった石に腰かけた。しかしその石は……
全然固定されていなかったのである。石はずるりと滑った。背後は切り立った崖。
「あ」
水去はまたしても崖落ちを経験する。かなりの高さ、はるか下に落ち葉のつもる地面、このまま転落すれば、滑落、遭難、それどころか死亡事故、あまりに間抜けな死、で……そんな思考が彼の頭をよぎる。
けれども、「律くんっ!」という鋭い声が、不吉な想像を引き裂いた。前原女生徒が、崖を、駆け下りて来る! 目が合った瞬間、ぐっと膝に力を溜めて、壁面を蹴った! 彼女の姿が消える!
全身に衝撃があった。
と同時に、「大丈夫っ?」と前原の声が聞こえる。水去がつぶった目を開けると、至近距離に彼女の綺麗な眼があった。無事に着地できたのか?「あ、ありが――」と言いかけた水去は、柔らかくも力強い感触が、己が全身を支えているのに気づく。とても確かで、安定した状態。
水去青年は、前原女生徒に抱きかかえられていた。山中にて、お姫様抱っこで……
「……!」あまりのことに、彼は言葉を失っていた。何も言えない。
「……!」あまりのことに、彼女も言葉を捨てていた。何も言わない。
永遠にも思われた一瞬を見つめ合い、前原はそっと水去を下ろすと、静かに二人は離れた。視線は何も見ず(「ちょっ、何してるんですのーっ⁉」)、耳には何も入らず(「後ろですわ後ろ! ヤッバいですわよっ!」)、口元は何も言わない(「後ろっ! 背後っ! うっしっろっ! 振り返ってーっ!」)。不思議と濡れた空間が、二人を包む。セピア色の静寂、優しく咲く花、恥じらい、微睡み、夢……
「いい加減になさってっっっ! 食肉目クマ科! KUMACHAN! 熊ですわあああーっ!」
「「熊⁉」」
崖の上からの叫びにようやく気付いて、二人が素早く振り返る。見上げた先に、ツキノワグマがいた。立ち上がったその背丈は二メートルをゆうに上回り、一般的な体長を逸脱している。異常個体。
黒い体毛、伸びた爪、巨大な前足が人間を襲って振り下ろされる!
「うおおおお! 変身!」
水去が素早く六法を装着、無免ローヤーに変身しつつ、両腕を交差させ熊の攻撃を受け止めた! 爪が法の鎧を引っ搔き、二百五十キロを超える熊の体重が、ちょっと硬いだけの矮小な存在を、容易く圧し潰さんと伸し掛かる! 無免ローヤーの膝が折れ、身体が沈んだ。「律くん!」「水去さま!」しかしすぐに持ち直した! 肢は再び真っ直ぐ伸びて、敵を押し返す!
「おおおおおおっらああああああああっ!」
無免ローヤーの両腕が、黒い巨体を撥ね退けた! 予想外の抵抗に熊の上体が泳ぐ。されど猛獣は、未だ攻撃の姿勢を崩さず、再び敵を引き裂かんと迫る!
瞬間、前原女生徒が、熊の懐に踏み込んだ。
「律くんにっ」
大きく引いた右拳が、敵に突き刺さる。
「触るなっ!」
突き出された拳打は熊の腹部を抉った。少し遅れて、獣の全身を衝撃波が駆け巡り、辺り一帯の空気が揺れる。そうして、巨体が、飛んだ。
木々を薙ぎ倒して、熊が飛ぶ!
戦車砲が発射されたかのような轟音と共に、幾本もの樹木が折れて倒れ、ようやく潰崩の終わった遥か向こうに、黒い塊が見えた。山肌に形成された一本の道を、土煙が漂っている。
圧倒的大破壊
その根源に前原女生徒が立っていた。
「前原、さん……?」無免ローヤーが恐る恐る声をかける。
「大丈夫? 律くん、怪我してない?」前原が振り返って、法の鎧に触れた。
「あ、いや、俺は問題ないです、ありがとうございます。それより、あの、熊が……」
無免ローヤーが先を指差す。
同じ方向を向いた彼女の顔から、急速に血の気が引いた。
「あっ……きゃああああああっ! やりすぎちゃったっ! 生きてる? 生きてて! 殺しちゃうなんて嫌あああああっ!」
前原女生徒が慌てて駆け出した。無免ローヤーもその後を追う。破壊の跡を進み、黒い塊の前に立つ。前原を一応庇うようにして、無免ローヤーが、そおっと熊をつついた。果たして哀れな犠牲者は、生きているのか⁉
熊がむくりと顔を上げる。つぶらな黒い瞳が、無免ローヤーの複眼と相対する。
「その姿は、まさか、無免ローヤーではないか?」
突き出た獣の口が、唐突に喋った。
「い、いかにも、自分は無免許の法律戦士、無免ローヤーである」
水去は慌てて答えた。どうにも台詞が元ネタと逆転している気がする。
〇
人熊伝。人が熊になる話。
古今東西、変身譚は何度も語られてきた。人は虎となったり、毒虫となったりする。あるいは改造人間となったりするのも、ここに含まれるのかもしれない。
目の前では、熊が胡坐をかいてペラペラ喋っている。よく考えれば不思議だったが、その時、水去と前原は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。ぶっちゃけ、二メートル越えの熊をぶっ飛ばした前原女生徒のパンチ力の方が、よっぽど異常であるし、水去だって異形の存在となれる。超自然の怪異なんざ、それほど珍しいものでもない。これが七兜クオリティなのだ。熊はロー生の立長を名乗る。水去は、立長氏がどうして今の身となるに至ったかを尋ねた。彼は次のように語った。
今から一年前、自分が某企業のオンライン面接を受けた時のこと、必死で作り笑いを浮かべていると、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。面接の状況は芳しくなかったから、自分は頭の悪そうな元アメフト部風筋肉を罵倒してから、パソコンの電源を落とした。声に応じて外へ出て見ると、声は山の上から頻りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けて行く中に、いつしか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、ドスドスと山頂を越えて行った。気が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じているらしい。谷川に挑んで姿を映して見ると、既に熊となっていた。
(話が長いので中略)
羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の勝ち得た違憲判決が判例集に掲載されている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。法曹に成りそこなって熊になった哀れな男を。
(意味のない自嘲が続いたので中略)
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて就職した連中との交わりを避けた。内定辞退の連絡をしたあの会社の担当者は、己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、嘗て某有名企業の内定を勝ち得た自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は法曹として名を成そうと思いながら、進んでオフィスアワーに行ったり、求めて学友と交わって自主ゼミに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物たる就活界隈の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して受験勉強しようともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として社畜に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。熊だったのだ。これが己を損ない、両親を苦しめ、キャリアを傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ。ロースクールは何事をも為さぬには余りに空虚だが、何事か為すには余りに忙しいなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい学力でありながら、体育会系感性を専一に磨いたがために、堂々たる社会の歯車となった者が幾らでもいるのだ。熊と成り果てた今、己は漸くそれに気づいた。それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。己には最早企業戦士にも法曹にも成ることが出来ない。たとえ、今、己がどれほど上手く上司の靴を舐めようとしても、あるいは、どれほど上手く教授の靴を舐めようとしても、害獣として駆除されるだけだ。まして、己の頭は日毎に熊に近づいて行く。どうすればいいのだ。ハチミツでも舐めてればいいというのか? 己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。そういう時、己は、このクソ山を走り回り、空谷に向って吼え散らす。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で空飛ぶ飛行機に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。しかし、飛行機は夜空にピカピカ光っているばかり。山も樹も月も飛行機も、一匹の熊がいきり立って、興奮しているとしか考えない。天に踊、るのはこの重い肉体では無理だが、木に登ろうとして落ちたり、狂暴な猪に追いかけまわされ嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない(子連れの猪は大変危険である)。
そこまで話終えて、熊、いや、かつての立長青年は、堪え得ざるが如き悲泣の声を洩らした。変身を解いていた水去の前で、一匹の獣の肉体が、悲しみに震える。
「これが、熊となってしまった訳だ。己は法曹の資格を得るだけの才能もなく、さりとて、身一つで社会にぶつかっていく勇気も無かった。怖かったのだ。何も持たずに、己を晒すことが」
猛獣の告白に、しばらく水去も前原も黙り込んでいた。そんな二人を気遣ったのか、立長氏が自嘲気味に笑う。
「しかし己は、もう、この状況をどこかで受け入れている。人の社会が、己にはかえって恐ろしい。それも含めて、やはり臆病だったのだ。君たちが気に病む必要はない。さあ、今聞いたことは忘れて、元居た場所に戻りたまえ。酔わねばならぬ時が、来たようだから」
熊が視線を逸らす。しかし水去は、真っ直ぐ相手を見つめたまま会話を続けた。
「なるほどそうですか。ただ、どうにも絶望して怪人に堕ちる時と状況が似てるような気がします。そこが気になる」
「……怪人、ああ、そんな噂を聞いたこともあった。誰もいない山中に閉じ込められた今となっては、遠い話だ」
「なんで怪人じゃなくて熊になっちゃったんでしょう? 七兜山のエネルギーが完全に闇と結びつかなかったのか……それなら、ちょっと試せることもありますけど。うーん、できるか……?」
「これ以上、何をどうするというのか、この己に」
座り込んだ熊と、その前に立つ水去の視線は、ちょうど同じくらい。彼が獣に近づく。不用意な行動に、前原と、立長氏までも身じろいだ。水去がまるで熊に口づけするかのように、その頭を両手で掴んで引き寄せる。「律くん⁉」「な、何をするっ!」一人と一頭が悲鳴を上げる。しかし彼は、「臆病な自尊心、尊大な羞恥心、か……」などと訳の分からぬことを呟きながら、熊に迫る。
こつん、と両者の額がぶつかった。
その瞬間、水去の眼前で、獣の黒い肉体にヒビが入った。
「ギャオオオオオオオオオオオオ!」
熊が悲鳴を上げる。分厚い毛皮が裂け散り、中から、一人の青年が姿を現した。服はところどころ裂け、全身が泥に汚れているが、そこにいるのは紛れもなく人間。猛獣ではなく、人であった。
「お、己は、戻、った、のか……?」
立長青年の、人としての喉から、久しぶりに声が漏れた。
これは、人熊伝。人が熊になる話。不条理に人ならざる姿へ変わってしまった者の、哀しいお話。しかし、世界が意味もなく不幸を与えるなら、意味もなく幸福が与えられてもいいだろう。語られる変身譚の多くは、結局元の姿には戻れずに終わる。だが、本当のところ、人はやり直せるのだ。過ちを犯して、人ならざるものに身を堕としても、必ずやり直せる。元に戻ることができる。
綺麗事だと言うだろうか。
けれども、それを実現するのがヒーローなのだ。熊となった立長青年が出会ったのは、ヒーローだったのである。
次回予告
柳眉! 秋波! 遠山の眉! 第四十一話「心臓ばっくばくになる」 お楽しみに!




