第二十一話 結婚について考える?
前回までの、七兜山無免ローヤー!
自分が苦戦した相手をあっさり倒されて面目がない無免ローヤー。非弁ローヤーの変身者、網言正刀の法律係数は九十一だ! 凄いぞ! それで水去、お前は一体どうなんだい! 無免ローヤーは今日も戦う! 変身! 法に代わって、救済する!
夜の七兜山は、真っ黒な木々が生い茂り、街灯もまばらで、人目を忍ぶ暗闇が満ち満ちている。例えば、誰かが誰かを襲っても、一切気づかれることがないだろう。夜の帳が下りれば、獣や昆虫や、人ならざるものばかりが息づく、隔絶された空間なのである。
そんな暗い坂道を、必死で走る足音があった。
「はあっ……はあっ……ぐうっ、く、来るなっ。来るなよっ」
そう叫んだのは、かつての怪人痴漢男、知間青年であった。怯えたように、必死に走る。階段を昇り、小さな橋を駆け抜け、悲鳴のような息を上げて、走り続ける。彼の背後では、暗闇の中に、無機質な光が浮いていた。
とうとう足がもつれて、知間青年は転倒する。周囲にはただ鬱蒼とした木々がそびえ立ち、逃げ場は、どこにもない。
「何だよっ、一体何なんだよっ! 水去じゃないんだろっ? 誰なんだ! 僕に、何の用があるんだよ!」
「用? そうだなあ、確かに君に用があるかなあ……怪人痴漢男だった、君にね……」
静寂の山に声が響いた。知間青年を見つめる複眼の光が、暗闇の中に滲んでいる。コツ……コツ……と、硬質の足音が響く。そうして、法の鎧を纏った法律戦士が、その姿を現した。
「僕は、もう痴漢なんかしない! 無免ローヤーが僕を救ってくれた!」
知間青年が法律戦士を見上げて叫ぶ。彼を見下ろす複眼は、冷たく光り続ける。
「救った……? ふうん……君は、あの莫迦な勘違いヒーローと、感動ごっこをしたってことかな……」
「違う! 感動ごっこなんかじゃない。僕は、僕はもう怪人じゃない!」
「そうかなあ……ああ、なるほど……哀しい怪人はヒーローに倒されて、全てをカタルシスで流す。一件落着大団円だ。そうしたいんだろ……? ただ感情によって、全てを有耶無耶にするというわけだ……」
「それはっ、でもっ、犯罪は遡及的に無効になったって」
「ああ、そうそう……確かに、僕たち法律戦士が怪人を倒せば、怪人の犯罪は遡及的に無効になる……だが……」
法律戦士は天を仰ぎ、胸の前で右手首を握った。空には月もない。夜闇の中で眠っていた烏が突然目覚めて、ガアガア喚き散らす。
「君が罪を犯したって事実は、何も変わらないんじゃないかなあ……?」
その言葉に、知間青年は押し黙ってしまった。法律戦士はゆっくりと彼に近づく。
「罪を犯したのに、偶々君が怪人で、法律戦士に倒されたから、何の罰も受けない。そのまま、全てを無かったことにして生きていこうとするなんて、おかしいと思わないのかなあ……?」
法の鎧を纏った腕が動いて、知間が着ているシャツの襟を掴んだ。尻もちをついていた彼を強くひき寄せ、無理矢理立ち上がらせる。複眼が至近距離で彼を見つめた。
「知間裕樹……君が怪人だったこと、君が不同意わいせつの罪を犯したこと、人の身体を弄び、尊厳を蹂躙し、傷つけたこと、その事実は消えない……お前がどう変わろうと、怪人でなくなったとしても、お前の罪は許されない……!」
「……ううっ」
知間青年は何も反論しない。法律戦士の複眼には、ただ、彼の泣き出しそうな顔が映っているばかりだ。
「お前は間違った……間違った者には、罰を与える……!」
法律戦士が手を離して、知間青年を投げ捨てた。そうして、彼の身体を二度、三度と蹴り上げる。襟首を掴んで持ち上げ、地面に叩きつける。再び立ち上がらせ、腹部を殴打、下がった顔面を膝蹴り。また突き放して、倒れた身体を踏みにじる。そうやって、執拗な攻撃が続いた。
どれほど時間が経ったのだろうか。泥と血に塗れた知間青年は、少しも動かず、腹部を守るように小さく縮こまっていた。もう、悲鳴も上げない。
法律戦士が彼を見下ろして言う。
「一生、己の罪を抱えて暮らせ……! お前は、犯罪者だ……!」
そうして、知間青年を断罪した法律戦士……非弁ローヤーは、彼に背を向け、硬質の足音を響かせて、暗闇の中に消えていく。その複眼が放つ冷たい光だけが、怪しく揺れて、七兜山の夜の底に、しばらく跡を残した。
○
「……やばいな」
法律文書作成演習の講義が終わった。この授業は、受講生が問題を解いて、文書を作成し、現役弁護士に採点してもらう、というものである。それで、水去は返却された自分の答案を見ていた。講評欄には一言、「字が綺麗で読みやすいです」の言葉と共に、0点、の赤文字が存在感を放っていた。完全に論点を外したのだろう。綺麗な字で、無駄なことを延々書いていたというわけだ。
「律くん!」
声を掛けられた水去は、持っていた紙を慌ててポケットに突っ込む。見れば、前原女生徒が席に座る彼の前に立っていた。
「ああ、前原さん……どうも……」
「律くん、今日、お昼一緒に食べない? あ、お弁当作ってきてたりする?」
「いや、何も持ってきてない」
「じゃあ食堂行こうよ! ちょっと相談したいことがあって」
前原がにっこり笑った。陰気な零点野郎をランチに誘ってくれる、彼女のその優しさに救われつつ、水去は己が財布にいくら入っているのか思いを巡らせていた。確か、五百円玉があったはず、なら、ぎりぎり足りるか……
神崎がお嬢様方に拉致されてから数日、彼はまだ帰って来てなかった。自分一人だと、作る張り合いも食べる気力も湧かなくて、水去は弁当も用意しなくなっていた。昼食抜きで金勘定をしていたので、今から大学食堂に行くとなると先々で少し困る。しかし、せっかく前原女生徒が誘ってくれているのだから、行かないわけにはいかない。彼は荷物をまとめて立ち上がった。
大学の生協食堂に向かう道すがら、前原はある女生徒を水去に紹介した。いや、紹介といっても、同じクラスの人であり、講義の中でソクラテスを受けているのを見ているので、別に全く知らないわけではないが、話をしたことはなかった。その女生徒は、怒甲という苗字で、「怒」という文字に似合わず、小柄で優しそうな雰囲気だった。怒甲百合女生徒。なんだかぼんやりした人だなあ、と水去は思った。それにしても、前原女生徒が彼女を紹介する意図がよく分からない。
生協食堂では、水去は一番安い主菜のささみチーズカツと、ライスのSサイズ、それからきんぽらごぼうの小鉢を取って、なんとか五百円以内に収めた。会計を終えて、お茶を注ぎ、皿の載ったトレーを持って、席を探す。久しぶりの食堂は、それなりに混雑していた。
六人がけテーブルの一番端に水去が座り、その正面に前原が、彼女の隣に怒甲女生徒が座る。「あっ、天祢さん!」という声がして、どこからともなく現れたグラサンの駒沢が、「水去ぃ、抜け駆けすんな!」と、彼の隣に座った。
いただきます、と水去はささみチーズカツを齧る。揚げ物は調理も片付けも面倒なので、自炊では滅多にやらない。それで、久々に食べるフライをとても美味しく感じた。
「ねえ、律くん。結婚についてどう思う?」
出し抜けに前原がそう尋ねる。水去はボハッとささチーを吐き出しかけた。隣にいる駒沢も驚愕の表情で、グラサンがずり落ちている。
「けけけ、結婚⁉」と水去。
「結婚てーと、憲法二十四条一項が両性の合意のみに基づいて成立すると定める、例のあれですかいっ?」と駒沢も言う。
「そうだけど、私、そんなに変なこと言ったかな?」前原はきょとんとしている。
怒甲女生徒は顔を赤らめていた。その様子が尋常ではないので、水去と駒沢は彼女の方を見る。すると彼女はますます恥ずかしそうにして、黙り込んでしまうのだった。前原が、「大丈夫、駒沢君も元怪人で、事情を知ってるから」と隣の怒甲女生徒に小声で言った。
水去は話の展開が読めずに、無言できんぴらを口に運ぶ。駒沢はカツ丼を食っていた。前原の前には油淋鶏が、怒甲女生徒の前には小さなハンバーグがある。
「お二人は結婚願望がお強い感じなのですかっ! 俺も、俺も強いよっ! 結婚したい!」
駒沢がともすればセクハラと受け取られかねないようなことを言う。怒甲女生徒はまた顔を赤らめる。前原は少し困ったような顔をして「いや、怒甲ちゃんはもう結婚してるから」と答えた。
湯呑を口に運んでいた水去が、また中身を吹き出しかける。
「クラス違うけど、同じ2Lの大澤って人。だから、怒甲は旧姓なんだよね?」
前原の言葉に怒甲女生徒が頷く。よく見れば確かに、彼女の左手薬指には小綺麗な指輪が光っていた。「が、学生結婚……っ!」さっきまで騒いでいた駒沢が、いざ本物の既婚者を前にして、ぷるぷる慄いている。
「ま、まあ、普通に就職すればもう働いてる年齢だし、結婚も普通だよな。子供がいたっておかしくはないくらいだし」
水去がそうフォローしたところ、いい歳してまだ学生やってるという、非情に重い事実が、その場にいた全員の頭にドーンと落下して、暗い空気が漂った。
例えば、彼らの隣のテーブルでは、学部生らしきフレッシュな男女が騒いでいる。別のテーブルも、旅行の相談中で楽しそうだ。哀しき法科大学院生たちの座るこのテーブルだけが、沈み過ぎてかえって浮いているくらいだった。
「あら、面白い話をしてらっしゃるのね」
そんな沈んだテーブルに、新たな利用者が現れる。それは、水去たちと同じクラスの、守亜帝子であった。こちらも水去は交渉はないが、ヘンテコな似非お嬢様口調を授業中でも頑なに貫く人なので、印象に残っていた。まあ変人だろう。水去と同じささチーをトレーに載せた守亜が、「お隣に座ってもよくって?」と言いつつ、答えを聞く前に怒甲女生徒の隣に座った。
「結婚がどうとか聞こえましたけど」と言いつつ、守亜女生徒が味噌汁に口をつける。
「結婚出産育児に親の介護が普通の歳になっちゃったなという話を」と水去。
「ズズ……で、水去さまは、結婚についてどうお考えですの?」
「お、俺?」
味噌汁をすする守亜帝子から飛び出た思わぬ質問に、水去は困った顔をした。前原が彼を見つめている。それで水去は、「まあ、愛し合う二人が結婚したけりゃ、すればいいんじゃないでしょうか」と、特に意味のないことを言った。
そこに、更なる乱入者現る。
「おや水去クン、楽しそうだね。結婚観について語っているのかな。意外だなあ」
「網言……」
湯気の立つ野菜の中華煮、それから小鉢数個をトレーに載せた網言正刀が、微笑みを浮かべて立っていた。彼は空いていた最後の席、駒沢の隣、守亜の正面に座る。
「網言さま、わたくし、貴方に興味があってよ」と守亜が言う。
「網言君って、確か、大学院の入試成績一位なんだよね。学部も東の都大学だし」と前原。
「いや、僕なんか、まだまだ」と、網言は女性陣にスマイルを向けた。
そんなやり取りを見て眉間に皺を寄せる水去に、駒沢は何を勘違いしたのか、「おい、なんかいけ好かない奴がきたな。闇夜の晩に斬りつけるか?」と小声で犯罪を教唆する。「アホか」と、水去が答えていると、二人のやり取りが聞こえていたのか、網言青年が彼らの方を向いて、「やあ、駒沢泰治クン。僕は君とも仲良くしたいなあ。サングラス、とても似合っていると思うよ。よろしく」と手を差し出した。「ええ……」とグラサンが困惑して、握手を拒否する。「爽やかイケメンは許せん。存在するだけで、俺が相対的に不幸になる」と網言の手を、しっしっ、と打ち払った。
そんな微妙な空気を打ち消そうと、前原が口を開いた。
「網言君って、りっ……水去君と仲良かったんだね。知らなかった」
「そうだね。そう、僕と水去クンは仲が良い……」微笑む網言。
「あー、こいつはその、いわゆる」と水去が言いかける。
「ねえ! 水去クン! さっきの結婚の話はどういう意味なのかな? 詳しく説明してほしいなあ!」
網言が水去の言葉を打ち消すように言った。「……? 言葉以上の意味は、特にないが」と、水去は不審そうに答えた。「あるじゃないか! 例えば、愛し合う二人、とは、どういう心理状態を指すか、とかね!」網言が更に言葉を被せる。
「わたくしは、素適な香りがする方を愛しますわ」と守亜帝子。
「俺は、前原さん、君を愛しているよ、ベイビー」と駒沢。
「私は、夫……」と、怒甲女生徒が小さく言う。
夫! と皆の注目が集まった。さすがに既婚者は言うことが違う。ほええー、と、ささチーを齧りながら、水去も素直に感心した。
そうやって会話は進んでいって、当初前原が話そうとしていた「相談」の内容はよく分からないままになった。
○
食事を終えていい時間にもなったので、生協食堂を出る。皆とは少し離れた場所に立って、ぼんやり空を眺めていた水去の下に、網言が歩いてきた。
「やあ、水去クン。元気かな?」微笑む網言。
「白々しいなお前。クン付けなんかしやがって。何を考えてる?」と水去は答えた。
その言葉に、網言は作り笑いを消した。
「僕にもいろいろ事情がある。他の生徒とも良好な関係は保たないとな。ああ、それについて、一つ頼みがある。僕が非弁ローヤーであることは、黙っててくれないか?」
「はあ? 別に構わねえけど、そんなのすぐバレるだろ。戦ってたら」
「僕は君とは違う。上手くやるさ。そのためにも」
言い終わらないうちに、網言が素早く動いて、水去のポケットの中のブツを奪い取った。いわゆる零点の答案である。
「これは預かっておこう。何かの役に立つかもしれない……しかし君、本当に無免ローヤーなのかなあ? 信じられないなあ……ふっ、零点って……」
「お前さあ、中学生じゃあるまいし、そんなのが脅しになると思ってんのか? ……返せよ、おい……」
水去が手を伸ばすのを躱して、網言が不敵に笑った。その時、「網言くーん、りっ、水去くーん。行かないのー?」という声が響いた。前原が向こうで手を振っている。網言はそんな彼女に「ああ! 今行くよ!」と笑顔で返す。そうしてまた、水去に冷たい表情を向けた。
「そうそう、赤原教授に借りて、君が書いた報告書を読ませてもらったよ……怪人登記女と怪人窃盗男か。随分苦戦したようだけど……」
「は? 何が言いたいんだ? もう、終わった話だろ」
「ふん。君にとっては終わった話なんだろうねえ……」
水去と網言がじっと睨み合う。そこに前原女生徒が来て、「どうしたの?」と声をかけた。「ああ、すまない。水去クンと少し、親睦を深めていたんだ」と、さっきまでとは一変して、網言は清潔な表情を作り出す。
並んで歩いて行く二人を、水去は困惑の表情で見つめていた。
○
イリーガルローヤーの資格者たちともさらに別の場所で、守亜女生徒が一人、恍惚の表情を浮かべていた。
「ああっ、素適な香りの方が二人もいましたわ! なんと幸運なんでしょう! 隠しているけれど溢れ出している、とっても芳醇な濃い香りと、それから、まだ顕わになっていない、内に秘められた小さな香り……! 素適ですわ! 素適ですわ! サイッコーですわ! ああああ、興奮しちゃいけないのに! 破廉恥! 駄目ですわよ……まだ、まだ、もっと待たなきゃ……じっくり熟成させて、育てて、育てて……わたくしだけのものにする……楽しみですわ! 楽しみですわっ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら、守亜女生徒はどこかへ向かっていく。
やはり変人であった。
次回予告
愛! 金! 暴力! 第二十二話「死ぬ気で貢げこの俺に」 お楽しみに!




