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蜜柑の香りは霜風とともに

作者: 雨桐ころも
掲載日:2023/03/10

「本当にいいのですね」



  バックミラー越しに、皺に囲まれた団栗眼と目が合う。曇ったリアガラスの外は暗雲に覆われ、街全体が沈んで見えた。ひんやりとした冷気が右頬にまとわりついて離れない。苦笑しながら頷くと、源さんは何も言わずに再び視線を前に戻した。無線機から時折途絶え途絶えのノイズが聞こえ、メーターが三千円に上がった。



「... 源さんは、うちの蜜柑好きでした?」


「そりゃあ、もちろん。あんなに旨い蜜柑はなかなかないよ」



 真っ白な歯を見せて笑う源さんに、胸がちくりと痛む。無意識に握った左手の薬指に、何年も連れ添った金属の感触はもうない。そういえば今朝、半分だけ記入された離婚届と一緒に机の上に置いてきたのだと思い出す。将来は素敵なお嫁さんになると母の前で笑い、憧れ続けてきたものを、たった数年でこんなにも呆気なく外してしまうとは。じんわりと熱くなった目頭を乱暴に拭い、大きく息を吐いた。



「旦那が無我夢中に愛情を注いだ蜜柑が美味しくないわけないんですよ。ほんと、口を開けば蜜柑のことばっかり!毎日土と汗まみれで帰ってきたと思ったらすぐ寝ちゃって、一生懸命作ったご飯だって『美味しい』の一言もなく飲み込むように食べて......... 」



  最後の方は喉が張り付いて、言葉にできなかった。つい感情的になってしまった自分が恥ずかしくて、かあっと全身が熱を帯びていく。恥ずかしい。いつも感情的にだけはならないように心がけていたのに。



「す、すみません。こんなこと言ってしまって」



 顔が上げられない。いくらうちの蜜柑を買ってくれる常連さんだとは言え、こんな夫婦間の事情を話されたって良い気はしないだろう。もう一度謝ろうと顔を上げた時、再びバックミラー越しに目が合った。



「いいんですよ、今までよくがんばってこられましたね」



 少し細められた真っ黒な瞳はとても優しくて、何年も心の中に蓄積された暗い感情を綺麗に洗い流してくれているようにさえ感じられた。


 いつの間にか窓の外はたくさんの木々に囲まれ、見たことがない景色に変わっている。心地良い静寂に包まれた車内で、ただ緩やかに時間だけが流れていった。


 やがて、目の前には一本のトンネルが現れた。福井と滋賀を結ぶ狭いトンネル。このトンネルを抜ければ、数年暮らした福井を捨てて、しばらくの間面倒をみてくれるという友人の待つ滋賀へと行けるのだ。



「蜜柑、食べても良いですか」


「良いですよ」



 カバンの中から手の平にちょこんと乗るくらいの綺麗な蜜柑取り出す。いつも食べさせてもらっていたのは、地面に落ちてしまったものや傷がついて出荷できないものだけだった。それがなんだか悔しくて、最後ぐらい良いだろうと一番美味しそうだったものをこっそり盗ってきたのだ。


 真ん中にぶすりと人差し指を差し込めば、爽やかな香りが車内を包み込む。皮の中にぎっしり詰まった実はたくさんの果汁を詰め込んで、今にも爆発しそうだった。口の中に放り込んで、程よい酸味が口の中に広がったのと同じタイミングで車はトンネルの中へと入った。



「今までで一番美味しい」



時刻は午前六時三十分。いつもなら朝ごはんを作り終え、旦那を起こしに行っている時間。それなのに自分はのんびりと、普段は食べられない綺麗な蜜柑を味わっている。その背徳感がさらに蜜柑を甘くしているような気がした。


 あっという間に完食し、トンネルも終盤に差し掛かった頃、スマホがぶるっと震えた。暗闇の中で光るディスプレイには午前六時三十三分という時刻とともに「考え直してくれないか」というメッセージが表示された。きっと起きてすぐ、机の上のものに気づいて慌てて連絡してきたのだろう。



「トンネル、抜けますよ」



源さんの声とともにいきなり明るくなった視界に、少し目を細める。いつの間にか空は晴れていて太陽が低い位置でキラキラと輝いていた。許可を取って窓を開けると、冷たく清々しい空気が肺の中に流れ込んだ。


指にこびりついた蜜柑の白い繊維を外に払い捨ててから、スマホへと手を伸ばす。



「今までありがとうございました、さようなら」



それだけ打ち込んで、スマホの電源を切った。もう、車内に蜜柑の香りは残っていなかった。

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